その記事では、こんな内容が書かれていました。
ここに1つの文章があります。
『誰もが、誰かを恨んでいる』
この文章から、自然なかたの意味合いで、文章の発言者が受け身になる様な形に直すとどうなるか?
これは
『誰もが、誰かに恨まれている』
とこう表記する人が大多数になり、そこに疑問を抱く人は少ないというのです。
確かに、私もこれを読んで
誰もが、誰かを恨んでいるのなら、逆説的には、誰もが、誰かから恨まれる事になる。
だから、自身が受け身で捉えれば、恨まれている事にも意識を持つ事は大切だよな?
等という、更に突っ込んだ、余計な理解による思考を広げてしまい
『誰もが、誰かを恨んでいる』
からの
『誰もが、誰かに恨まれている』
は、受け身の文章として、成立すると思ってしまいました。
(゜.゜)
ですが、実はこれは意味を同じくした文章としては、全く成立しない評言でした。
どういう事かと言うと・・
例えば、3人の人達と、相対する3人の人達による6人の人達がいたとします。
この6人を仮に、ABCとXYZという人達で表します。
『誰もが誰かを恨んでいる』
状態が成立する図式の1つに、Aさんも、Bさんも、Cさんも、相手方のXさんしか恨んでいません。
相手方では、Xさんも、Yさんも、Zさんの3人は、AさんとBさんを恨んでいても、Cさんは恨んでいない。
こんな状態でも、先の
『誰もが、誰かを恨んでいる』
は、文章評言として成立しますよね。
※みんな誰かを恨んでいますからね。
ですが、この状態では
『誰もが、誰かに恨まれている』
は、成立しません。
※Yさん、Zさん、Cさんの3名は恨まれていませんよね。
結果的に
『誰もが、誰かを恨んでいる』
からの
『誰もが、誰かに恨まれている』
は、受け身の文章への変換としては、不成立となります。
これは、私も説明をされなければ
『そうだよ、これは発言者の立場では、自身も誰かに恨まれているんだよな』
なんて、勝手に誤解して余計な思考までも巡らせてしまいました。
言葉って、キチンと意味を理解するのは難しい物ですよね。
(ToT)