週刊今川氏真詠草&おんな城主直虎の不都合な真実 Vol.11 1月19日号
(2020/01/13-01/19)


小井伊谷の日(1/18)の翌日も、『#おんな城主直虎』第9回のお話をば。
これからは1月10~19日を「井伊強化旬間」にしましょう(^^)


第9回は「桶狭間に死す」。桶狭間の戦いは最近は迂回奇襲ではなく、正面奇襲だったという藤本正行氏の見解が支持されています。これは『#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ』で書きましたが、実際には今川軍が大高城に向けて行軍を開始した時、織田軍が桶狭間山に正面奇襲したのでは?


信長は今川軍の後衛と戦闘に入ったようですが、正面の敵とは別に円陣を組んで離れていく騎馬の一団に気づき、これを追いかけます。これが義元本陣でした。しかし、義元が一目散に逃げていれば、討死は免れたかも。義元はこの時味方の援軍を期待して応戦する判断ミスをしてしまったようです。


義元は服部小平太の膝に太刀で切りつけました。下馬していたんですね。先陣だったはずの井伊直盛や松井宗信は義元討死後に戦場を離脱せず戦死したようです。大高城行きでも先頭を進んでいたところ、背後での戦闘を察知して戻ったが義元救援が間に合わなかったのではないでしょうか。


さて、『#おんな城主直虎』では直盛が自害して、奥山孫一郎がその首を掲げて逃げましたが、これは「???」でしたね。遺言して自害したのは史書に書かれています。
ただし、今川シンポジウムでは、脚本家の森下佳子さんは合戦シーンも書いたが予算の都合で削除されたと言ってました。


森下さんによると、お馬さん一頭の出演料は、俳優さんよりも高いのだそうです。
「金をかければ誰でも視聴率は取れる。金をかけないでどうやって視聴率を取るか」みたいな議論をNHK内部でもした結果なんでしょう。
日本経済が縮小傾向にある現在、どこでも経費に対する目は厳しいですからね(^^;)


さて、直盛死後の井伊家家督ですが、宙ぶらりんになったようです。江戸時代の史書『井伊家伝記』では直盛が自害直前の遺言で、直親と小野但馬の仲が悪いので、中野直由(直之のパパ)が直盛の受領名信濃守と共に井伊谷の地頭職を引き継ぐよう遺言したとしています。


やはり、史実の直親は井伊家傍流に留まったようです。「惣領娘」直盛娘=「次郎法師」を中野直由や小野但馬たち一門や重臣が集団補佐する体制ができたのではないでしょうか。


さてこの頃のそれがし、『#おんな城主直虎』をかなり懐疑的に見ておりました。
義元のセリフが少ないのは、森下さんが義元の内面に深く踏み込めないせいではないか?
幼年期から禅僧として修業を積んできた義元の内面を理解するのはおそらく不可能でしょう。


また、直虎の少女時代には駿府に滞在したこともあったと思いますので、その頃の生活、例えば築山殿やお田鶴の方(鵜殿長持娘で義元の甥)、竹千代=家康、そして寿桂尼などとの交流など濃密な描写を期待していました。


新井美羽ちゃんから柴咲コウさんへの交代なので、思春期の直盛娘を大きく取り上げるのは難しかったろうと思います。
しかし、この回で一番の注目は小野但馬=政次の奥山朝利殺害シーンでした。


政次の弟小野玄蕃が桶狭間で討死した後、朝利は政次と酒を飲みつつ娘で玄蕃の正室なつと息子の亥之助返せと談判しますが、政次は冷徹に論破。逆上した朝利が脇差を抜いて背後から襲い掛かったのを政次が返り討ち。その時の「奥山殿を、斬ってしまった…」がとても印象的でした。


後世史書では奸臣小野但馬が奥山朝利を殺害して横領に至るように書いていますが、実際どうだったか。奥山朝利は井伊家と幾重にも婚姻関係を結んでおり、直盛死後に小野但馬と権力闘争に入ったと思われます。


政次が朝利を切り捨てて「愚か者め」とかいうのではなく「斬ってしまった」というのを聞いて「おや?」と思いました。幼い頃の「鶴」は発熱した亀之丞をおんぶして直満の屋敷に行き、家臣に叱られて「すみません」と謝っていました。自分が悪いわけではないのに自分に非があるように考える繊細さをここでも見ました。


史実の小野但馬は江戸時代の史書では井伊家横領を企んだが家康によって処断された奸臣として非難されましたが、弟玄蕃の家系は直政以後の井伊家重臣として厚遇されました。
そんな小野但馬は、奸臣の「暗黒面」に落ちるのか?歴史解釈での『#おんな城主直虎』の最大の焦点と思いました。


梓澤要さん、高殿円さんの小説でも小野但馬の葛藤は意識されていましたが、『#おんな城主直虎』の森下脚本では、小野但馬は十字架を背負うことになります。
振り返ってみると、奥山朝利殺害はそこに至る伏線として描写されていたと思います。
ホントに、繰り返し見ても面白いドラマです。


今宵はここまでにいたしとうございます。ここからはツイート再掲です。

 


今日も氏真さんの一首を。

 

 茂き木の中に梅にそひて桜一りん咲
玉椿世々ふる砌苔むして梅もさくらのまたき初花(1―154)

 

天正三年(1575)二月二十日頃 桜を愛した氏真はめざとく一輪の桜を見つけた。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

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#小井伊谷の日 も氏真さんの一首を。

 

 海眺望
波をやく日も入海の庭晴てたそかれ月にみほの松原(6―200)

 

天正十二年(1584)秋。『井伊直政実傳』によると浜松に亡命中の近衛前久に井伊直政を親類として紹介したという。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

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今日も氏真さんの一首を。

 

 長老抑留にて一宿来迎院庭あり
梅かほる岸の雫の雨の音に独更行山のはの月(1―153)

 

天正三年(1575)二月二十日頃 正親町天皇が深く帰依したという高僧で叔父とされる象耳泉奘。何を語り合ったのだろうか。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

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氏真さんは浮き沈みの激しい人生の中で和歌を愛し、喜怒哀楽を歌に詠んでいて、とても面白いです。
いうなれば戦国時代の石川啄木かな、と思うことがあります。
ただし、氏真さんは啄木ほど荒んだ人ではなく、かなり真面目な仏教者でもありました。#今川復権

 

今日も氏真さんの一首を。

 

 仙遊寺一見今は泉涌寺也寺内雲竜院天 
 子御廟あり御舎利奉拝
あさ緑谷の氷も解て涌いつみやまたきぬるみ初らん(1―151)

 

天正三年(1575)二月二十日頃、泉涌寺を訪れその名を歌に詠み込んだ。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


それがしは中村一氏の時代の駿府城を「秀吉の城」とは思っていないので、今川時代の意向の方が気になります。今川復権!


小和田哲男教授の記事のリブログです。
#今川復権
https://ameblo.jp/sagarasouju/entry-12567588821.html

 


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今日は氏真さんの一首と後西上皇の一首を。

 

 十三日 佳例 三首
 梅春久
住かへて宿を都の梅の花今より千代の春やちきらん(草―14)

 

天正十九年(1591)正月十三日、小田原合戦後京都に転居?氏真は正月十三日の歌が多い(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

天正三年(1575)正月十三日は初上洛の出発の日。正月十三日は氏真にとって吉日だったか。
なお、氏真四代の孫吉良義央が後西上皇から賜った和歌が興味深い。

うつし植て軒端の松の千年をもおなしこころ之友とち吉良(ぎら)む

ダジャレのようで微笑ましいが、上皇は御所伝授継承者。氏真の一首を踏まえた?


ウヒヒ、悪い気はしません

私は三国志演義の中で 諸葛 亮(しょかつ りょう) でした。あなたは誰でしょう? https://www.arealme.com/which-3-kingdoms-character-are-you/ja/2406949 #三国志演義キャラテスト

 


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今日は氏真さんの三首を復習。

 

 同心を 六月二日
みな月のみしかき影をうらむなよ在明の秌も有はてぬ世に(6―690)

 

『詠草中』では義元公五十回忌の慶長十四年(1609)ごろだが 本能寺の変直後も同じ思いを抱いたであろう(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


有明の秋を生き延びることができなかったのは、「いとけなき枕を」(6―691)借りた築山殿の非業の死であり、氏真は築山殿の死が¥は信長のせいだと考え、強い怨恨を感じだと思われる
(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 

 歳暮
うらやみし人に残りていつ迄か数ならぬ身の年をつむらん(6―394)

 

文禄二年(1593)氏真は信長の死に快哉を叫んだはずだが、父譲りの仏教者的性向もあり、虚脱感も感じたようだ(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


今日は去年明日は今年とふりかへて世の人なみになる心かな(6―816)

 

現存氏真詠草最後の一首は、今川品川吉良が高家として朝廷で官位を得た満足を感じる。徳川幕府二代将軍秀忠正室「お江」の取次となった嶺松院も大いに貢献したはずだ。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


#槍ドン は大河ドラマ史上に残る名シーンだと思います。
絶対に史実ではありえないですが(見た時は超ビックリでしたwww)、歴史言説上の直虎と小野但馬の関係を見事に表現していました。
「嫌われ政次の一生」というタイトルも絶妙でした!
#おんな城主直虎

 


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氏真さんの場合田鶴姫殿のような美しい散華の「死に場所」はなく、最後まで「#今川復権」の苦闘を続けた粘り勝ちの人生だったと思います。
懸川開城は単なる滅亡やトンズラではなく、駿河奪回のための対武田同盟。
武田家滅亡の時も従軍。
最終的には今川品川吉良三家を高家に押し上げました。

 

今日は氏真さんの二首を。

 

 月前述懐 当座
すてやらぬ望なりけり世中を有きても又むかふ月影(6―163)

 

天正九年(1581)武田討滅、駿河奪回の話があったと思われる。築山殿殺害で信長を憎んでいたようだが、駿河は欲しかった(続
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ


 述懐の哥寄合て読等類去かたし
背かしと我身ひとつはおもふかな曲りてとめる人をみつゝも(6―170)

 

天正十年(1582)家康が認めた駿河復帰を信長に拒否され帰京した後の一首。築山殿殺害と駿河復帰拒否で信長憎悪は頂点に達した。
#今川氏真
#今川復権
#評伝今川氏真みな月のみしかき影をうらむなよ

 


(2020/01/13-01/19)