向き合うものは、外ではない。

向き合うものは、己の内側であり、

己の内にある、かなしみや苦しみなのだ。

 

寂しかった。

寂しくって、悲しかった。得られなくって苦しかった。

 

もう、あきらめよう。

観念しよう。

 

向き合うものは、外ではない。

向き合うものは、己の内側であり、

己の内にある、かなしみや苦しみなのだ。

 

 

消化する思いも、感じるものも、気をやる場所も・・・全ては内側にある。

全ての外からもたらされたものではない。

哀しみは内側にある。

観るべきものも、向き合うべきものも。

悲しむべきものも、ソレを感じ癒やし切る・・・消化するものも・・・全ては内側にあった。

 

人に期待をしないと意味が、やっとわかった・・・

それは諦念するということだった。

 

それは、諦めて断つという意味ではない。

 

 

私は、幼少期の渇望があった。

そこから寂しさを軸にした。

だから、外から愛(構ってもらうという形)を得ようとし、

得られず(構ってもらえない)

裏切られたとか利用されたとか(構ってもらえるはずなのに貰えなかった、)

と、憤慨する(思い通りに、要求のとおりに満たして貰えなかった、得られなかったと駄々をこねる)

 

哀しみは、いつも外からやってくると思っていた。

でも違った。

哀しみは、いつも内側にあった。

哀しみは何時も内側からやってきていた。

 

外に

何で私ばかり!! なんでこうしてくれないの!! 何で寂しい思いを・・・

と、思っていたけど・・・ソレは本当は内側から発せられているものであり、鏡としての外で(そういう現象として)見せられていただけだった。

外からやって来る問題ではなかった。

 

私が気が付かなかったから・・・

内側のものが渇望の「表現」として外側に滲み出し(態度や選ぶチョイスに表れるということ)、

鏡としての現実に写っていた。

内側のそういうものを表現する、外の鏡として。

私が、選んでいたのだ。

内側を見ない選択の大小として。

見せられていたのだ。

きずけよと。

 

はじめて・・・

だったら、内側を見なけりゃ外側の鏡として内側が現れるのならば・・・

だったら、とっとと内側を見て、鏡として見せられる前に解決してしまえばいい。

とっととな!

初めて、そう、納得できた。

(だから内観が重要というわけ)

 

いつも外からやってくると思っていたものは、実は内側の鏡だったという訳だ。

何時も外からもたらされると思っていた哀しみや苦しみは、実は内側からやって来る哀しみや苦しみだったという訳だ。

 

得られなかった渇望を得ようとして、得られない苦しみを味わう。

外に求め、外にはないと気が付き、それでも得ようとして足掻き藻掻き、ソレでも得られないと分かって絶望する。

苦しむ。

 

それが内側からやって来る問題であったと

真に気つき、手放すまで。

 

 

観るべきものは内側だ。

その心の秘めた思いや声を知るために、外側の現象がある。

 

ソレに気がついたら、真摯に内側を観る。

内側に答えを求める。

表現されている問題の、根本の根を。

 

対策を打つのは内。 (結局外は対処療法なんだけど・・・外も打ったほうが良い。対処療法として。)

求めるのも内。

真摯に観、向き合い、癒やすべきものも。

全ては内側に答えがある。

 

この答えというのは、正解の回答ではない。

問題解決の、カルマやメビウスの輪・・・鏡を、自己を超える答え・・・

苦しみをもたらす原因の出口が、そこに有るのだ。

自己を超える出口も、鍵も、問題も(根本) 

 

全てはそこ(内)に有る。

 

ソレがわかった時、ふと、外に求めないということが分かって。。。

それは諦めからくる冷たさではなく、真摯に内側に向かったものが得る結果であり、優しさなのだと言うことがわかった。

まだ体現できてはいないので多分だがね・・・外側に求めなくなる。向かわなくなる。

その結果、外に求めることがなくなるのだ。

義務とか意思で求めない!!いらないもん!!ではなく・・・中立というのか・・・

 

そして、情は薄くなるだろう。

外側に求める苦しみはわかる。わかるからだ。

 

決して冷たいというわけではない。

わかるからこそ、見守るのだろう。

ロンドを一人で抜けれる・・その邪魔をしないために。

つうか、人に手伝ったもらうと真にわかつてないんだから抜けれん・・・

自分で得た気づきが必要だからだ。

そこに、賭けているから、信じているから、邪魔なんてできない。

 

心も静かになるだろう。

情があまり動かなくなるからだ。

凪だ。

しかし、色々なことを感じる・・・感性は活発に動くだろう。

その光景から見る景色は豊かで深い。

実り多い人生だろう。

 

そして、たまに内側から溢れ出る情ではないもの・・・

慈悲や愛という表現になるのだろうが。。。

そういうものが゛内側から出たときだけ、動くのだろう。

相手に伝わりやすいように、情というフィルターを通して返信して届けるかもしれないし、ストレートに届けるかもしれない。

伝わりやすさによろと思う。

(情はこの時に振り回されるものではなく、相手へより受け入れやすく伝えるための表現の道具になる。

情を使える・・・従える?事できるのだ)

 

 

 

 

あれ? 恋愛って、このお勉強?

情のお勉強?

んて気がついてスコーンと憑き物が取れた。

 

たぶん次は、こいつが終わったら逆ベクトルのお勉強なんだろう・・・

己の内側と向き合い、その結果何を捨て、残し、選び取るのかにはよるが (ソレが私が表現する世界であり、世界が見せる鏡だ)

 

奪い合い、苦しみ合うのではなく。

愛を循環させて、自分も人も神も、より幸福になってゆく・・・育む学び。

常に自己を超えてゆく成長と、内側の探求。

命題の、自分の足で自分を満たし自分自身を満足させること。

そういう、真の自立への・・・

ベクトルになるのではないかと思っている。

 

 

しかし、2年半かかったけど、マジできっつい学びだった。

人との学びとは偉大だ。

手伝ってもらった人々に感謝。

 

(でも、正直一つのことで芋づる式に溶けるとは思っていなかった・・・

ふつーの人ならコンナニ見ずに「同じ次」を探すだろうからね・・・

なんかソレの繰り返しである恋愛というものに違和感を感じたのが始まりだけど・・・

コレが恋愛の学びというのなら、それ自体を卒業してしまうのではないだろうか?

まあ、ソレでも良いような気がする。

次は次で愛の学びが残っているのだろうけど。。。

っうか、ここでずーーーーっと引っかかってくるくる回っている人もいる・・・)