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【小倉百人一首】99:後鳥羽院

2020年02月24日 00時13分17秒 | 小倉百人一首
後鳥羽院

人もをし人も恨めしあぢきなく 世を思ふ故にもの思ふ身は

第82代天皇。
1183年、平家が源義仲によって京を追われた際、清盛の外孫にあたる安徳天皇と、三種の神器も持ち出されてしまった。
そこで朝廷は安徳天皇の帰還をまつか、新帝の選出かで意見が割れた末に、高倉の第4皇子で、安徳天皇の弟にもあたる4歳の尊成親王が践祚した。
ただし、これは三種の神器をともなわない初の践祚であり、これが後鳥羽にコンプレックスを植え付けたといわれる。
ちなみに母は藤原北家の支流である坊門殖子。

時の権力者は後白河法皇、九条兼実、土御門通親と移り変わり、1202年の通親死によって、ようやく治天の君として朝廷の実質的な支配者となった(その前に土御門に譲位して上皇となっている)。
歌道に非常に熱心で、和歌所を復活させ、勅撰和歌集である『新古今和歌集』を定家らに命じ、その構成などにも細かく口出しして定家らを閉口させている。
また、自ら刀をうち、その刀に菊紋をいれたことから、皇室が菊紋を用いる契機をつくった。

後鳥羽は土御門から、かわいがっていた順徳に譲位させ、さらに倒幕の兵を順徳とともに挙げるにあたり、順徳からその皇子の仲恭へ譲位させている。
が、倒幕の挙兵(承久の乱)はあっけなく失敗におわり、自身は隠岐の島、順徳は佐渡島、乱に関わらなかった土御門は自ら志願して土佐へ流罪となる。
これは当時の公家たちから自業自得と冷ややかにみられていた。
また、仲恭は即位後わずか78日で廃位となったが(現代まで最小記録)、これは波紋を呼び、幕府への反対意見も出たほど。そのため諡号は長らくなかったが、明治に入り仲恭という諡号がつけられた。


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