例えば、関東大震災で約10万人、東京大空襲で約10万人の死者の出た東京で、事故物件がどうのこうのに意味があるのでしょうか?
どんなご事情でなくなっても、霊を弔う祈りの儀式は大なり、小なり行われるでしょう。
亡くなったことが確認された場合はまず例外なく。
無念の死を遂げた死者に向けられた祈りに何の力もなく、彼らは何の因縁もない人々をただ祟るだけの不成仏霊になるのでしょうか?
特殊な能力のない宗教者の行う祈りの儀式では、死者の霊は成仏させられないというのでしょうか?
そうだとしたら無念の死を遂げた本人、家族はどこに救いを求めればいいのでしょうか?
入蔵も長く生きています。
長く生きていると、近所にいわゆる事故物件となった場所があることを少なからず知っています。
もしかしたら、巷間ささやかれるような現象が起こる場所もあるのかもしれません。
でも、入蔵の知っている、いわゆる事故物件リストに漏れているそのような場所では、特にそのような話は出ていません。
そういった場所で、このコロナ禍でも、盛業中の店舗もあります。
まあ、そういった場所は人々の興味を引かないのでしょう。
人々が幸福に暮らしている「事故物件」がたくさんあると入蔵は思います。
あくまで、入蔵の感想ですが、たぶんそれほど不適切な考えではないと思います。
入蔵に言わせれば、戦争などというものには、戦勝などというものはなく、戦争を始めた時点で、戦っている両者とも「敗戦」しているのです。
そういう無意味な戦争で命を落とした方も、自然災害で命を落とした人も、事件、事故等で命を落とした人も、大方無念に決まっているでしょう。
その無念さは簡単に消せないにしても、我々の心からの鎮魂の願いにも関わらず、不成仏霊になっているなどということが本当にあるのでしょうか?
以前書いたように、入蔵は、普通にはいわゆる「霊体験」といわれる体験があります。それはとてもリアルなもので、錯覚などの入り込む余地はないものです(それでも、精神病理学的に説明できる余地があるのかもしれません。入蔵としてはむしろそのほうが嬉しいです)。
さらに臨死体験と呼ばれるものもあります(これも以前書きましたが本当に、リアルな体験です)。
ですから、通常「霊体験」と呼ばれるものを否定しているのではありません。
そもそも、よくお聞きする霊体験は、入蔵が思うところ、内容に矛盾があったり、不自然な感じがするものが多く(美談の形をとっているのに登場人物が触法行動をとっている体験談がよくあります)、入蔵が体験したものとは全く違います。
入蔵の体験の中で、いわゆる「霊」となって表れた友人はまったく普通の姿で現れたので、彼と道端で話しをして別れ、しばらくしてから、何年も前に彼の葬儀に出たこと、彼が季節外れの服装をしていたこと等を思い出したくらいです。
若くして亡くなった無念さなど微塵も感じませんでした。
入蔵は、彼は僧侶、家族、友人その他の縁ある人々の祈りによって成仏しているのだと思っています。
1906年生まれの入蔵の祖母は関東大震災の時、まだ、数人しか人がいない状態の陸軍被服廠跡に兄弟5人中の4人と入り、被服廠跡のほぼ中央の位置になぜか落ちていた濡れ布団の下に隠れて、4万人近くの死者の出た場所で九死に一生を得ました(別行動をした祖母の母と末の妹は行方知れずとなりました)。
入蔵の父は東京大空襲の時、亀戸にいて、前日の消防訓練の時に陥没した道路にたまった水の中で、こちらも九死に一生を得たのです。
この時、どちらか一方でも命を落としていたら入蔵は生まれておらず、読者諸氏とのご縁もなかったのです。
入蔵はだれでも皆、死んだら成仏できると思っています。
不成仏霊の心配などすることはやめて、今ここで生きていることに感謝して、このコロナ禍の中で、自分のできる範囲の精一杯を尽くしませんか?
できる範囲で良いと思います。
コロナ禍はきっと克服できます。自分に恥ずかしくない行動をとっていきましょう。
入蔵も自分に言い聞かせていくつもりです。
では、また。