「この頃、ブログの更新の間隔が開き過ぎじゃない? それに一回が長い」
おっしゃる通りです。
「いつも言ってるけど、物理的に書く時間が無いんだってば。短く書けばいいんだろうけど、挨拶や、患者さんへの説明とおんなじ、短くできないんだよ。描きたいこと、言いたいことがワーって来ちゃうんだから」
という会話を、北習〇野のツッ〇ーモでしてきました。
高校の同級生がしているお店ということを除いても、自信をもってお勧めできる洋風料理のお店です。
「洋風料理のお店」という表現があっているかどうかはわかりませんが、そうとしか表現できません。
キッシュがおいしいという評判をとっているそうですが、「何がおすすめですか?」「全部です」というやり取りが本当にその通りのお店です。
と、いうところで、ブログの一回分にしてアップすればちょうどよいのかもしれません。
しかし、これは落語で言えば「枕の枕」です。
本年最後のブログ記事のメインテーマではありません。
さて、
入蔵は今年還暦を迎えました。
先ほども書いたように、諸般の事情によりあまり余暇的な時間が取れません。
ブログを書く時間も、読書に費やす時間も同様です。
読書に関しては、せめてもと思い、いわゆる「名句集」に手を出すのですが、一冊の本を通して読み、その中で輝く一句を自分で見つけ出すことによって得られる喜びと同じ喜びは見出せません。
それに同じ本を繰り返し読んだとき、その時々の気持ちのありよう、年齢、生活環境によって「心に響く一句」が違ってくることも多々あります。
効率的な読書というものがあるのでしょうか?
そもそも「効率的」ということに意味があるのでしょうか?
もちろんいわゆる文芸書と技術書、研究書等とは違うのかもしれません。
でも、技術書、研究書の類にも時代を超えて読み継がれているものもあるようです。
そのような本にはたぶん、情報の新旧に関係のない読者一人一人で違う「心に響く一句」が隠れているのでしょう。
まだ、「枕」です。
いよいよ今日書きたいテーマについて書きます。
「オオカミが来た朝」(ジュディス・クラーク著 ふなもとよし子訳 福音館書店 2019年9月15日 初版)
という本を紹介したいのです。
書評などという大げさなものではありません。
というか、「書評」など書けません。
入蔵情報によれば、「ちゃんとした書評が出る」ということだったのですが、その書評を現時点で入蔵は手に入れることができていません。
あくまで入蔵の情報収集能力ではということです。
数行程度の書評は見かけますが、「ネタバレ」しないような配慮がされている記事がほとんどです。
もちろん著作権の問題が根本にありますから、そうなるのでしょう。
そういう問題もありますが、良い本が皆さんのお目に留まる一助になればと思い、「書評」ではなく「紹介文」を書いてみることにしました。
ネタバレありです。なるべくうまくオブラートに包むつもりですが。
ネタバレありでも書こうとしているのは「ちょっとぐらいネタバレがあっても大丈夫です。
この文書を読んだ後でも十分に読む価値、喜びがありますから」と入蔵は思うからです。
文中の引用、ページ(p.○○)は「オオカミが来た朝」(福音館書店 2019年9月15日 初版)のものです。
例によって引用はなるべく少なく致しますが、今回はやや長めの引用が含まれます。
著者による前書きのページにあるようにオーストラリアの一家の四代にわたる物語です。
物語を通して登場するケニーが14歳だったある朝の出来事が綴られた「1 オオカミが来た朝」から物語は始まります。
この少年はある出来事によりあっさりと「歯科的に困難な状況」に陥ります。
この状況は彼を一生涯悩まします。
この状況について入蔵は本年「歯医者冥利に尽きる」と思えるような経験をしたのですが、それを書くと「本格的なネタバレ」になるので書かないことにします。
この朝ケニーは14歳にして父の急逝によって生じた一家離散の危機をふせぐために大きな黒い自転車に乗って求職に向かいます。
そして、その途中で「命の危険」につながる経験をします。
その時に彼を救うのが、苦痛でしかなかった「詩」の授業で習ったバイロンの詩の一節でした。
そして、彼は命の危機を脱した日に自転車に乗ってある工場に向かいそこに職を得ます。
彼が生き延びたことで4代にわたる物語は続いていくのです。
正直、この章は内容がかなり暗いです。
入蔵は例の歯のこともあって、この章を読むのにとても時間がかかりました。
入蔵が目にした短い書評の中にもこの章の途中で読み進めることを断念したというものがありました。
入蔵は「さもありなん」と思いましたが、皆さん「この章を読み通すことができれば、一生大事にしたい読書体験が得られる」と入蔵は思います。
「だまされたと思って」という言葉がありますが「だまされない」と思います。
まず、この一章読み通しましょう。
この章はケニーが「命より大事なものはない」(p.39)ということに気が付く章です。
「2 メイおばさん」
はケニーの二人の娘15歳のフランシスと11歳のクライティの物語です。
この二人と「メイおばさん」とのかかわりを主に物語は展開していきます。
フランシスは「悩みが多すぎて寝る前のお祈りが長くなりすぎ」お祈りのために夜遅くまでつぶやき続けることになります。
「頭が混乱している」メイおばさんは、「少し考えをめぐらせ」(p.69)
フランシスに「それだけ? 短すぎない?」(p.69)と言わせる「お祈りの言葉」を教えます。
そのお祈りは「これでなんでも受け入れてくださる。それにだれのことも」(p.69)というものです。
このくだりは入蔵も思わず笑う展開です。皆さんもぜひお楽しみください。
この章はフランシスがクライティに対して「秘密は守る―もう大人だもん。」(p.92)という一節で終わります。
「3 字の読めない少女」
はフランシスと、友人ジェニー、そして字の読めないボニーとの間の物語です。
ボニーとの間には結局友好関係は生れないのですが、安直な結論にならないところが入蔵は気に入っています。
この章は先入観なしにお読みください。
この章の最後でフランシスはジェニーをミルクバーに誘います。
「4 思い出のデルクシャ」
はこのミルクバーを営む家族の物語です。
戦争の悲惨さ、その上、さらに移住した国で受けるいわれなき差別を描いています。
この小説はこの後、こういった社会の状況について問題を投げかける展開を見せていきます。
凡百の児童小説と一線を画すところです。
「“あんな人たちと”と思ったら最後、その人たちの価値も存在もなくなり、その人たちには何をしてもいいことになる。」(p.158)
悲惨な状況、出来事を書いたこの章は、重い言葉を淡々と紡いで進んでいきます。
この章には50歳を越えたケニーが登場します。
ケニーは過酷な人生を生きる一家の母親が
「『人間の血はみんな同じです』といった時」「その言葉の本質を理解してくれていた」(p.159)という人物になっており
「おかしな表現だ、そうじゃないか? 『ほんの子ども』-何か悪いことやひどいことが子供に降りかかっても、大人とちがって子どもの心は痛まないとか、何が起きているかわからない、とでも言っているみたいじゃないか」(p164)というのです。
これはケニーの言葉ですが、もちろん作者の言葉です。
こういう考えを持った人がこの物語を書いたのです。
「5 冬のイチジク」
はケニーの娘フランシスが40代の半ばになり湾岸戦争が近づくイスラエルで子供のガブリエルと一緒に命懸けでエリコの市場にイチジクを買いに行く物語です。
フランシスの家族の状況を危惧する姉のクライティと険悪な関係になります。
「元どおり」という言葉がkeyになる章です。
ハラハラドキドキの展開をお楽しみください。
「6 チョコレートアイシング」
はケニーの曾孫、ジェイムズとディビッドが主人公の章です。
ここも、入蔵はネタバレの関係上詳しく説明できません。
物語の最後、悲惨な状況にあるジェイムズの前に、あの日のように黒い大きな自転車をこいでくる少年の幻が見えます。
しかし、その少年の姿はありありと見えます。
ジェイムズにはその少年が誰かわかります。
そして、その少年の言葉に彼は希望と勇気をもらうところで小説は終わります。
最初に書いたように、読書というのは読み手によって、感想が違います。
同じ読み手も、読んだ時の年齢、生活状況によって違うのです。
長々しい入蔵の解説文は皆さんのお役に、立たないかもしれません。
その場合はご寛恕ください。
福音館のホームページによると「高学年から」おすすめのようです。
ただ、入蔵は優れた児童小説が皆そうであるように「かつて子供であった全ての皆さん」にお読みいただきたいです。
皆さま、本年もご愛読ありがとうございました。
この長々しく、稚拙なブログに「いいね」くださいました皆様本当にありがとうございました。
細々という形になりますが、できる限り長く続けていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
では、また(^^)/