『週刊今川氏真詠草』始めます!(2019/11/4-10)

 

・・・といっても、詠草ツイート一週間分をまとめてブログ投稿するだけですけど(^^)

 

現在ほぼ毎日マイナーな、氏真詠草の中でも地味な歌をツイッターでご紹介していますが、最終目標は『今川氏真全詠草解説』です(^^)

 

重複して紹介することもあるので、完了予定は5~6年後。

 

現存する氏真さんの肉声ともいえる詠草の全てを分かりやすくお伝えできると思います。

 

『おんな城主直虎』尾上松也さんに演じていただいて注目された氏真ファンの皆さんも、ゲームや小説で面白おかしく描写される氏真さんの実像に関心のある皆さんも、要チェックですぞ。

 

なお、それ以外のそれがしのツイートもそれがしの備忘目的で、詠草ツイートにはさんで掲載させていただきます。

 

では『週刊今川氏真詠草』創刊の今日も氏真さんの一首を。

 

 十三日物詣の志ありて発足
駒なへて行は霞の道の末有し野山も分迷ひけり(1―9)

 

天正三年(1575)正月十三日、信長と対面すべく憧れの京へと旅立った日の一首。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

『週刊今川氏真詠草』創刊なので、氏真さんにとっての新たなる旅立ちの一首をご紹介いたしました。

 

それでは、氏真詠草紹介をお楽しみください。

 

#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ
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今日も氏真さんの一首を。

 

峯の雪麓の霞中絶て一筋つゝく明ほのゝ山(1―8)

 

天正三年(1575)正月。この頃家康から駿河奪回のため上洛して信長に出仕するよう勧められたので、夜明けに一筋の光明を見出していたかもしれない。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


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井伊谷の日の今日も氏真さんの一首を。

 

入合にかゝれる橋の影さひて声さへ霞む谷の下水(1―80)

 

天正三年(1575)二月十日ごろ初上洛中。数日後十五日には井伊虎松が家康に出仕、万千代の名を与えられたという。
#おんな城主直虎
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

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今日も氏真さんの一首を。

 

日影さし残る氷の水際や流ぬ年の境なるらむ(1―3)

 

天正三年(1575)新年。氷が年を越えて溶けずに残っていると詠んだ。氏真は閉塞感のある日常ではこうした些事を観察して歌に詠む傾向があるようだ。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

【お知らせ】「週刊今川氏真詠草」始めます!(^^)
来週から一週間分の今川氏真詠草ツイートをまとめてブログ配信します。
お楽しみに!

 

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東島誠氏の重厚な論考です。
歴史学の関係諸学までしっかり視野に捉えている本格の学者に思われます。
とはいえ「野良」実証研究者wの目には、ビッグクエスチョンに引きずられ過ぎるとシンデレラのガラスの靴に姉妹が無理やり足を合わせようとするような強引な解釈を生むリスクもあるとも思います。


今日も氏真さんの一首を。

 

春立といひつゝ年の越ぬれは重てけふや霞初らん(1―1)

 

天正三年(1575)新年。年内立春を詠んだ静かな印象の一首。武田優勢で今後について楽観できない心境だったか。正月十三日から上洛を始める。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


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今日も氏真さんの一首を。

 

 歳暮
うらやみし人に残りていつ迄か数ならぬ身の年をつむらん(6―394)

 

文禄二年(1593)か。本能寺の変十年余が過ぎ、うらみし人信長?死後目的を失った虚脱感を示しているようだ。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

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今日も氏真さんの一首を。

 

 初 恋
恋しさはきのふのわれよあすまての命はうきに猶かゝるとも(7―6)

 

北条氏康、三条西実澄と小田原で詠んだ『詠十五首和歌』の一首。天文二十一年~二十二年、氏真十四五歳、最初期の和歌か?(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

伊藤敬氏によれば実澄が母か父死去による服解中で「前大納言」を称した。父公条が死去した永禄六年(1563)十二月には年末に上洛し、規定通り翌年二月二日除服復任。母教我院死去による服解中である天文二十一年(1552)冬の可能性が高そう(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


『詠十五首和歌』では順番が氏康、実澄、氏真の順になっており、実澄は氏康の要望で氏康の歌にのみ講評を加えており、氏康との交流初期で、氏真はまだ若年だったと思われる。とすると、三国同盟成立前に駿相両国が文化交流していたことになり、興味深い(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


とすると、三国同盟成立前に駿相両国が文化交流していたことになり、興味深い。氏真は将来の舅となる氏康の前で、誰かを想いつつ、初恋の歌を詠んだのかもしれない。氏康は将来の婿となる氏真の値踏みをしたのかもしれない。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

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今日も氏真さんの一首?を。

 

なか〱に世をも人をもうらむまじ時に遇はぬを身のとがにして(遺33)

 

『小田原北条記』で北条氏政が甲相同盟復活に応じ、信玄が氏真暗殺を試みた時詠んだとされ、辞世とも誤解されるが間違い(続

#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 


前田利久氏によれば、氏真は甲相同盟復活後久翁寺での父義元十三回忌法要まで半年以上小田原に留まっている。駿相関係は断絶せず、徳川北条同盟の際には氏真―氏規と朝比奈家のラインが機能した。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


なお、氏真辞世は、沢庵宗彭和尚が『明暗雙々集』で氏真の辞世に合わせて「覚」の一字を入れて漢詩を詠んだとしているので、「覚」の字を含む一首だが特定できない。晩年の氏真は「夢」「覚」の字を入れた歌を多く詠んでいる。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

 

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今日も氏真さんの一首を。

 

 寄世懐旧
悔しともうら山し共思はねと我世にかはる世の姿かな(5―90)
 
辞世と誤解されるが、間違い。天正十五年(1587) 伊勢国神戸で詠んだ一首(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


秀吉政権発足や関白任官などの激変に戸惑い、秀吉の軍事指揮官として右往左往するよりも、閑居と公家的教養の習得を選んだようだ。駿河旧主氏真には、秀吉の手ごまになって徳川をかく乱する選択肢もあり得た。 (続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

だが、徳川家は甲州征伐時まで氏真の駿河復帰に動いていたようで、氏真は家康から駿河を奪い返そうとは思わなかったようだ。朝廷を尊崇する傾向があったので、子孫が高家として官位を得たのは、氏真の希望に近かったようだ。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


明暗

 

今日も氏真さんの一首?を。

なか〱に世をも人をもうらむまじ時に遇はぬを身のとがにして(遺33)

元亀二年(一五七一)十二月、北条氏政が甲相同盟復活に応じ、信玄が氏真暗殺を試みた時詠んだとされるが間違い(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


前田利久氏によれば、氏真は久翁寺で父義元十三回忌法要を行った後小田原を退去した。
沢庵宗彭和尚が『明暗雙々集』で氏真の辞世に合わせて「覚」の一字を入れて漢詩を詠んだとしているので、氏真辞世は「覚」の字を含む一首。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


(2019/11/4-10)