経験科学のスタイルこそが、情報社会には必要?? | キンジの自分軸哲学

キンジの自分軸哲学

~自分軸を掘り下げて、リアリティに、付加価値にデザインする為のブログ~

 

 

どもども。

 

キンジです。

 

 

当たり前の事ではあるのですが・・・・・・、

何かを経験した上での情報ってものと、

ただの話のネタに過ぎない情報ってものには、

大差があってしかるべきものではあるのですが、

そもそもとして、

 

その情報に対する、情報弱者ばかりを、

集めた状態でもあり、

そのような場においては、

上記の判断ってものが、

 

凡人には出来ないものでもあり・・・・・・、

 

もっと言えば、

大衆化でもあり、

所謂、

「群れてしまう。」事により、

我々は、

 

その判断ってものが、一層、

つきづらくなってしまうものではありますね・・・・・・・(^^;)

 

 

 

だからといっても、

そのような判断ってものは、

 

声を大にして、叫べば叫ぶほど、

どんどん陳腐化して行く代物でもありますから・・・・・・・、

尚更、

 

その判断ってものは、

各々、

個人個人に任される傾向がある方が、

より、健全的な場であるとも言えますし、

だからこそ、

 

その全体的に、共有するべき情報ってものは、

あまり、

 

差し支えが無い情報が相応しくなるものでもあり、

もっと言えば、

 

「禁止事項の共有。」ってところに、

落ち着いてしまうのが、

 

世の中の、コミュニティの常とはなっている事でしょう。

 

 

勿論、

そのような、

 

「禁止事項の共有。」ってものは、

当たり前に、必要にはなってくるものなのでしょうが・・・・・・、

だからといっても、

その手段としては、

 

ただ単に、口酸っぱく、

 

「〜してはいけない。」

もしくは、

「〜はダメだ。」だけを連呼するだけじゃあ、

能が無いとは言えませんか・・・・・??

 

 

 

要するに、

 

自分自身が当たり前に、

その禁止事項を破らない在り方ってものを、

キチンと、

 

言動を持って、人々に示す必要性があるとも言えるだろうし、

だからこそ、

 

その為の、実務とか、ルーティーンってものが、

必須にはなってくるでしょう・・・・・・って事でもあるのです。

 

 

 

また、

だからが故に、

 

本当の意味での、

経験則に則った情報ってものに、

特秘性をもたらす事が可能になり、

それによって、

 

大衆とか、群れた状態での、

ハッキリ言って、

 

「ど〜でも良い人々。」として、対峙するのでは無く、

 

キチンと、

個人個人として、

人々を、そのコミュニティに貢献度合いによって、

選別する事も、可能になるでしょう・・・・・って事でもあるのですよ。

 

 

 

勿論、

その選別ってものは、

 

自分自身、個人の好き嫌いで選んではいけないものではあるのでしょうが・・・・・・・、

 

 

まぁ、

個人からの見解にはなりますので、

 

そこには、

個人の好き嫌いが、必ず反映されてしまうものだと言う事は、

 

予め、

断っておいた方が良いかも知れませんね・・・・・・(苦笑)。

 

 

 

ま、

そのような個人の見解ってものも、

結局は、

 

役割分担の個人個人の、

好き嫌いが入り乱れる事によって、

 

外から見れば、

決して、好き嫌いだけで選んでいる訳じゃあ無いと言う風な、

 

体裁も整える事が、可能にはなるものではある事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

要するに、

 

情報社会だからこそ、

 

ただ単に、

話のネタに過ぎない情報と、

経験則に則った情報の区別ってものを、

より、

 

個人個人が、行って行く必要性があるとも言えますし、

だからこそ、

 

ただ単に、

一括りの情報として見れば、

 

安易に、

無下に扱いがちな、

経験則に則った情報ってものを、

 

自分自身で、

護る配慮が必須だと言えますし、

 

それって言うのは、

結局は、

 

情報の受取り手にこそ、配慮が必要とも言えるのですが・・・・・・、

結局は、

 

発信側からこそ、配慮して行く事によって、

その配慮が省エネとなって行く事により、

 

「当たり前。」として、

大切な情報を保護する精神でもあり、

習慣が出来上がって行くものとも言えるのでしょうね。

 

 

 

 

また、だからこそ、

 

経験科学のスタイルってものが、

発信側に必要となって行くものでしょうし、

 

そのスタイルってものは、

勿論、

 

「大切な情報を、惜しげもなく公開せよ。」ってものじゃあ無いって事は、

まぁ、

 

「当たり前。」な事でしょうね・・・・・・(笑)。

 

 

 

その為にこそ、

 

ある種のゲーム性でもあり、

ある種のアート性ってものが、

必要となるものだろうし、

 

その為にこそ、

 

言葉の抽象度を高める必要性があるとも言えるだろうし、

 

言葉の応用・流用でもある、

語彙力ってものも、必要にはなってきますが・・・・・・、

 

どちらかと言えば、

 

語彙力って言うよりかは・・・・・・・、

 

抽象度を高めた表現に長ける、

もしくは、

 

概念として、簡略化して言語化するって事や、

 

例え話として、抽象化するって事もまた、

大事な表現方法とはなる事でしょう・・・・・・・!!

 

 

 

勿論、

 

例え話ってものにもまた、

 

その個人個人によって、

しっくりくる例えや、

しっくりこない例えってものが、

存在しているのでしょうが・・・・・・・、

 

だからと言っても、

 

自分自身にとって、

しっくりこない例えを使用する事には、

そもそもとして、

 

その人物が、その情報を提供する意味や、意義ってものが、

薄れて行ってしまうものでもあり・・・・・・、

だからが故に、

 

そのしっくり加減を追求する為にも、

ゲーム性やアート性ってものが必須にはなってくるものでもあり、

 

その為の、

インプットってものを、怠ってはいけないものでもあるのでしょうね。

 

 

 

まぁ、簡単に言えば、

 

「好きな事をする習慣。」とか、

「新しい事にチャレンジする習慣。」とも言えるのでしょうが、

 

特に、

 

「好きな事。」なら、

僕自身に言われるまでも無く、

続けているが故に、

「好き。」なのでしょうが・・・・・・・、

逆に、

 

「好きな事。」ってものが、

無い人って言うのは、特に、

 

「新しい事にチャレンジする習慣。」ってものに、

 

お金や時間を、

ある程度かけて行くマネジメントが、必須にはなってくるのでしょう。

 

 

 

それって言うのも、

結局は、

 

本当の意味での、

「上手く行った事。」ってものには、

 

それを蔑ろにしない為にも、

情報の保護が必要にはなるのが、

「当たり前。」だとしても、

そもそもとして、

 

「好きな事。」とか、

「新しいチャレンジ。」ってものは、

 

失敗自体が、客観的に見て、

「美味しい。」って事もありますし、

 

その、日々の小さな失敗ってものが、

結果的に、

 

その人の魅力となって行くのでしょうし、

勿論、

 

「大失敗。」ばかりを繰り返していると、

段々と、

 

痛々しいオーラを纏ってしまうかも知れませんし(笑)、

そもそもとして、

 

そんな行動は、習慣としては、

定着しないでしょうが、

 

リスクマネジメントした上での、

「小さな失敗。」ってものは、

 

繰り返せば繰り返す程、

その人自身の、味となって行くものだろうし、

 

その味を持って、

自分自身の、経験科学のスタイルとして行くって事が、

大事な事ではあるのでしょうね・・・・・・・(^^)

 

 

 

それらを踏まえて、

実は、

 

過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・。

 

 

 

 

続きはこちら

 

 

 

 

応援、宜しくお願い致します(^^)


また違うんだけど、解るわぁ~(共感)ってなっちゃった方は、ポチッとな♪

 


人気ブログランキングへ

にほんブログ村 ライフスタイルブログへ
にほんブログ村