どもども。
キンジです。
理想の人間関係や、
理想の人との関わり方って言うのを、
所謂、
概念化してしまったものって言うのが、
「相互依存。」と呼ばれるものではある事でしょう。
それって言うのも、
結局は、
人は何かにすがってしまいガチになる存在でもあり、
特に、
それが特定の個人であればあるほど、
依存してしまいガチでもあるって事なのです。
「依存の何が弊害になるか??」と問われれば、
他とはちょっと違った系統の、
新しいチャレンジをしていき辛いとも言えますし、
まぁ、
その依存している人って言うのが、
新しもの好きな人であれば、
上記の弊害が、弊害とはならないとも言える事も無いのでしょうが・・・・・・・、
その依存による行動と、
自分自身の、
「在りたい自分。」ってものに、
ズレが大きくなければ問題は無いのでしょうが、
そこにズレが生じて行く事によって、
段々と、我々は、
群れているはずなのに、
「孤独感」を抱えてしまうと言う風な、
一種の、
アイデンティティー欠如による、
ジレンマを抱えてしまいガチでもあるって事なのです・・・・・・・。
だからこそ、
依存する人が存在していても、
キチンと、
「個人からの見解を大切にする。」って試みを、
誰しもが、
自分自身で、自己責任として、
行って行く必要性もあるとは言えるのです。
まぁ、勿論、
その為には、
一種の、見た目からの孤立とか、
個人からの行動ってものが、
大切になるとは言えますが・・・・・・・・、
ここで注意も必要となるのは、
孤立とか、個人単位での、
弱点となるのは、
何よりも、
心の充実度ってものにはなってくるものではあるでしょう。
だからこそ、
ただ単に、
「面倒くさい。」ってだけで、
人との交流を回避するだけじゃあ、
心の充実度が低くなった隙に、
何かのセールスに、飛びついてしまいやすくなってしまうものでもあり・・・・・、
だからこそ、
一人からでも行えるような、
行動ベースにおいて、
自分軸と言う風な、
その行動そのものに、
「やりがい」とか、
「充実感」とか、「楽しさ」を伴うものが、
必要となってくるだろうし、
だからこそ、
孤立した場合においても、
その応用・流用において、
自分自身の、心のマネジメントを行う事が、
可能になって行くものだと言う事なのです。
また、
自己犠牲って概念ってものがあるのですが・・・・・・、
自己犠牲ってものは、
言わずとも知れた、
「自分自身を犠牲にする。」って概念でもあり、
所謂、
零戦の特攻イメージでもあるのですが・・・・・・、
何か、
大義の為に、
自分自身の命でさえも、犠牲とするのを、
省みない精神ではありますね・・・・・・??
これ自体は、確かに、
尊い精神ではありますが・・・・・・、
少なくとも、
その大義ってものは、
「自分自身で選んだ大義であるか??」って事が、
重要な要素にもなってくるだろうし、
その大義ってものを、
「自分自身で、掘り下げて言語化しているか??」って事もまた、
とても大切な要素とは、なってくるものなのでしょう・・・・・・!!
要するに、
大義ってものは、
自分の為からで構わないものでもあるでしょうし、
要は、
「自分だけで終わらさない。」って事が、大事になるでしょうし、
だからが故に、
自己犠牲とは、なっていかない代物となり得るものでもあるのです・・・・・・!!
だけど、
勿論、
最初の段階において、
自分の為で、個人から初めて行くと、
それは大義たり得ないものにはなって行くものではある事でしょう。
だからが故に、
キチンと、大義たり得るまで、
抽象度レベルを高めて行く試みが必要となり、
その言動を持って、
応用・流用の試みにおいて、
人の為、社会の為、世界の為となして行くって事が、
大切とはなりますが・・・・・・・、
社会はともかくとしても、
世界ってものは、
個人の主観から見れば、
「思い込み。」によって出来上がっている、
ある種の、
脳が描いて行く幻想でもありますから・・・・・・、
尚更、
物事の意味付けを、自分自身で、自分自身の表現で定義してみたり、
自分自身の、物事をみて行くフィルターってものを、
自分軸の言動を持ってして、
自分にとって、都合の良い解釈にして行く試みってものも、
大切な要素となり、
勿論、
それそのまんまでは、
個人からだけの見解に過ぎないものでしょうから・・・・・、
三密ではありませんが、
ある種の、
自分軸の棲み分けでもあり、封印ってものもまた、
必要不可欠なものには、なって行くものではある事でしょう・・・・・・・!!
要するに、
自分の為に、
自分軸として、
人の為、
むしろ、社会や世界のために、
棲み分けでもあり、封印を行うって事ではあります。
何故ならば、
自分軸ってものは、
結局は、
「思い込み。」の押し付け合いの世界観でもありますから・・・・・・、
そこだけでやりとりをすれば、
それは、決して、
分かりやすく戦い合わないとしても、
その本質的には、戦いでもあり、
戦争であるだろうって見解でもあるからなのです・・・・・。
だからこそ、
その自分軸の、
言動の抽象度レベルを高める試みを、
止めてはいけないとも言えるのでしょうし、
自分軸を持っていないって認識している人にも、
ある種の注意が必要であるとも言えるのです。
何故ならば、
自分軸って概念自体が、
もう既に、
ある種の普遍性に近いような、
応用・流用性を持っているとも言えますし、
ある人から見れば、
自称無い人の中にも、
当たり前に、自分軸が見えるとも言えますし・・・・・・・、
まぁ、結局は、
言動を持って、体現して行くものでもあるのですから、
誰しもの、
「今こここの瞬間から。」創造して行く事が出来得るものとも言えるのでしょうが、
だからこそ、
その体現してきた履歴って言うよりは・・・・・・・、
体現してきた過去ってものが、
例え、
「今こここの瞬間から。」、
よ〜いドンで始めたとしても、
既に、
アドバンテージが出来上がっているものだとも、
定義出来てしまえるのです・・・・・・!!
まぁ、
結局は、
どんどん楽になって行くとも言えるだろうし、
どんどん、省エネになって行くとも言えるのでしょうし、
依存でもあり、犠牲から始めたとしても、
自分の為からでもあり、
自分軸からとして、
再スタートすれば良いとも言えますし、
それは、
いつから初めても、決して遅くは無いでしょうし、
その試み自体が、
相互依存の為とはなって行くものなのでしょう。
それらを踏まえて、
実は、
過去に掘り下げておいた記事は下記から・・・・・・・・。
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