虐待を受けて育った人のブログ

虐待を受けて育った人のブログ

僕は、父親と継母からの叩かれたり暴言を受け続けて育ちました。児童相談所や児童養護施設を経て、高校は働きながらなんとか卒業。社会に出たものの周りに溶け込めずに仕事もなかなか続きませんでした。そんな僕のこれまでの人生と、今について書いています。

YouTubeチャンネルを初めて9カ月が経ちました。
Reスタートチャンネルは、
『再起を応援し、最輝(サイキ)を心から願うチャンネル』

そんなチャンネルになることを目指しているのですが、これは
・再起→やり直し、再スタートできることを心から応援している。
・最輝→最高に輝くことで、生きてて良かったと思ってもらえることを願っている。
そんな強い想いが込められています。

どんな環境で生まれて育っても、最終的には自分自身で人生を決めていかなければならない。
今でこそ僕も素直にそう思えますが、散々否定されて育ってきた僕が、

『一般家庭で育った人』で構成されている社会に出ることは、

簡単なことではありませんでした。

絶対的な居場所、心の拠り所であってほしい家が、存在しないということは、

住む家が…とか、お金が…とか、目に見えることだけではなく、

精神的なプレッシャーも相当なもの。

それでも社会人としてやっていかなければならない。帰る家がないから失敗は許されない。

僕は不安感をいつも抱えて生きていました。
『どうせオレなんてダメ人間だし…』という思いもあったので、

友達といても疎外感がなかなか拭いきれませんでした。

 

今でこそ、僕は社会になんとか溶け込むことができましたが、

ここに至るまで沢山失敗をして、沢山の気付きがあって、沢山の本も読んできました。

 

Reスタートチャンネルは、これから色々な新しいコーナーができる予定です。
『再起を応援し、最輝を心から願うチャンネル』
そんなチャンネルになりたいと本気で思っています。
 

Reスタートチャンネルを今後とも宜しくお願いします。
 

⇒Reスタートチャンネル

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これまでの生い立ち
活動実績
Reスタートチャンネル(YouTube)
 

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『虐待をなくしたい』そんな思いからこのブログを始めて10年が経ちましたが、
この度YouTubeチャンネルをスタートします。
 

虐待を受けて育った人も、いつかは前を向いて人生を歩んでほしい。
そんな想いから『Reスタートチャンネル~家で色々ありまして~』と名付けました。
"Reスタート=再スタート"をテーマとしたチャンネルにしていく予定です。
 

これから動画の撮影を行っていきますが、

ぜひチャンネル登録をしていただけるとありがたいです。
 

Reスタートチャンネル~家で色々ありまして~

相方の『マリリン』は僕と同じ虐待サバイバーで、

壮絶な人生から再スタートできた人でもあります。

これから一緒に頑張っていきたいと思っておりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。

その手紙は、なんの前触れもなく突然届きました。

『平素は本市行政へのご理解とご協力をいただき厚く御礼申し上げます。
この度、橋本〇〇様が2019年1月17日にお亡くなりになったとの連絡が
入院されていた県立ガンセンターよりありました。』

亡くなったのは父。

ちょくちょくとかかってきていた父からの電話がここ数か月間は途切れていて、
父の誕生日も近かったので、そろそろ電話をかけてみようと思っていた矢先の出来事でした。
手紙の差出人は社会福祉事務所。とりあえず連絡をくれと簡潔に用件が書いてあるその手紙を何度も読んでから僕は電話をかけました。

父は僕と再会するよりもずいぶん前に、

経営していた会社を廃業したことは知っていました。
その後は警備員などの仕事で細々と生活していましたが、

もともと患っていた糖尿病が2年位前に悪化して足を切断。
その後は以前のようには動けなくなり失業。
それでも社会復帰を諦めていなかったそうですが、
残念ながら父を必要としてくれる会社は見つからなかったそうです。
継母とも離婚をして、頼る先がない父はどうすることもできなくて、
最終的に社会福祉事務所を訪れて生活保護の申請をして、
正式に申請が許可された翌日に父は亡くなったそうです。

死因はすい臓がんでした。

社会福祉事務所は父の遺体の引き取り手を探しました。
しかし親戚がほとんどいなかった父の引き取り手探しは難航。

なんとか親戚と連絡が取れたとしても引き取りを拒否されてしまったそうです。

しかも何人にも。そんな中で巡り巡ってようやく僕のところに連絡がきた訳ですが、
父は既に死後から2週間近く経過しており、ずっと葬儀屋さんの霊安室にいるそうです。
なんだか気の毒になりました。

僕は急いで諸々の手続き済ませました。
葬儀を行うため、継母や義理の弟にも念のため連絡をしたのですが、二人とも列席を拒否。

葬儀は僕と父の友人2名の3人でひっそりと行いました。
父は酒の席で、新事業のアイデアについてなどを、いつも話していたそうです。
そして僕の話もしていたそうです。『ずっと会えなかった倅が立派になって帰ってきた。

倅や孫の為にも俺もしっかりしなきゃな。』と嬉しそうに話していたそうです。

遺品整理で父の家に入りました。クローゼットには、綺麗に整えられたスーツが何着もあり
Yシャツやネクタイもきちんと収納されていてすぐにでも着れる状態でした。
”最後まで諦めていなかったんだね…。”なんだか胸が締め付けられる思いでした。

父の家には弟の隆の遺影がありました。
”これは僕が預かろう…”とその遺影を手にすると、

1枚のうす汚れたメモ紙が遺影の後ろに挟まっていました。
そのメモには電話番号と〇〇住職とだけ書いてありました。
実はそれは隆のお骨を預かっているお寺の電話番号だったのです。
僕はすぐにそのお寺に向かいました。

そのお寺では本来は1年間だけお骨を個別に保管し、
その間に合葬墓にするかお墓を建てるかを決めてもらう、という決まりだったのですが

父は1年経つか経たないかで連絡がつかなくなってしまった。
それから約36年経ってこうして僕から連絡が来たそうです。
お寺側としても勝手に合葬墓に入れる訳にもいかずその間、

ずっと綺麗に保管しておいてくれたそうです。
連絡を怠っていた父の代わりに僕は平謝りし、そしてありがとうございますと伝えました。

そして僕は36年ぶりに亡くなった弟”たかし”と再会しました。
たかしが眠っている小さな小さな骨壺。
4年間しか生きることができなかった”たかし”の骨壺はとてもとても小さかったです。

”たかし、やっと会えたね。遅くなっちゃってごめんね。”

胸が熱くなりましたが涙は出ませんでした。
僕は父の遺骨もそのお寺にお願いすることにしました。
”たかしにきちんと謝ってね。そして2人で僕を見守ってください。”
そんな思いを込めて、僕は父の遺骨をたかしの小さな骨壺の隣にそっと置きました。

ちなみにその住職に、たかしが亡くなった時のお通夜の様子を聞きました。
父は、ひどく憔悴していて疲れ切っていた様子だったそうです。
焼香で自分の番が来てもボ~っとしていて、
声を掛けても反応がなく、なにかをブツブツ言っていたそうです。

僕は父が亡くなる前に、腹を割って話しができて本当に良かったと思いました。
もし会っていなかったら、きっと父を恨むことしかできなかった。
その恨みの感情でしか発信はできなかった。
もちろん父がしたことは取り消すことはできない。
でも父が涙を流したり、弱音吐いたり、夢を語ったり
そんな人間らしい部分を少しでも知ることができたのは
僕にとってはとても大きなことでした。

こうして家族がまた一人居なくなりました。改めて考えるとなんか寂しいな。
でも、僕には守るべき家族がある。そして帰る場所がある。
今ならしっかりと前を向くことができる。

僕は今、色々な場で虐待についてのお話をする活動に取り組んでいます。

家族を持ち、本業の仕事をしながら地道にコツコツと続けています。
⇒これまでの実績

人間一人ができることなんてとってもちっぽけなことです。
僕の活動が、どれ位意味のあることかなんて正直分かりません。
でも…やっぱり何もしない訳にはいかない。

たかしの想い、そして父の生きざまをしっかりと心に刻み
虐待を生み出さない世の中がいつか叶うことを願って、
これからも声を上げ続けていきたいと改めて思いました。

橋本隆生という名と共に。


それが僕の命の使い方なのだと信じて。

 

⇒これまでの生い立ち

 

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2年前より被写体として協力していた写真集がこの頃に完成しました。
失敗とか出会いとか覚悟とか(37歳)
 

その写真集に被写体として協力していた2人と僕とで、

なにかできないかと考えて結成されたのが虐待体験者のグループ
『internaReberty PROJECT(インタナリバティプロジェクト)』です。

internaReberty PROJECT

そしてこの年は、僕にとって凄く大きな出来事があった年となりました。
それは、ある記者の方との出会いから始まります。
虐待体験についてを取材させて欲しいとのことだったので、

会ってお話をすることになりました。

その日もいつものように、虐待体験のについてや生き別れになった母の事や、

亡くなった弟のことをお話しました。
いつもであれば、話し終えた後にいくつかの質問に答えて取材は終わりとなるのですが、
この日は少し違う展開でした。

僕の話を聞き終えた記者の方は涙ながらにこう言いました。
『亡くなった弟さんの生きた証が何一つ残っていないのが悲しすぎます…。
そして、生き別れのお母さんは絶対に隆生さんと会いたがっていると思うんです…。』

これまでの取材で、そんなことを言われたことがなかった僕は動揺しました。
弟に関しては、写真がないならせめて死亡記録などの記録だけでも
探してみたらどうだろう?と提案されたので、それは実行することにしました。

 

お母さんは戸籍を辿って会いにいったらどうかと提案されましたが、

それはできない…と僕は断りました。
”お母さんは既に再婚をして、子どももいて幸せに暮らしている。”
これは僕が小学生だった頃からずっと父に聞かされていたことです。
新たな家庭を持ち、幸せに暮らしている母にどんな顔をして会ったらいいのでしょうか?
今さら僕が現れることで、母を困らせてしまうかもしれない。
そして母を不幸にしてしまうかもしれない。
だから僕は…母は探さない。それは小学生の頃から固く心に決めていたことでした。
寂しくて辛い時に何度か、探そうと思ったことがありましたが

そんな思いはいつも押し殺していました。

なので、母を探すことを提案されたこの時も、
『いや…母は再婚しているので今更会えません。』と言ったのですが、
絶対にそんなことはない!母親はいつまでも母親なんです。
会いに来てくれて嬉しくない訳がないんです!
少なくとも橋本さんの場合はそう言い切れます!と記者の方も引き下がりませんでした。
少し考えます。と伝えて、とりあえずその日の取材は終わりました。

”母親はいつまでも母親なんです”
家に帰ってからもその言葉が頭から離れませんでした。
本当に母は嬉しいのだろうか…今更現れたところで…。

”本当に会うべく人とは、会うべくきっかけがいつか来る”
いつの頃からか信じていたその考えに従って
これまでも、継母の母親や父と会ってきました。
結果、いずれも会ってよかったと思えました。
ばあちゃん(30~31歳)
父と会う、再び。(38歳)

母とは…今、まさに今が会うべくきっかけなのかもしれない。
会って嫌な顔をされたらそれはそれ。もう二度と会わなければいいだけの話だし、

どんな結果であっても母と会うことがまた一つの棚卸になるのかな。

そして僕は、母を探すことを決意しました。
 

⇒これまでの生い立ち

 

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僕がやるべきことは2つ。
1つ目は、弟の死亡記録あるいは存在が分かる記録を入手すること。
2つ目は、母を探すこと。

弟の死亡記録に関しては、まずは市役所に問い合わせをしました。
しかし、死亡届の保存期間は27年。弟が亡くなったのは、35年前。
保存期間を大きく過ぎていたので死亡届は諦めるしかありませんでした。
再び市役所へ問い合わせし、戸籍関係を色々取り寄せました。
僕の家庭は、引っ越しが多くそれに伴って
本籍もちょくちょく変わっていて、更には苗字ではなく

名前が変わっていた時期もあったので、それを調べる必要もありました。
住民票…戸籍謄本…改製原戸籍…しかし隆の記録はありません。
かなりの手間と時間がかかっていたので、何度も心が折れそうになりました。

そして数か月後、やっと辿り着くことができた除籍謄本にて
隆の記載を見つけることができました。
『昭和五拾九年六月八日推定午後八時参拾分宇都宮市で死亡』
その記載を見て、隆の死を改めて実感しました。
でもやっと見つけた唯一の隆の生きていた証。
大切に取っておくね…隆。

そして2つ目の母を探すこと。
これは、戸籍の附票というもので確認できるのですが
拍子抜けするくらいあっけなく見つけられました。
母がいるのは福島県。
しかし、死亡していても記録は数年残るとの事なので
もしかしたら既にこの世にいないかもしれない。
思いつく限りの結果を予測し、心の準備をして僕は福島へと向かいました。

母の連絡先も知らない僕は、当然アポなしで訪問です。
手紙も考えたのですが、再婚相手やお子さんがその手紙を開封してしまうかも
しれないと思ったし、差出人を無記入で出すのはもっと怪しいと思ったので。

朝8時に現地に到着。何度も間違っていないかを確認する。
インターフォンを鳴らす直前、胸の高鳴りはピークに達していました。

”そういえば…お母さんの顔って覚えてないや…向こうもこっちの顔分からないだろうし、

当時4歳だった息子が、35年経っていきなり現れても信じてもらえないよな…

っていうか…本当に会っていいのかな…。”

正直不安しかありませんでした。

最初の訪問は不在。その後は1時間に1回位のペースで訪問しました。
12時になっても誰も出てこないので僕はいよいよ不安になりました。
”もしかしたら本当に亡くなっているのかも…”
様々な結果を想定したていたとはいえ、それが現実味を帯びてくるとやっぱり不安です。

半ば諦めかけていた15時頃。ついに扉が開きました。
出てきたのは女性。”この人がお母さん?”って思いながら僕は、
『あの…隆生…橋本隆生ですけど…。』

しばし無言の後、その女性は言いました。
『え…本当に…本当に隆ちゃんなの…?』

『はい。お久しぶりです。』
気が動転していた僕は、気が付いたら身分証明書を差し出していました。
本人だよということを伝えたかったのです。

こうして僕は無事、35年ぶりに母と再会することができました。
その2~3ヶ月後には家族を紹介しました。それが2年前に更新したこの記事につながります。

⇒生きていてよかった(40歳)

 

驚いたのは、母は再婚などしていなかったという事。
父は僕が母を探すことを恐れて、
再婚した、という嘘をついていたのかもしれません。
だとしたら、僕はその術中に見事にはまっていた訳です。

母は父と離婚してから、ずっと一人で生きてきたそうです。
僕と隆を守ることができなかったこと、父に引き渡したこと
隆を亡くしてしまったこと…それら全てを自分の責任だと思って
ずっと責め続けてきたと母は言っていました。

僕は、母の背中をポンポンっと叩きながらこう言いました。
『もういいんだよ…こうして会えたんだし。』
母は涙を流して、何も言わず首を縦に振るだけでした。

 

⇒これまでの生い立ち

 

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