『名古屋 空手物語 ~怪物志願~ 』第55話

 

《愛知支部黒帯 第一期生から辿る足跡 其のⅢ》


コロナの影響で会社の行き帰りとスーパーの食品買い出しにしか出向かない今日此の頃である。
愛知県は、河村市長が緊急事態宣言都市に加えろと吠えたが、却下された。しかし、緊急事態宣言都市の状況を鑑みるに、病床の確保も防護服の準備も足りない現状と成りつつある。
ドォ考えても、全国的に感染者数を減少させなけれバ為らない状態なのに、個々の自粛に任せている。米国の知り合いからは、日本人の危機管理意識が低過ぎる。現実を認知出来ていないと批判された。
全く個々人では自粛出来ないのなら、此の際、外出禁止令を国や県が強制しないと何時まで経っても駄目なのかしらんと思えて仕舞う。


久々に時間が確保出来ているのデ、読書やDVD映画、テレビを満喫している。そんな中、此れまでは女性客に大人気を博しているとの噂ダケを耳にしていた講談師神田松之丞、2020年2月11日六代目神田白山襲名の演目『中村仲蔵』を観た。
確かに上手く、名調子にすっかり訊き惚れて仕舞った。コゥ書くと、まるで私が講談ファンの様に聞こえるけれど、実際は講談よりも落語、落語よりも漫才、漫才よりも吉本新喜劇(岡八郎や花紀京の時代と木村進vs間寛平の時代までだが)が好きだった(笑)。
志村けんさんが2020年3月29日にお亡くなりに為られたが、私の幼少時代はコント55号(萩本欽一と坂上二郎)の方が記憶に有るし、ザ・ドリフターズと云えバ荒井注の時代だった。そして、志村けんさんが大活躍の時代には、『オレたちひょうきん族』の方に夢中に成っていた気がする。


さて、そんな訳で私は講談をほぼ訊いていないけれど、調度10年程前に徳川光圀の事を調べていた時期があった。勿論、『西山遺事』や『西山遺聞』『桃源遺事』『西山随筆』『水戸義公行實』『水戸紀年』『義公遺事』『西山遺事俚老雜話』『水戸義公年譜』『楓軒偶記』『年山紀聞』『玄桐筆記』『三浦市右衛門覚書』『栗田嘉休見聞抄』『小野諫草』『御意覺書』などの江戸時代の文献を調査しての事である。
其の間の余興として、水戸黄門の方にも手を出してみた。史実の水戸光圀と水戸黄門の物語とは、全く別物ではあるのだが…水戸黄門と云えバ、先ずはテレビドラマが・・そして、其れ以前は月形龍之介の東映映画、更に前が講談であり講釈師の語る『水戸黄門漫遊記』 だった。
今は、wikipediaで簡単に検索出来るけれど、当時は図書館や古書店で史料を探し歩くしか調べる方法が無かった。


伊東多三郎氏編纂の『水戸市史 中巻(一)』では、『水戸黄門漫遊記』の最初のネタ元を江戸末期の講釈師である「桃林亭東玉」としているが、私が参考にした『講談500年』(佐野孝著 鶴書房)と『講談落語考』(関根黙庵著 雄山閣)には「桃林亭東玉」の生い立ちから没するまでの事蹟が載せられているけれど、『水戸黄門記』を語ったとも作ったとも書かれていない。
唯一、初代旭堂小南陵こと二代目南陵の思い出話に拠ると、旭堂家では玉田玉智が『水戸黄門漫遊記』を講談にした人として伝わっているソォである。
そんな訳で、多少は講釈や講談の歴史には詳しくなった。


講釈師神田派の元祖は、「神田辺羅坊寿観(かんだべらぼうすかん)」に始まり、次代で名前の上から二文字を取った「神田派」と二、三文字目の「田辺派」の2派に分かれる。私が幼少の頃のテレビ記憶に残っているのは、物凄く口髭を伸ばしたハリセン叩きの田辺一鶴さんで田辺派の講談師だった。
神田派は、初代神田伯龍に始まる。二代目神田伯龍は水戸に住し水戸伯龍とも称した。此の時の同門弟子が初代神田伯山(白山)と初代松林伯圓となる。此処で三派に分かれたが、御話上からも神田伯山(白山)系ダケを此のまま追いかけてみよう。
初代神田伯山(白山)は、「天一坊」の語りを得意としたから、天一坊伯山(白山)と呼ばれた。二代目伯山(白山)は、神田松鯉と名乗る。かんだしょうり ⇒ かんだまつり ⇒ 神田祭りの洒落だった。此の神田松鯉の三代目が神田松之丞の師匠である…続けよう。三代目伯山(白山)は、清水次郎長傳で当たりを取ったのデ、次郎長伯山(白山)。四代目伯山(白山)は、二代目神田松鯉。そして五代目神田伯山(白山)の名跡を40年振りに嗣いだのが、神田松之丞コト六代目神田白山である…ああぁ~、長かったぁ(失笑)。


講談師の歴史を終え、此処から私の調査した水戸光圀の事を語り出すと、原稿用紙で100枚は突破するでしょうから止めときますが、当然ながら昭和以降に発刊された『水戸光圀』に関する書籍は沢山存在しますのデ、同じ事を調べても面白く有りません。
『徳川光圀』(名越時正著 日本教文社 昭和47年5月25日刊)、『徳川光圀』(野口武彦著 朝日新聞社 昭和51年1月15日刊)、『水戸黄門』(稲垣史生著 成美堂出版 昭和55年4月1日刊)、『水戸の光圀』(瀬谷義彦著 (水戸)茨城新聞社 昭和60年6月21日刊)、『水戸黄門の世界』(鈴木一夫著 河出書房新社 平成7年10月5日刊)の各歴史大家の先生方のどの著作にも掲載されていない自分独自の視点から発見した史実のみを抽出しております。
折角の機会ですから、ほんの触りダケを紹介致しましょう。


水戸藩の藩祖は、徳川家康の第15子である徳川頼房です。光圀は、其の頼房の三男坊に当たります。長子頼重を越えて水戸家二代目の世嗣にされた事を光圀は生涯悩み苦しみ、やがては頼重の長子綱条(綱條)に三代目藩主の座を返還するのです。
藩祖頼房は、何故!? 三男の光圀を世嗣に選んだのか…私は、頼房に将軍職奪還の野望が有ったと観ています。
一つしか歳の違わない三代将軍家光(家康の孫)と頼房(家康の子)は、『徳川實記』に拠りますと非常に仲が良かったとされています。御三家の尾張徳川家藩祖義直や紀伊徳川家藩祖頼宣拠りも信頼されていたと…しかし、幕末期に将軍の座を息子の慶喜に嗣がせ様とした水戸家九代藩主斉昭は、頼房の直系の血筋である事を大変誇っております。「乍不肖我等は威公(頼房)の血脈を伝へ」(告志篇)。又、藩祖頼房は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の武を慕っていたとも。「吾祖 威公実受封於東土、夙慕 日本武尊之為人、尊神道、繕武備」(弘道館記)。


皆さんは、『古事記』に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)がドォ書かれているか知ってマス!? 小碓命(『日本書紀』の表記は日本武尊、『古事記』の表記では倭建命)の父親である第十二代景行天皇の詔勅を守らなかった兄である大碓命に腹を立て、小碓命は兄の手足をちぎって殺し菰に包ンで厠(トイレ)に投げ捨てたンですヨ。
譬え天皇の皇子であろぅと、天皇の命に服さない者は殺害しても良い…日本最古の史書である『古事記』には、堂々とコゥ記されているのです。勿論、水戸藩は二代目光圀の頃から、朝廷崇拝です。当然、頼房も『古事記』を手にしていた事でしょうし、光圀の朝廷尊崇は父の頼房譲りなのカモ知れません。
もし、二代将軍秀忠や三代家光が、天皇に対して不遜な行為をしでかしたら、討伐の対象としても良いのです。少なくとも頼房は、ソォ解釈したと思えます。事実、秀忠は「紫衣事件」で朝廷拠りも徳川幕府の方が上位にある事を示唆し、後水尾天皇を激怒させました。


処で、もぅ一つ話を追加致しますネ。
頼房の長子である頼重は、実弟の光圀に先を越され無位無冠で生涯を終えるのを、従兄弟に当たる三代将軍家光に救われ高松藩の藩祖と成ります。高松藩の二代目は、光圀の実子頼常です。結果としテ、光圀の希望通り世嗣の交換で水戸藩を無事兄頼重の系譜へと返却出来ました。
大体の配役の配置は、此れでお判り頂けましたでしょぅか(笑)。此処からが、どの書籍にも語られていない面白い史実(恐らく!?)になります。


先ず、将軍家光は頼房との板橋での狩りを楽しンだ時に、頼房の弓の腕前を褒め讃えて現代版の(平)教経だと称します。「水戸殿今能州(平教経)」(弘道館記述義)。徳川家は、『尊卑分脈』に拠れバ、新田源氏の末裔を詐称しています(だから、征夷大将軍にも就任出来、徳川幕府を開けました。豊臣秀吉は、源氏を名乗れなかったから関白に就任して国を治めましたが・・・)。其の源氏方にも、弓の名手は星の数程居りましょう。鎮西八郎源為朝然り、屋島合戦で扇の的を射抜いた那須宗高も源氏方ですし…何も、宿敵平家の武将に頼房を譬えなくても・・・・・・
頼房の長子頼重は、讃岐高松に到着した翌年には忠臣佐藤継信の墓と記念碑を四国巡礼遍路の道沿いに建てました。佐藤継信・忠信兄弟は、源義経に従った四天王武将であります。
そして当に源平合戦で平教経が源義経を射殺ソォとした瞬間、源義経の楯となり戦死したのが佐藤継信でした。当然、当時の人々は、其の史実を知っています(現代人は、殆どの方が知らないのではないでしょうか 苦笑)。


『仮名手本忠臣蔵』は、江戸時代の赤穂浪士の実在事件ですが、江戸幕府を慮って室町時代の人物設定にしてあります。
仮に、同じく私が調査した内容を列記すると、三代将軍家光(源義経…後の征夷大将軍源頼朝の代理大将)・松平頼重(佐藤継信)・徳川光圀(佐藤忠信)・徳川頼房(平教経)と云う鎌倉幕府誕生前の時代構成となりましょう。頼房は、天皇家に不遜を働く将軍家の秀忠と家光を誅ソォと考える。無論、次の将軍には実子の光圀を想定している。天皇の為に働くのだから、天皇から征夷大将軍に任命して貰えバ、源頼房幕府もしくは源光圀幕府が開けます。未だ、戦国の世から50年と過ぎていない時代で、天下人を討った覇者が、次の天下人と成れる土壌は十分に有った筈。此れが将軍継嗣の途切れるのを待っていたら、尾張義直や紀伊頼宣の従二位大納言に優先権が発生する。水戸頼房の正三位権中納言では、正式な手続きを踏んでいてはとても正二位内大臣、淳和・奨学両院別当、源氏の長者・氏の長者、(左)右近衛大将、(左)右馬寮御監の征夷大将軍に就けない。だから、おっとりとした年長の頼重を差し置いても、気性の激しい光圀を世嗣に選ンだのである。
しかし、父頼房に無視され従兄弟の家光に見出されて漸く高松藩主にまで就けて貰った頼重(佐藤継信)は、将軍家光(源義経)を父頼房(平教経)から死守するのが当然でしょ。父頼房の強引さで水戸藩主に就かされた光圀も、実兄への罪悪感に苛まれて頼重に従うと思われます(明の朱舜水から朱子学を学ンだ光圀は、主君への忠と親への孝に悩んだカモ知れませんが、青年時代の光圀を形作った『史記』の「伯夷列伝」も又、強烈である。伯夷と叔斉の兄弟が、王位を譲り合い共に餓死したと記されている。光圀としては、父頼房に将軍職を充てがわれるよりは、兄弟揃って将軍家を死守し共に死んだ方がマシと考えたであろぅ)。頼房は結局、野望を遂げる事は出来なかった。


長くなったのデ、もぅ一つダケ…家光が、明日をも知れぬ病に罹った時、頼房は神仏に病気平癒を祈願した。
何処に!? 私の調べでは既に水戸城内に東照宮が設営されていた筈だが、頼房は常陸国一宮の鹿島神宮に詣でている。鹿島神宮の御祭神は、武甕槌神(『日本書紀』の表記。『古事記』の表記では建御雷神)である。出雲の大国主命の息子、建御名方神を諏訪まで追い詰めて降参させ、豊葦原千五百秋瑞穂中国を譲渡させた武神だ。
将軍家光の病の平癒である。徳川幕府の創始者にして既に死して東国を守護する神と成っていた東照神君(徳川家康)に祈るのが常識ではないのか。何故、国譲り(大国主側から視れバ、国盗り)の武神で然も将軍家が喧嘩している天皇家の家臣に祈願するのか!? 一体、頼房は此の時、何を願ったのであろぅ…家光が頼重を味方に着けたのは、何も自分の為ダケではあるまい。実子で未だ幼い第四代将軍家綱の治世を憂いたのだろう。家光は、病勝ちだった。何時、亡くなってもおかしくない。だから、親戚の初代高松藩主頼重と異母弟の会津松平家初代藩主保科正之に次代の家綱の守りを託したのである。
事実、頼房は家光が薨去して以降、水戸へ殆ど帰省していない。水戸藩が、江戸定府とされた遠因が此処にある。しかし、松平頼重・保科正之・徳川光圀の家綱包囲網は堅固で、頼房は最期まで将軍家に手を出せズに亡くなった。
水戸藩に残され散在している史料の部分々々を抽出して並べ立てると、こんな結果が導き出されるのである(苦笑)。

 

何時も通りの空手話再開です。


顔面掌底攻撃は、そんな組手をしていない大会選手に対しては、幾ら反則とは云えビシバシ当たります。逆に云えバ、顔面掌底攻撃有りきで組手を想定している我々に、大会流の組手は非常に遣り難い。道場は異なれど、愛媛芦原支部長の愛弟子デ我々の先輩に当たる中山猛夫選手は、良くもまぁ第9回全日本空手道選手権大会の決勝まで登り詰めたモノですワ。
決勝は、当時最強だった東孝支部長でしょ…此れは、敗けても仕方ないと思えます。大会でならネ。しかし、此の大会では、途中で浜井支部長を降しているからネェ。


さて、第二期黒帯か第三期黒帯か、「一般社団法人 国際空手道連盟 極真会館 公認有段者名簿 2019年12月20日現在」からは把握出来ない先輩が多少居ります。前回の(高木)秘書先輩は、1993年6月4日に弐段昇段をして初段昇進の箇所から消えているのですが、(井上)機動隊先輩も除名(破門!?)されていて昇段名簿から削除されているのデ、はっきりしません。
多分、第二期黒帯か第三期黒帯だと思います。因みに1993年6月4日の弐段昇段欄の名簿を眺めていると、知ってる名前がちょこちょこ登場する。
少し寄り道になるが、紹介したい。


(高木)秘書先輩を筆頭に(田辺)製薬先輩の名前も…多分、製薬先輩の事ダロゥ。2010年5月30日の(松山)千春師範代先輩の四段昇段審査に確か(田辺)製薬先輩も参加していた筈である。何かの空手雑誌に掲載されている写真で観た覚えがある。次に判るのは、(松浦)尊称だ。此の野郎も、弐段なら今度逢った時には「(松浦)尊称先輩!!」と呼ンでやろぅ(苦笑)。「応ぅ、元気か」なんゾと横柄な返事をしようモノなら、ブン殴ってやる(爆笑)。
Оクンから紹介された(川合)鬼の四課デカ長の名前も観られる。向こうは私を先輩と立てて呉れるが、私も彼を「兄ィ」とか「おやっさん」としか呼ばない。大抵は、テレビのインタビュアーが鉄の扉をノックした時、静かにゆっくりと扉を開けて出て来る絆ぎ姿の特攻服みたいなのを着て来るから、思わズ(川合)クンの胸に菱形のバッチが無いかドォかを確認して仕舞う(笑)。
(和田)清水建設クンは、現在でも(秦野)陸自野郎と連絡を取り合っているらしい。先生の空手50周年&中部地区道場創立40周年の祝賀会の後、初めて遭ったが、私には40年前の記憶が無かった。(和田)清水建設クンは、白帯の時に指導員だった私の事を覚えていると云うのだが…スミマセン(恐縮)。
続いて、(後藤)又兵衛ちゃんも載ってるナァ…先生とは決別してなかったかヤ!? 道場を離れて東京に居住してた一時期は、城西支部の山田支部長と仲が良かったみたいだケド。(後藤)又兵衛ちゃんは、(加藤)怒るデェ併し!!ちゃんと昇段審査組手をしているらしいから、第三期黒帯だナ。悪いケド、(後藤)又兵衛ちゃんを現役時代に先輩と呼ンだ覚えは無い。道場でしょっちゅう顔を合わせて居て、実弟と同級なのデ向こうも私を「兄ィちゃん」「兄ィちゃん」と呼ぶし、私も「セイちゃん」「セイちゃん」と呼ンでた。
此れは、同じく第三期黒帯の(望月)三起也ちゃんも同じで、実弟と同級だから向こうは「Qさん」と呼ぶし、私も「モッちゃん」と呼ぶ。(加藤)怒るデェ併し!!ちゃんも先輩だが、同学年の同大学生だったから、向こうは「Q」だが私も「ヤッちゃん」である。どうも私が当時「先輩」を付けて呼ンでいたのは、学年が上で且つ強かった人のみを先輩と呼ンでいた様だ(苦笑)。現在は、後輩でも現役時代に直接接点が無けれバ、○○さんとさん付けで呼ンでいる。
続いて、(大鹿)校長。後に道場を手伝うとは思わなかったが、現役時代はほぼ道場で逢った事が無い。向こうは、競輪のS級と云う超トップの現役選手である。競輪競技で世界10連覇の偉業を達成した中野浩一選手の先輩に当たるのだから、我々名も無い大学生とは住ンでる世界が違う。昇段は、私より一期前の第五期生か。道場で顔を全く合わせないのだから、此の人のことも先輩と呼ンだ覚えが無いナ。再会した時も、90kg近くになっていた私を観て、「Qクンかぁ…変わったなぁ!?」「(大鹿)さん、お久し振りです」だった。
兎に角、現役時代は競輪の有名処だった久保千代志選手や中野浩一選手を先生に紹介するから、道場内でも特別扱いだったと思う。(後藤)極道師範代は、其れが気に入らなかったンじゃないかネェ(苦笑)。全日本大会に出場しても、当時ライターだった山崎照朝先生が「空手と競輪」とか云う題名で記事を組ンで呉れるし、大山倍達館長の四国徳島合同合宿訪問でも、徳島市長と共に館長のお供を相伴させられてたし。まぁ、其の時の合宿のグループ班長が(小林)探偵団先輩で、(大鹿)校長は副班長だったらしいケド、(小林)探偵団先輩は(大鹿)校長の事を低姿勢で遥かに年下の自分を立てて呉れて、悪い人では無かったと語っていた。
只、競輪の現役選手としテ、直接、獲得賞金に関係して来るから、本当に我々と同じくらいローキックを蹴り合い、顔面を殴り合てたかは疑問です。競輪のテレビ中継は、当時有ったのかぃナ!? もし、顔面ボコボコや脚が真っ赤に腫れ上がってる姿がテレビ画面に映し出されたら、問題に成ったでしょうに(苦笑)。
次の(松本)零士クンは、岐阜道場だから殆ど知らない。後に(大鹿)校長を頼ってかドォか判らないが、競輪選手として成功している。岐阜道場だから、(小林)探偵団先輩が一番才能が有った後輩だと絶賛していた。次の(大月)ビックムーンは、私の直接の後輩である。でかいし骨が丈夫だし、強い後輩だったヨ。今は、新極真の山本道場の№2か№3か知らないが、お偉いさん(師範代)になってるみたいダ。ブログの指導員紹介欄を観ると、182cm 80kgで私と同ぃ歳だナ。
此奴、オレとタメやったンかぃ!? 本当に知らなかった。私も大学に入学してからの入門なのデ、十分遅いと感じていたが(実際、同学年の南道場の(加藤)怒るデェ併し!!ちゃんとは、昇段の時期が三期12ヶ月も隔たっている)、一体何時入門したンやろ??? 私は同学年だと先輩でも○○ちゃん付けで呼ンでいたと先程述べたばかりだが、恐らく(大月)は私の事を「先輩」と呼ンでいたのデ、私が勝手に年下だと思い込ンでいたダケなのダロゥ。
四国徳島の合同夏季合宿で、前夜、(山口)百恵さん(唯一と云って良い女性道場生)の話題を酒の肴に私と呑んでいた岐阜道場の(田中)角栄先輩。私は、翌日の組手が心配で午前2時か3時頃にはテントへ失礼したが、(田中)角栄先輩達は、徹夜で呑み明かしていた。翌日は案の定、組手へ向かう前からゲェーゲェーとトイレで吐きっぱなしの(田中)角栄先輩。海岸の組手受け側に立った時も、顔面が真っ青でフラフラ状態だった。其処へ出て行く(大月)ビックムーン。
昨夜の事は知らないダロゥけれど、(田中)角栄先輩の状態を観れバ、推測は付くでしょと心の中で(大月)に語り掛ける私。しかし、(大月)はフル・スロットルで何時もの組手を始めて仕舞った。滅茶苦茶にされる(田中)角栄先輩。此れで済めバ、私も何も心配はしない。但し、私は(大月)より古い分、(田中)角栄先輩の実態を帯研などで熟知していた。豈図らんヤ、キレた(田中)角栄先輩は、拳骨正拳で(大月)の顔面をタコ殴りにし出したのダ。ほぼ泥酔者の攻撃だから、見た目程に効いたとは思わないが、(大月)はビックリして其れ以降、攻撃が出なくなって仕舞った。イザと成った時に、此れが出来るから極真喧嘩空手なンだナァと、あの時は尽々思いましたネ(笑)。


今、私の指導している空手の前にスタジオの稽古場を借りているのが、新極真の山本道場である。何ンか、自分を偉ソォに観せるみたいデ、「(大月)師範代は元気か!?」なンてとても口に出せない。
身体の大きい若い指導員が教えているが、礼儀正しいし文句は無い。此れが、時間は伸びるわ横柄だわの指導員だったら、「テメェ!! (大月)呼ンで来い、此の野郎」とでもなるのダロゥが(苦笑)…ジョークでっす。
さて、其の少し後ろが(鈴木)青龍刀分支部長クンだ。矢張り、元南道場のОクンの紹介である。(加藤)怒るデェ併し!!ちゃんは、彼が白帯の時の指導員だから、滅っ茶緊張して接するが、私には直接の面識も無いのデ、「先輩」と云いながらオチョくって来る。
「オィオィ、(加藤)怒るデェ併し!!ちゃんの時と随分態度が違うなァ(笑)」と云うと、「そりゃあ、直接組手でボコられた先輩と一度も現役では遭って居ない先輩とは、違いますヨォ」などと惚ける。
其の癖、全日本に出る時には、(高木)ブーの所へ教授に趣いたと云うから、(高木)ブー先輩は…と立てる。
(川合)鬼の四課デカ長の昭クンも、(松浦)尊称先輩とか(片岡)鶴太郎先輩と私の前で宣う。
私にとっては、(高木)ブーであり(松浦)尊称であり(片岡)鶴太郎ダ。しかし、人前では絶対に(川合)さんや(鈴木)マサさんと、後輩の更に後輩なのに「さん付け」で呼ンでいる。全く、武道の縦社会とは、不思議で不便な世界である(爆笑)。


長くなりましたぁ~、次回デス。

 

【※此の作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などには、一切関係ありません】