三重を中心に徹底訪城 検索「山城遺産」「セルフコラボレーション」 ペン画で歴史を伝承 時々徒然に

中世の城を主に訪城しています。三重県が多いです。百名城は96/100。総数で600城。新発見が4城です。

発見!! 出丸城

2020-10-29 11:55:54 | 古城巡り

 これまで出丸城の場所を確定した報告や資料は無かったが、今回確率の高い遺構を発見したことでこれまでのブログ記事を全面改訂し旧記事は削除した。

 過去2回(2017  2019年)は単独訪城、今回(2020年)は山城会会員の同伴を得た訪城である。山桜がこれ見よがしに枝を張り尾根のところどころに花びらを散らしていた。

 

城名
 出丸城
読み
 いでまるじょう【*1】
住所
 津市一志町波瀬出丸/松阪市嬉野宮野町
形式
 山城/のろし台
遺構
 曲輪、土塁
城主
 出丸四郎国道【*2】
一族
 波瀬氏の分家。波瀬城の支城。【*2】
標高 206m(三角点) 比高 125m
歴史
 信長により落城。
書籍
 【*2】日本城郭大系・【その他の城郭一覧】 伊勢の中世城館・第22号【上出城の調査】 忍者学講座・第7章【忍者の火器を作ってみる】
環境
 多気御所と一志平野部を結ぶ多気街道と波瀬の平野部を眼下に見る尾根の先端から離れ、それらの見通しがなくなる尾根の奥へ進んだ206mのピークに達すると遺構はある。
 現在、山頂は雑木に覆われ視界が効かない状態であるためカシミール3Dソフトによって見通しを確認した結果、波瀬城への見通しは効くことが分かる。距離は1Km余りである。

現地
 山の東入口から700m進むと、標高180mに小ピークがある。その北東直下には削平地が3段ほど連続して見られる。石垣、建物礎石、瓦の残骸が散在するがこれは「秋葉神社」跡という。

 また小ピークより100m南東には土塁と切岸で二方向を固めた削平地が独立してある。堀切は見られないがこの遺構は出丸城を構成するパーツのひとつと考えられ、出曲輪とする。

 三角点のある206mピークの削平感は弱いが、西北西に一段下がった曲輪は2方向を今は低いが土塁としていることが明らかで、ここが出丸城の本体と考え、主郭とする。

考察
 西北西の方向へ平行に土塁(芯距離9m)が設けられていることがこの遺構の唯一、最大の特徴である。当初、その防御性の無い縄張りにこの遺構を城跡と判定できなかったが、ある特殊な機能を持たせた施設と仮定するといきなり確信が持てることとなった。
 特殊な機能とは、非常時、昼夜を問わず本城・波瀬城へ信号を送る情報中継基地ということである。昼間や条件の良いときはのろしを揚げることはもとより、夜間や条件の悪いときは火を焚き上げて本城に光による信号を届け重要な情報を送ったのではないか。
 西北西に平行に土塁が並び、後方は切岸で段差を設け3方をふさいだうえで波瀬城の方向は開いているのはそのためではないだろうかと考えられる。わざと波瀬城に向けてこの遺構の縄張りは施されていると思えるのである。
 

 中世における山城間の情報伝達の手段として「のろし」は既に言われてきている。煙の種類や揚げ方などいろいろあることは想像されているが、それは昼間に行われてきたという暗黙の了解で成り立ってきていると思われる。実際、敵方は夜間の動きもあったはずだ。”情報は夜も動く”

 波瀬氏の分家で城主・出丸四郎国道は昼夜を問わず、阿坂城など東からの情報を見逃すことなく捉え、本城波瀬城に素早く、間違いなく中継する役目を担っていた。火を扱える特殊で重要な役職、あるいは忍者的な働きをもった武将であったとも考えられる。
 三重大学国際忍者研究センター著、山田雄司編「忍者学講座」の第7章・荒木利芳名誉教授はこう記されている。
 忍術の3大秘伝書『万川集海』の火器編には、火器・火術は次のような理由から、忍術要道の根源であると述べられている。「一、中略、二、昼夜にかかわらず味方に合図できる。三、風雨に消えない松明で、味方の難を救える」。
 やはり情報の伝達は24時間、悪環境下でも行えなければならなかったのである。
 更に教授は、「また、本書には200種類以上の火器が記されているが、その内の半分近くが敵を撃退するための「破壊用火器」で、残り半分が松明やかがり火などの「照明用火器」、およびのろしなどの「合図用火器」である。」と引用されている。
 昼間しか使えない「のろし」にとどまらず、昼夜にかかわらない、あるいは悪環境下でも使用に耐えうる高機能松明が既に発達していたと考えられる。のろしやのろし台に対する私たちの捉え方を、これからは変える必要があるのかも知れない。
 その物的証拠としてこの出丸城の波瀬城に向いて開く二本の平行した土塁遺構を診ることができるのではないだろうか。

 波瀬城の位置から直接阿坂城など東側の見通しは効かないが、この206mのピークからだと阿坂城など東側の山頂の見通しが効く。
 阿坂城や東の山城と波瀬城の中継基地としてこの城は存在したのではないだろうか。
 山城の築かれる場所は川や道による人や物の流れのある所が通常であるが、この城は川や道の傍にあるものではなく、わざわざ山の奥まったところに造られている。
 あるいは山の奥まった所の険峻な要害の地でもないところにある理由は、この城が情報の中継だけが目的であるからであると思われる。
 206mピークにある遺構の方向と形、そして要害性のない位置や、防御性の弱い縄張りを考えたとき、この城は直接敵兵と戦うための施設ではなく、阿坂城など東側からの情報をいつ何時でも本城・波瀬城に伝える役目を持った情報中継基地であったと考えるのである。
感想
 1569年(永禄12)北畠氏と織田信長が和睦し、波瀬氏も落着きを取り戻したのかも知れない。しかし、1576年(天正4)波瀬具祐が田丸城で他の北畠諸氏と共に殺害されると、弟・具通、子・雅通、孫・康親が次々と殺害され、1577年波瀬城と共に出丸城は落城した。
 阿坂城からこの出丸城を経由して波瀬城に緊急の一報が届いたことだと想像すると、この城の存在がその姿以上に際立ってくる想いである。出丸四郎国道も激闘の末、主君と共に散り咲いたのだろうか。
*1 広報津【平成26年1月16日/第194号 歴史散歩(92)】による読み。

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