毟る男

 男は「毟る」ことが好きだった。好きというより、うがい、手洗いと同様、今や習慣となっていた。手癖のように、いつも何かを毟っていた。何かを毟っていると、不思議に心が安らいだ。
 毟る対象は様々だった。手近なところでは自身の体毛。頭髪、腋毛、脛毛、陰毛など、毛深い男の体には全身に渡って毛が茂っていた。指先で摘まんで引き抜く方法、鷲掴みにして根こそぎ毟り取る方法など、「毟り方」のバリエーションも多彩に楽しむことが出来た。
 男がとりわけ執着したのは、眉毛と陰毛だった。眉毛は眉間側から始めて眉尻に向かっていく訳だが、人差し指と親指で軽く摘まめば必ず一本や二本は指の腹に付いた。毛根がつられ、皮が盛り上がり、新陳代謝で寿命を全うしつつある眉毛を先行して処分する一連の浄化作業は、えも言われぬ快楽だった。とはいえ眉毛は有限であり、全て毟ってしまうと、次また生えてくるまでには所定の時間を費やすこととなった。最近では、もうほとんど生えてくることはなくなっていた。
 陰毛も痛快だった。縮れ毛が、わし掴みにした指の間を埋め尽くす様は、射精するのと同じくらい気持ち良かった。陰嚢や肛門周りに至るまで、根こそぎ毟った。期待が裏切られることなく、毛は必ず抜けた。風呂場の排水溝には、男が毟った毛が次々堆積し、金網が黒い毛の膜で覆われる程だった。やがて「陰毛毟り」は入浴時だけではなく、トイレや料理、デスクワークをしている時でさえ無意識に行われた。右手はいつも、股間にあった。
 体毛がなくなると、指のささくれや吹き出物、かかとの固くなった角質などにも食指が伸びた。皮膚の毟り過ぎは、時に出血や痛みを伴ったが、それでも表面の凹凸や余剰な皮の突起が目につくと無性に気になった。従って、男の唇や指先はいつも赤かった。
 体以外では、毛足の長い絨毯は毟り甲斐があった。安い化繊のもの程、容易く抜けた。家の絨毯は既に限界だった。その後はホームセンターやカーペットの専門店に行き、店員のいない隙を狙って片っ端から毟った。もちろん、倫理道徳に反する行為だと分かっていたが、「お願い。毟って」という絨毯たちの誘惑を無視することは出来なかった。
 ゴルフの際は、フェアウェイよりはラフが良かった。もっとも、男の腕前はそれほどでもなかったので、普通にショットすれば大抵ボールはラフに落ちた。男は周囲の草を必ず二三度毟ってからスタンスをとった。草は夏場が一番生い茂り、毟るにはいい季節だった。冬のゴルフは全て断った。毟る愉しみのないゴルフなど、それこそお金の無駄だった。
 町会の草むしりの日はいつも待ち遠しかった。白昼堂々、人目を憚らず、毟る行為が公に許される機会はそうなかった。若者の人材不足に悩む町会にとっても、男は重宝がられた。作業時間が過ぎても、男は我を忘れ、雑草を毟り続けた。朝から晩まで、食事もせずに黙々と草を抜いた。それは全く苦痛ではなかった。苦痛どころか快楽だった。
 児童公園の草むしりを終えたところで、さすがの男も汗だくのままベンチの上で伸びた。次第に日も暮れ、夕闇が迫っていた。お疲れ様、と見知らぬ老婆から冷たいペットボトルのお茶を手渡された。児童公園には似つかわしくない高貴な香水の匂いがした。
「あなたのような人がいてくれて助かるわ」と老婆はベンチの隅に腰かけて言った。
「毟っていると夢中になってしまうんです。草むしり、嫌いですか?」
「好き嫌いじゃなくて、やらなきゃいけないものだからねえ」
 気だるそうに老婆は言った。その憂鬱そうな言い方は満更悪くない、と男は思った。ぶつん、ぶつん、と何処かでまだ草を毟る音が聞こえ身を起こしたが、どうやら幻聴のようだった。キャップを開けて、もらったお茶をごくごく飲んだ。老婆は我が子を見るように男を見つめていた。遠くの山の端の上に、切った爪のような細い月が見えた。どこからか焼き魚の匂いがした。さすがに男は腹が減っていた。丸一日毟りっぱなしだったのだから当然だった。しかし食べたい物のイメージは何も浮かんでこなかった。家に帰っても男は独りぼっちだった。突然、猛烈な寂しさが男を襲った。
 男は老婆の太ももに頭を埋めた。老婆は驚くでもなく男を受け入れ、髪の毛をひょろひょろ長い指先で撫でた。今度は香水の匂いだけではない違う匂いも混じっていた。男の左手は既にスカートの中にあって、行為に値する対象物の所在を確認していた。お母さんだったら良かったのに、男は濡れた目をぎゅっと閉じた。
 男は「毟る」ことが、死ぬ程好きだった。(了)

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