たかし…やっと会えたね(41歳) | 虐待を受けて育った人のブログ

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僕は、父親と継母からの叩かれたり暴言を受け続けて育ちました。児童相談所や児童養護施設を経て、高校は働きながらなんとか卒業。社会に出たものの周りに溶け込めずに仕事もなかなか続きませんでした。そんな僕のこれまでの人生と、今について書いています。

その手紙は、なんの前触れもなく突然届きました。

『平素は本市行政へのご理解とご協力をいただき厚く御礼申し上げます。
この度、橋本〇〇様が2019年1月17日にお亡くなりになったとの連絡が
入院されていた県立ガンセンターよりありました。』

亡くなったのは父。

ちょくちょくとかかってきていた父からの電話がここ数か月間は途切れていて、
父の誕生日も近かったので、そろそろ電話をかけてみようと思っていた矢先の出来事でした。
手紙の差出人は社会福祉事務所。とりあえず連絡をくれと簡潔に用件が書いてあるその手紙を何度も読んでから僕は電話をかけました。

父は僕と再会するよりもずいぶん前に、

経営していた会社を廃業したことは知っていました。
その後は警備員などの仕事で細々と生活していましたが、

もともと患っていた糖尿病が2年位前に悪化して足を切断。
その後は以前のようには動けなくなり失業。
それでも社会復帰を諦めていなかったそうですが、
残念ながら父を必要としてくれる会社は見つからなかったそうです。
継母とも離婚をして、頼る先がない父はどうすることもできなくて、
最終的に社会福祉事務所を訪れて生活保護の申請をして、
正式に申請が許可された翌日に父は亡くなったそうです。

死因はすい臓がんでした。

社会福祉事務所は父の遺体の引き取り手を探しました。
しかし親戚がほとんどいなかった父の引き取り手探しは難航。

なんとか親戚と連絡が取れたとしても引き取りを拒否されてしまったそうです。

しかも何人にも。そんな中で巡り巡ってようやく僕のところに連絡がきた訳ですが、
父は既に死後から2週間近く経過しており、ずっと葬儀屋さんの霊安室にいるそうです。
なんだか気の毒になりました。

僕は急いで諸々の手続き済ませました。
葬儀を行うため、継母や義理の弟にも念のため連絡をしたのですが、二人とも列席を拒否。

葬儀は僕と父の友人2名の3人でひっそりと行いました。
父は酒の席で、新事業のアイデアについてなどを、いつも話していたそうです。
そして僕の話もしていたそうです。『ずっと会えなかった倅が立派になって帰ってきた。

倅や孫の為にも俺もしっかりしなきゃな。』と嬉しそうに話していたそうです。

遺品整理で父の家に入りました。クローゼットには、綺麗に整えられたスーツが何着もあり
Yシャツやネクタイもきちんと収納されていてすぐにでも着れる状態でした。
”最後まで諦めていなかったんだね…。”なんだか胸が締め付けられる思いでした。

父の家には弟の隆の遺影がありました。
”これは僕が預かろう…”とその遺影を手にすると、

1枚のうす汚れたメモ紙が遺影の後ろに挟まっていました。
そのメモには電話番号と〇〇住職とだけ書いてありました。
実はそれは隆のお骨を預かっているお寺の電話番号だったのです。
僕はすぐにそのお寺に向かいました。

そのお寺では本来は1年間だけお骨を個別に保管し、
その間に合葬墓にするかお墓を建てるかを決めてもらう、という決まりだったのですが

父は1年経つか経たないかで連絡がつかなくなってしまった。
それから約36年経ってこうして僕から連絡が来たそうです。
お寺側としても勝手に合葬墓に入れる訳にもいかずその間、

ずっと綺麗に保管しておいてくれたそうです。
連絡を怠っていた父の代わりに僕は平謝りし、そしてありがとうございますと伝えました。

そして僕は36年ぶりに亡くなった弟”たかし”と再会しました。
たかしが眠っている小さな小さな骨壺。
4年間しか生きることができなかった”たかし”の骨壺はとてもとても小さかったです。

”たかし、やっと会えたね。遅くなっちゃってごめんね。”

胸が熱くなりましたが涙は出ませんでした。
僕は父の遺骨もそのお寺にお願いすることにしました。
”たかしにきちんと謝ってね。そして2人で僕を見守ってください。”
そんな思いを込めて、僕は父の遺骨をたかしの小さな骨壺の隣にそっと置きました。

ちなみにその住職に、たかしが亡くなった時のお通夜の様子を聞きました。
父は、ひどく憔悴していて疲れ切っていた様子だったそうです。
焼香で自分の番が来てもボ~っとしていて、
声を掛けても反応がなく、なにかをブツブツ言っていたそうです。

僕は父が亡くなる前に、腹を割って話しができて本当に良かったと思いました。
もし会っていなかったら、きっと父を恨むことしかできなかった。
その恨みの感情でしか発信はできなかった。
もちろん父がしたことは取り消すことはできない。
でも父が涙を流したり、弱音吐いたり、夢を語ったり
そんな人間らしい部分を少しでも知ることができたのは
僕にとってはとても大きなことでした。

こうして家族がまた一人居なくなりました。改めて考えるとなんか寂しいな。
でも、僕には守るべき家族がある。そして帰る場所がある。
今ならしっかりと前を向くことができる。

僕は今、色々な場で虐待についてのお話をする活動に取り組んでいます。

家族を持ち、本業の仕事をしながら地道にコツコツと続けています。
⇒これまでの実績

人間一人ができることなんてとってもちっぽけなことです。
僕の活動が、どれ位意味のあることかなんて正直分かりません。
でも…やっぱり何もしない訳にはいかない。

たかしの想い、そして父の生きざまをしっかりと心に刻み
虐待を生み出さない世の中がいつか叶うことを願って、
これからも声を上げ続けていきたいと改めて思いました。

橋本隆生という名と共に。


それが僕の命の使い方なのだと信じて。

 

⇒これまでの生い立ち

 

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