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ジャニス・ジョプリン 「 Summertime 」 1968年

2020年05月25日 | 音楽
ジャニス・ジョプリン 「 Summertime 」 1968年

 中学生当時、 私はとてもませた中学生で楽器もロクに弾けないのに
グループ・サウンズに憧れたものです。( とても感受性の強いと云えば聞こえが良いのですが、
社会の流行に影響を受け易い少年でした。) やれ 「スパイダースが平和島プールでライブをする 」 と云えば、
追いかけて行ってドラムスの田辺昭知さんのバチ捌きを真似したり、 かまやつさんの黒のリッケンバッカーに
見とれたりする、 GSの追っかけのようなマネをしていました。

そんな頃です。 当時の音楽番組 「ビート・ポップス」 でジャニス・ジョプリンさんの
嗄(しわが)れた歌唱の 「サマー・タイム」 が流れ、衝撃を受けました。

( 以下はウィキペディアから参照しました。 敬称略 )
ジャニス・ジョプリンは (Janis Joplin) 1943年1月19日 - 1970年10月4日)
アメリカ合衆国テキサス州ポートアーサー出身の女性ロックシンガー。
優れた歌唱力と個性的な歌声を持ち、1960年代後半の著名な女性ロック・シンガーでした。
27歳と云う若さで亡くなりましたが、 とても記憶に残るシンガーのひとりです。
「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第28位。
「ローリング・ストーン誌の選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第46位。
「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第17位。

父のセスはテキサコに勤める労働者で、両親と本人、マイケルとローラの2人の弟妹を含む5人家族であった。
ジョプリンは、小さな頃からベッシー・スミスやオデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聴いて育つ一方、
地元の聖歌隊に参加していました。
1960年に、ポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し、
テキサス大学オースティン校に入学。 高校では、他の生徒から孤立しがちでしたが、
仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聴かされたのを契機に、
ブルースやフォーク・ミュージックにのめり込むようになります。
大学をドロップアウトしたジョプリンは、1963年にサンフランシスコへと向います。
この頃、フォーク・シンガーとして生計を立てていましたが、 麻薬の常習もこの時期に始まりました。
ヘロインや覚せい剤の他にアルコールも大量に摂取していました。

彼女のお気に入りの銘柄は「サザン・カンフォート」でした。
当時の女性シンガーについて当てはまることでですが、 ジョプリンの外的なイメージと内面には大きな隔たりがあるようです。
後に彼女の妹、ローラが著わした手記 『 Love, Janis 』 には、
彼女が知的でシャイでいて、 繊細な家族思いの人物であったことが記されています。

ジョプリンとビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニー(1966/1967年頃)
一時静養のためにポート・アーサーへ帰郷しますが、 1966年には再びサンフランシスコへと戻っています。
ヘイト・アシュベリーを中心としたヒッピーたちの間で際立って目立っていた彼女は、
ビッグ・ブラザー&ザ・ホールディング・カンパニーに参加します。
バンドは、独立系レーベルのメインストリーム・レコードと契約し、1967年にバンドの名を冠したアルバムを発表しました。
このバンドは演奏能力が不足していることでも知られていますが、 レコードの売れ行きは不調でした。

しかしジャニスは、モントレー・ポップ・フェスティバルにおける演奏で大きな注目を集めるようになります。
ジョプリンは、ビッグ・ママ・ソーントンの 「 ボール・アンド・チェイン 」 を荒々しい歌声で歌いこなしてみせた。
D・A・ペネベイカー監督のドキュメンタリー映画 『 モンタレー・ポップ フェスティバル'67 』 では、
群衆の中に紛れたキャス・エリオットが 「 Wow, that's really heavy 」 と呟く姿が撮影されています。

1968年のアルバム 『 チープ・スリル 』 (上記のジャケット写真)では以前にも増して
生々しい歌声を披露し、その評価を決定づけることになります。
スタンダード・ナンバーをブルース風にカバーした 「 サマータイム 」 や、
前述の 「 ボール・アンド・チェイン 」 等、 迫力のある歌が多く収録されています。

ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・ブルース・バンドを結成。
ブラス・セクションを加えた、よりソウル・ミュージックを意識した編成でした。
1969年に 『 コズミック・ブルースを歌う 』 をリリースして、
ウッドストック・フェスティバルにも出演しますが、このバンドもすぐに解散。

その後、ジョプリンは新しいバック・バンドであるフル・ティルト・ブギー・バンドを結成。
こちらは、2人のキーボード奏者を含んだ編成でこのバンドにおける演奏をもとに、
ジョプリンの死後制作された1971年1月に発表のアルバム 『 パール 』 は、
彼女の短いキャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからは、
クリス・クリストファーソンのカバー曲 「 ミー・アンド・ボビー・マギー 」 がビルボードのチャート1位を記録します。
ビートニク詩人マイケル・マクルーアとジョプリンにより作曲された 「 ベンツが欲しい 」 もヒット。





彼女が生前最後に公の場に姿を現したのは、1970年6月と8月に放映されたテレビ番組でした。
6月の番組で、彼女は高校の同窓会に出席する予定だと語っています。
同じ番組で、自分は今までクラス、学校、町、そして国中の笑い者だったとも語っていました。
一躍スターとなり、 彼女は同窓会に出席しますが、その際も疎外感の中、 孤独な表情がカメラにおさめられています。
この一件は、ジャニスの孤独感を表す象徴的なエピソードとして語られています。

1970年6月29日から7月3日、「 フェスティバル特急 」 と呼ばれた列車に乗って、カナダ・ツアーを行います。
ザ・バンドやグレイトフル・デッド、バディ・ガイ等が同乗した豪華なツアーで、
この模様は、後に映画『フェスティバル・エクスプレス』として公開されました。

1970年10月4日、アルバム『パール』の録音のため滞在していたロサンゼルス、 ハリウッドのランドマーク・モーター・ホテル、
105号室、ベッド横の床に倒れ、 死亡しているのが発見されました。
そのかたわらには4ドル50セントと、封の切られていないマールボロが一箱残されていた。
発見者はフル・ティルト・ブギー・バンドのロードマネージャー、ジョン・クックでした。 27歳没。

使用したヘロインが通常のものより高純度であったため、致死量を越えたことが原因であるとされています。
録音中だったアルバムの収録曲のうち、「 ベンツが欲しい 」 はアカペラの仮録音でした。
そして 「 生きながらブルースに葬られ 」 は本人の歌が録音出来ないまま演奏だけが収録されていたのです。

遺体は火葬され、その遺灰は事件9日後の10月13日カリフォルニア州、
マリン郡スティンソン海岸沖の上空から太平洋へと散骨されました。




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