どもども。
手術&入院の傷も、無事回復に向かいつつある、
キンジです。
当事者意識と言いますと、
所謂、
仕掛け側の視点であるとも言えますし、
傍観者と言う風な、客観的な立ち位置では無い人の意識の事を、
差し表す事でしょう。
でも、だからと言っても、
世の中の構造的に言っても、
何でもかんでも、当事者意識には、
なりようが無いって事もまた、
理解可能な事ではある事でしょうし、
そもそもとして、
「当事者意識」って枠組みを制定する事によって、
我々は、
ある種の制限でもあり、制約を作り出す事ともまた、
同義の意味合いともなってくるものではある事でしょう・・・・・・・・。
要するに、
これだけ、情報過多な現代においては、
在り方として、
当事者意識に拘る事によって、
情報自体の、優先順位の選択をする事が、
可能になるってもんでもありますし、
もっと言えば、
当事者意識によって、
理解可能な情報ってものに、限りが存在してしまうもんでもある事でしょう・・・・・・・!!
それって言うのも、
だからこそ、
そのような、
当事者意識=自身の在り方によって、
受け取って行く情報すなわち、
インプットして行く情報ってものを、
自分自身で、ある程度は選択すると同時に、
その方向性の、舵取りを行って行く事が、
可能であると言う事なのです。
が、
その受け取る情報ってものの、行き着く先ってものは、
結局は、
情報を受け取った上で、
自分自身の血肉としていかない事には、
ハッキリ言って、
予測不可能な類のものでもあるでしょうし、
予測不可能の方がより、
人生でもあり、生活自体に、
楽しみを見出せてしまうって側面もまた、
あり得るものではあるのでしょう・・・・・・・・!!
しかし、
だからと言っても、
その受け取る情報自体の、
大枠ともなる、枠組みってものは、
ある種の、
先取りが必要となるものでもあり、
大枠ともなる、枠組みによって、
概念化された構造ってものが、
理路整然と存在しているからこそ、
その枠組みの中にいる前提で、
我々は、
ある種の、「安心感」を保持した上での、
試行錯誤と言う名の、実験でもあり、
ゲーム性でもあり、世界観の構築を、
楽しんで行う事が、可能になるもんでもありうるのです。
また、だからこそ、
その大枠ともなる枠組みってものは、
ある種の、
繰り返しが必然なものとはなってしまうでしょうが・・・・・・・、
そこにもし、
充実感の欠如となりうるような、
マンネリ感のようなものを、
感じ取ってしまったとしても、
それは結局は、
自分自身の、フォーカスの向どころに問題が存在するとも言えるものでしょうし、
大枠を決定づけたのちの、
その枠組みの内の、微差の領域にこそ、
そのような、
遊び心ってものを、活用する術が存在するものとも、
言える事ではあるものでしょう・・・・・・・!!
要するに、
客観的な視点においては、
また繰り返しには、観えない事も無いのでしょうが・・・・・・・、
個人的な、主観的な視点においては、
別に、
客観的な視点と、同じ視点に、フォーカスを当て続ける必要性なんて無くて、
その枠組みの内において、
自由自在に、行動を持って、楽しめば良いものとも、
言えるのでは無いでしょうか・・・・・・・??
また、だからこそ、
当事者意識になる前提においては、
同じような繰り返しが、
毎回、全くの、初めて行う事柄のように、
無我夢中になれてしまえる側面が存在するって事でもありますし、
結局は、
無我夢中ってものは、
そのような、
予定調和でもあり、安心安全の枠組みが存在していてこそ、
無我夢中になれるものでもあり、
その先の、
大枠の見込みがついた上で、
初めて、
その先に、邁進していけば良いものでもあり、
その見込みを付けて行く行動ってものは、
結局は、
大枠を制定した上での、
その内での行動=試行錯誤となり得るものではあるのでしょうね・・・・・・・(^^)
だからこそ言いますが、
無理に、勢いだけで、
突破して行くような行動ってものは、
誰に対しても、
推奨するものでは無いって事ではありますが・・・・・・・、
だからと言っても、
行動しないって事を、
弁護する気も、毛頭ございませんって事ですね。
ま、要は、
どんな場合であったとしても、
結局は、
自分自身の当事者意識を、明確にする事によって、
その当事者意識を持って、
行動プランを決定づけるって事でもありますし・・・・・・・・、
それによって、もし、
外部から、煽りを受けたりしている場合であったとしても、
その、
当事者意識が明確になる事によって、
目の前の、向かうべき事柄もまた、
明確になる事により、
その目の前の事柄でこそ、
その外部からの、煽りでさえも、
自分自身にとっての答えってものを、
出して行こうって試みでもあるって事なのです。
それによって、
少なくとも、
何の対応策も見つからないって状態は、
回避出来うるでしょうし、
また、
それによって、
フォーカスが外れてしまうような問題ってものは、
ある意味、
それによって、
解決してしまったとも、言えてしまうのでは無いでしょうか・・・・・・??
要するに、
まとめて見ると・・・・・・・、
当事者意識を明確にする事によって、
問題解決能力が、高まるって事ですね。
結局は、
傍観してしまうからこそ、
問題が発生するものでもあり、
「それを如何に回避出来うるか??」
って事が、大切な要素とはなりうるのでしょう・・・・・・・!!
まぁ、だからと言っても、
その個人個人によって、
現実的に出来うる事って言うのは、
決して、
無限の可能性と呼ぶには、
いささか、心もと無いものとはなるでしょうから・・・・・・・、
過信は禁物ではある事でしょうが、
結局は、
問題解決の術ってものは、
その大枠だけしか存在しないものでもあるでしょうし、
拘りがあるならば、
その大枠の内で、
好き放題、拘れば良い代物とはなるのでしょう・・・・・・・!!
まぁ、結局は、
自分自身の、楽しさや、充実感、
もしくは、
その行動にかかりうる、
エネルギーを予測した上での、
実際に消費する、エネルギー次第とも言えてしまうのでしょうね。
気持ちだけじゃあ、
どうともならんだろうし、
だからこそ、
大枠の制定と、エネルギーマネジメントってものが、
キーポイントとはなって行くものなのでしょう・・・・・・・!!
まぁ、それって言うのも、
僕自身が、
心とか、気持ちど〜こ〜よりも、
自分自身の、肉体的な機能ありきでの、
思考回路を持っているからでもありますね。
機能を踏まえた上での、
心とか、気持ちってものには、
人を巻き込んで行く力が存在するものでもある事でしょうし、
機能を踏まえていない心ってものは、
ただの幻想と言っても、
過言では無いものではあるのでしょうね・・・・・・・。
それらを踏まえて、
実は、
過去に掘り下げておいた記事は、下記から・・・・・・・・。
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