志村けんさんが、コロナにより亡くなってしまいました・・
実は私、東村山市の青葉町という所に、3歳から17歳まで住んでおりました。
そして志村けんさんのご実家は、その青葉町という町の二丁目と三丁目の境を通る、所沢街道という道沿いにありました。
私の住んでいた家は、その志村さんのご実家から三丁目方面に100mと離れていませんでした。
コメディアンになる為にドリフターズの、いかりやさんの付き人になり、志村さんがまだ世に大きく知られていない頃に、小学校に入ったばかりの私は、他の友人達と共に志村さんに遊んで貰った記憶があります。
志村さん(当時の志村青年)は寡黙な方でしたが子供好きで、志村さんがドリフターズに正式加入して人気者になりだした頃にも、近所の友達と志村さんの住んでいたご自宅に招かれた事がありました。
それは正月2日の事でした。
当時はお正月の番組を年末に録画撮りして、お正月は芸能人の方達はオフになりハワイなどへ行かれるというのが、お決まりの生活スタイルだったのでは?
と、思うのですが、志村さんは 『東村山音頭』 や 『カラスの勝手でしょ~う♪』 などのギャグでブレイクしたいた頃なのに、お正月はご実家へ帰られて普通の方と同じ様に過ごされていました。
そんな中で私を含む数人の子供達が、当時まだコンビニはもちろん、スーパーも多くない時代で、近所にあった個人が営む藤田商店という、食品も扱う雑貨店(何でも日用品を売っているお店)の前で遊んでいると、志村さんがそこへいらして
『お前たちヒマか? 家で雑煮でも食うか?』
と声をかけてくださり、数名の友達と志村さんのご実家へ遊びに伺いました。
実は志村さんは私達子供を、ご自宅へ招き入れていても特段に、子供を相手して話しかけて盛り上げるというタイプでは、ありませんでした。
ですから何をしていたか?
というと、お母さまと志村さん、それにあまり記憶は確かでは無いのですが、お兄様もいらしたかと思います、それにプラス、私達数名の子供で、広間にてテレビを観ていたのです。
しかもそれが、ご自身の出ているテレビでした。
それを皆で観て笑っていると、志村さんは 「どうだ? 面白いか俺?」 と言って子供の私達に聞いてくるのでした。
今にして幼少期のこの出来事を思えば、志村さんはもしかしたら・・
デビューしてしばらくして爆発的に、子供達から人気者になっていましたが、それを今でいうエゴサーチのような意味で、ネットの無い時代でしたから、生の私達子供の声を聴きたかったのかも知れない?
なんて感じて、想い出を振りかえっています。
志村けん という人は、本当に人との触れ合いが好きで、尚且つ自分のお笑いに厳しい人だったのでは無いでしょうか?
少し前まで素人で、ドリフターズでいかりや長介さんの付き人だった自分が、急に大うけして大スターになった事に対しても、浮かれずに自分を視聴者 (対象者の子供) からどんな風に見られているのか?
と知りたかったのかも?
そんな風に当時の出来事を感じて、今になると本当に貴重だった志村さんとの 『出会いの一瞬』 を想い出しています。
それから約50年位の時が過ぎている、現在でも未だに他人から
『ご出身は?』
と聞かれると
『東京の外れの、東村山市です』
なんて応えれば、直ぐに
『志村けん のね!』
という応えが帰ってきます。
それ程に誰もが知っていて
自分の育った東村山=志村けん
となっていた存在でした。
志村けんさんの、人生(芸能界)での活躍は、既に皆さんご存じだと思いますので私が幼少期に、ご縁があり東村山の、しかもご近所で育った事を想い出して、在りし日の志村けんさんの事を忍ばせてもらいました。
世界規模でのリアルタイムで、大きな問題になっているコロナというウイルス。
そんな問題に対して、私が幼少期に接した 志村けんというスターが人生の最後になり大きく係って亡くなってしまった。
このことも、志村さんであればこう考えているのではないか?
と、思ってしまいます。
世間が自分のコロナによる死を、どういう風に捉えているか?
あの時、自分のテレビを地元の子供達と一緒に観て、自分のコントの評価を確認していた様に、天国からコロナについての正しいい認識を、皆が持てたかどうかを気にかけていらっしゃるのではと・・
志村けんさん のご冥福を心よりお祈り申し上げます。