特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

柏03に乗って野田市駅から野田車庫へ行った話

2020年01月17日 22時27分59秒 | 旅行

大変遅くなりましたが皆さま、新年明けましておめでとうございます。
ところで新年早々放送されたローカル路線バスの旅Z楽しかったですねえ。
羽田圭介氏が福井県のあわらぐるっとバスの車内で田中要次から地図帳ひったくって
「地図は路線図を見るものじゃなく地名を覚えるためのもの」というコメントを発してましたね。

今回は前回予告申し上げた通り「タワマンもへったくれもなかったほど古い時代の柏03のある思い出」をお話ししたいと
思いますがその前にとある地図をご覧いただきたいと思います。

右上の野田市駅と左上の愛宕駅の間に「野田市一部商工案内図」という標題やらなんやら文字が並んでいて隠れてしまってますが、この両駅の間は一本道であって、柏03が野田市駅から出ると通っていた道です。そこに以前お話ししたわたくしの卒園した幼稚園が今もあります。
平成3年か4年かそこいらへんのものと思われます。馬6頭とポルシェを持っていた住友重機械の田村純子さん家は愛宕駅のずっと上のほう、千葉3大餃子の一翼を担うホワイト餃子本店はこの図のうんと下方に所在しており地図にはありません。下部の「野田市駅前東武バスのりば金網」の文字を見ておりますうちにわたくしの脳裏に小学5年生の夏休み、東武バスに乗ったある日の思い出が澎湃と蘇ってまいります。

 

 

 

 

思えば路線バスの沼にはまってまだ1か月か2か月しか経っていない、バスオタとしては文字通り鼻たれ小僧だった頃のある暑い日のまだ日は高い午後のことでございました。
野田市駅を出たばかりの柏03のルートは以前このブログでくどくどお話しした通り不思議なルートで、駅前の1番のりばから出るとまた同じ駅前の4番のりばに戻ってくるのです。さらに1番からと4番からとでは運賃もまた違うので柏行きのバスに乗る人はみんな安く済む4番のりばで待つのです。

 

 

 


これは東武最後の平成13年に3番のりばに立って4番のりばを映したものですが、昭和50年代には自動販売機などなく、停留所標柱はもっと大きい電照式のものでした。あの日わたくしも柏ゆきのバスに乗ろうとやはりこの4番のりばへ行きました。ところがベンチは目いっぱい埋まっており立って待っている人も10人ほどいました。ベンチの反対端の3番のりばは境営業所の岩井・境ゆきと野田出張所の東宝珠花ゆきの乗り場になっていましたが、これらの路線に乗ろうという人は大抵、途中の愛宕か清水公園で待っているのが通例で野田市駅から乗る人は極めて少数なので、ベンチに座っている人のほぼ全員が柏ゆきに乗る人々であろうと思われました。

 

 

 

 

マナーやモラルのかけらもない野田市民にも昭和の昔にはわずかながら人間の心が残っていて、バスに乗るときだけはなぜか順番をよく守っており「うーむ、このままではオタク席どころか着座そのものができないのではないか」とわたくしは激しく危惧いたしました。
南中後の強い日差しが被っている野球帽のひさしを越えてほっぺたをジリジリと照らすなか、大人ばかりと思われたバス待ちの群れの中に自分と同じ子供がいることに気づきました。チラとお互い目と目があいましたがすぐさまお互いとも目をそらしました。大人子供入り混じった空間で同じ子供を見つけると何となくお互いを意識するものです。
その子は同学年か1つ年下の小4くらい、丸刈りじゃなかったので中学生ではない、当時テレ朝で放送していた「あばれはっちゃく」の主人公にやや似た風采で、するどい目付きの下に端正な鼻筋を有しており、しかしながら中高年のおっさんが家の中で着ていそうなやぼったいカーキ色の半袖シャツを着ていて性格はおとなしそう、突然逆立ちして「ひらめけーひらめけー」とか言いそうもない、そんな雰囲気の子でした。
さらにおとなしい性格だろうなと判断させたのは、当時の感覚でもかなり「おじさんくさい」と思わせる、ジッパーで開け閉めする真っ黒な革製ぽいひどく地味な小銭入れの口を大きく開いて前後左右に揺らし「チャリンチャリン」といわせながら中の硬貨を数えていたことでした。「なんだろう、自分の財布持ってなくてお父さんの借りてきたのかな」と思いました。また、バス乗り場で小銭を数えているということは誰か大人に連れられて来たわけではないのだと分かりました。なぜなら親に連れられてきたならばバス賃は親が子の分もまとめて払うのが今も昔も常識でありましょう。乗りバスを重ねているとこういう余計な洞察力も知らず知らず身につくのです。

 

 


ともかく4番から今バスに乗っても妙味がないことが明々白々であったので、わたくしはトットコトトトトと速足で移動し1分とかからずこの路線の本当の始点すなわち1番乗り場へ行き、柏03柏駅西口行きに乗ってオタク席に座りました。つまり野田市駅~野田車庫間は徒歩1分で行けるのです。それをわざわざバスに乗っていったというのが今回のお話しです。生まれてから東武が野田から撤退するその日まで、ここから柏行きに乗る人間は自分以外見たことがありません。行先同じなのに4番で乗るより運賃が高いのですから。

 

 

 


「このテープは柏03系統野田市駅発水堰橋経由柏駅西口行きです・・・・・・・・・・お待たせいたしました。毎度ご乗車ありがとうございます。・・・このクルマは柏駅西口ゆきでございます。途中お降りの方はブザーでお知らせ願います。次はベンテンマエ、ベンテンマエでございます」という長々しい音声が終わるか終わらないかのうちにこの弁天前を通り過ぎてゆきます。弁天なんかどこにも見当たりませんがバス停の後方100メートルも行かない所の森影に水をたたえた池と弁財天の祠があるのです。その池の水は風聞によればかつて野田の者どもが醤油作りに使っていた水だったともいわれます。
目の前のルネサンスなるところは当時、県立野田高校という女子校がありましたがいかにも女子校らしく狼たちの不健康な視線を遮るように高い塀に囲われていて、体のちいちゃい子供がツーステップの高い床のバスの車内でいくら背伸びをしてもピチピチしたお姉さん方を窺い見ることはできませんでした。

 

 

 

 

その高校は醤油工場付設の寄宿舎だった建物を、当地に路線バスが走り始めた頃の大正時代に野田醤油社から野田町に譲渡されてできたという学校です。わたくしのバス代の資金源だった祖母も前身の野田町立高等女学校に在籍していて、何でもその頃校舎の一角に醤油の元になる「もろみ」というゲル状のぷにゃぷにゃした塩分濃度の凄まじい物体が詰まった大桶が置いてあった。で、朝登校すると自分ちの畑から引っこ抜いてきた大根やらウリやら長ナスやらをその桶にヌポッとぶっ刺しておく、やがて昼休みとなり引っこ抜いてみるとこれが絶妙の塩加減でもろみが浸かってるので教師も生徒も、否、工場の野郎衆までやってきて、めいめい白米だけ詰めた弁当箱片手にそれらをオカズに昼飯にしていたのだそうです。これが他所の人々が食糧難に苦しんでいた戦前戦中の話というところがいかにも野田らしい。

 

 

 

 

学校裏。野田市立中央小学校の裏という意味ですが、わたくしがバスに乗った日は学校が休みの日ばかりですから、当然ながらこの小学校もお休みで当時の光景はあまり記憶に残っていません。

 

 

 

 

むしろ道の反対側の鎌田学園の「野田調理師学校」の方をよく覚えております。今は名前が変わって正式な高等学校になっているようです。新体操総合優勝おめでとうございます。

 

 

 

 

当時沿道に「ゆたか食堂」というこじんまりした赤ちょうちんのお店がありましたが今はお弁当屋になっています。腹が空きましたがあいにく定休日です。

 

 

 

 

愛宕駅が見えてくると道がモコッと盛り上がっていますが当時ここに小橋が掛かっていて橋の下に悪水路のような暗い色をした小川が流れていました。

 

 

 

盛り上がりの手前の駐車場のところは「あたご湯」という野田市唯一の銭湯があって、コンクリ製の高い煙突が戦艦の主砲みたいに聳え立っていました。銭湯入口はバス通りに面していませんでしたが、何か座れるようなものが路上に置かれていて、夕方ならば白タオルを肩にかけてタバコをくゆらしながら座っている湯上りのじいちゃんたちの姿がバスから見え、「年寄りの裸見てもおもしろくないな」と反対側に目をやると愛宕駅の向こうには今日のように高架などあるはずもなく、赤ペンキで「野田ボウル」と縦書されたやはり市内唯一のボーリング場のピンを模した大きな看板が夕日に輝いて見えました。

 

 

 


当時すでに愛宕駅のバス停柱はこのような台風が来たら一発で倒れるであろう二面式とか平面式と呼ばれるスタイルでしたが、てっぺんの白抜きバスマークの円板と下部の矩形板が分割されている今日のものとは大きく異なっておりました。上端が角ばってて背は今よりも低い。矩形板2枚もしくは3枚だったでしょうか、それを上下に板間の空隙が目立たないようフレーム枠にはめ込み、てっぺんは何のサイン・マークもなくいきなり停留所名の「愛 宕 駅」と大きい黒文字が書いてあって、すぐ下に北越谷駅やらなんやら行先が黒文字で横書きで列挙されていました。
その下に別板がはめ込まれ上端横一線に東武バスのイメージカラーの青色の太いラインが引かれラインの中には社名がありましたがバスも鉄道もつかずただ「東 武」とだけ書いた白抜き文字がありました。ラインの下に板続きで時刻表欄が設けられ、白く塗装した板に直接、耐候インクらしきもので黒く罫線が引かれ時刻が書かれていました。その時刻表のうち「行先 北越谷駅」の部分はバス停マニアからするとなかなかに興味深い構成をなしておりましたが、今それを語ろうとすると大変なボリュームになるのでまた別回に改めてお話ししたいと思います。当時の野田・柏間の系統は「柏03」のただ一つしかありませんから柏駅西口行きの時刻表自体は早朝の一本に「北柏駅入口止まり」があった程度で大変見やすいシンプルなものでした。ここが最初の運賃区界停留所で整理券が初めて発行されます。休日ならばヨーカドーで買い物してきたおばあちゃんとか子供連れの母子、平日夕方ならば勤め帰りの女の人らが乗って来ました。

 

 

 


愛宕神社前は当時バス停には「前」が書かれていませんでした。音声テープも
路線図も「愛宕神社」とされていました。例外は境営業所の路線で音声テープも野田よりうんと字体の小さかった路線図においても「愛宕神社前」となっていました。ヨーカドーの買い物客にはここから乗ってくる人もいました。わたくしの幼い記憶に胸に弟を抱いた母に手をひかれてここから東武だったか京成だったか松戸駅行きのバスに乗ったおぼろげなものがあります。東武野田線の前々身北総鉄道が野田町~柏間しかなく愛宕駅が未だこの世になかった古い時代すでに「アタゴヤマ」という名で存在していた野田市最古級のバス停留所です。
以前お話ししたように自分の映画の小道具にキノエネ醤油の醤油差しを出したことがある小津安二郎監督が野田松戸間のバスに乗るときに利用したのもこのバス停なのです。

 

 

 

 


小学校前はなぜか小学校の前ではなく郵便局の前にあります。正しくはバス停が先に出来、ずーっと後年にこの先の道路反対側から郵便局が移ってきたのです。ここから先のバス停はみんなひょろっとしたダルマ型のオレンジ色した一本柱のものばかりになっていました。
その小学校は先述の野田市立中央小学校のことで学校の入口はバス停から100メートルかそこら南にずれたところにあります。
上町というまめバスのバス停がありますが、東武時代は野田~境・関宿・東宝珠花線の「上町」というバス停がここではなく愛宕神社の反対側のヨーカドーのそのまた向こうにありました。イトーヨーカドー野田店は野田醤油創業家茂木家の分家、安楽家に土地と建物を借り受けて営業していて、後年ヨーカドーが閉店なったとき「安楽さんがヨーカドーと喧嘩したらしい」との風聞を耳にしたことがあります。路線バスが出来る以前にあった野田人車鉄道には「終点上町」という停車場があったそうですがその位置はここではなく先の愛宕神社バス停の所だったそうです。
以前当ブログで小6のときズル早退して野田~岩井間のバスを往復したことがある、と申しました。そのとき小山経由岩井車庫行のバスに乗ったのがこのバス停ただし道の反対側にある方からでした。全然違う学校の子がなぜここから乗ったかというと小学生なので当然ランドセル持ったまま来てます。なので学校登校日の真っ昼間にランドセル姿で路線バスに乗ってくるとは実に怪しい小学生だぞ、などと運転士に訝しげに見られ、さらには親に通報され悪行非業の全てが白日の下に晒されるのではないか?などとひどく心配し、「小学校」と名の付くバス停から乗れば怪しまれずに自然な了解を得られるであろう、と子供ならではの浅知恵を働かせた結果です。ただランドセルは背負うと目立つのでなるべく「普通のカバンですよ」という態で片手でぶら下げて、行き交う大人を見ては「こっちを見るなよ、話しかけてくるなよ」と祈りながらバスが来るのを待っていたのを覚えています。あの頃の大人たちには知らない子供が一人でいると「どこ行くの?」とか「お母さんは?」とか話しかけてくる人が結構いたんです。しかしわたくしは今改めて思う、そのような大人たちがいなくなったので哀れ野田市の小学四年生の女の子は天に召されたのだと。

 

 

 

中央小学校もまた野田市最古の学校で先の愛宕神社にあった寺子屋に野田醤油筆頭の茂木家が私財を寄付して「茂木学校」と変名しここに移ってきたのがそもそもの始まりだそうで、夜に撮ってブレブレですがこの左右一対の石造りの校門柱も野田醤油創業一族の高梨家の寄贈だというからもうキッコーマンの私学校みたいなもんですな。

 

 

大昔この校門前を走っていた野田人車鉄道は、町内で作った醤油を江戸川岸へ運ぶために茂木とか高梨とかキノエネ醤油の山下さんとか醤油醸造家が資本を出し合って明治時代に出来たもので純然たる全くの貨物専用線であって人を運びません。やがて時はすすみ水運から陸運へと潮目の変わった明治末頃に野田醤油は経営から手を引き、水運の元締めをしていた桝田家が肩代わりしてなお人車鉄道は存続していましたが大正時代に関東大震災で鉄路が断裂してしまい営業できなくなりました。水運から転じて野田醤油社製品の独占自動車輸送請負となっていた桝田貞吉氏の自動車会社「丸三運送」は人車鉄道の承継法人でもありましたが事ここに至り人車鉄道を放棄、醤油ではなく人を運ぶ乗合自動車業に進出し、斯くして野田町駅前と「アタゴヤマ」、「ノウガツカウマへ」等を経て関宿町の「宝珠花渡船場」を結ぶ我が郷土初の路線バスが産声を上げたのです。(『野田郷土史』佐藤真、『東葛飾郡野田町勢』野田町 )

 

 

 

 

次の仲町は母と一緒でなければバスに乗れない程幼かった頃も小学生時代も高校生になってからも降りたことがあるバス停です。あの頃はまだダルマのひまわり型で頭の円板には「東武バス」としか書いてありませんでしたが胴体の錆びついた橙色の単管パイプには沢山の時刻表鉄板が留められており、野12以外の野田出張所管内の幅広の時刻表、野12野田市駅ゆきだけのもの、境営業所のものがあって最下部に細い短冊型で「茨急バス」の北越谷駅行きのものがありました。

 

 


ところでなぜ乗降したことがあるのかというと、このバス停には市内唯一の図書館「興風図書館」があったからです。これまたやっぱりキッコーマンが作った図書館でずっと後まで市民に開放された私企業直営の図書館としてありました。
何年か前、どこかで図書館運営を某私企業TSUTAYAに委託したところ郷土資料がなくなるわ旧約聖書が「旅行書」に分類されてるやらしっちゃかめっちゃかになったという騒動がありましたね。それに比して我が野田市の私企業図書館は分類がしっかりしていてまことに信頼のおける図書館でした。強いて難を申せば、子供向けの児童書コーナーがキィキィうるさい木床階段を昇らなければならない2Fにあった。

 


純然たる私設図書館ですから他所のお役所図書館にはない面白いところもあって、入口に六角形の「亀甲萬」の烙印が黒々と押された木の樽が左右にドシンと置いてある、中に入るともちろん一般図書の方が占有面積が大きいが「今月の推薦図書コーナー」というのがありそれなりに入替えてはいたが書棚の中段あたりに一社提供番組「くいしん坊、万才」に当時出演していたオペラ歌手友竹正則さんのモノクロの切り抜き顔に「おいしいデス!」と吹出しを添えたPOPもなぜかあって、その段をよくよく見ると先月先々月と変わらぬ醤油・みりんを使った和食のレシピ本がずらっと並んでいた、とまあTSUTAYAにやらせるよりはよっぽどいい。しかし松岡修造氏はわたくしのブログと同じくらい暑苦しいですな。
野田は鉄道でもバスでも先の小学校でも貨物タンク車でもなんでもぜーんぶキッコーマンが社有物としてこしらえたものばかりなので野田線の前身、総武鉄道だか北総鉄道だかのかなりレアな貸出禁止の鉄道古書もあって中学時代クラスにそれを見るためだけに図書館に通っていた鉄分過剰な奴がおりました。今頃どこでどうしてますやら。

 

 

『野田市の展望』(昭和29年 野田市役所)に載っていた仲町バス停界隈。道路は簡略舗装といってアスファルトを使わない舗装がされています。バス停はこの撮影者のすぐ背後にあり画像にはありません。愛宕方面に行くバス停も同様です。「油は荒木」と謳っている日石スタンドは少なくもずっと後年、東武バス閉所の日まではこの場所に変わらず存在していて、興風図書館はスタンドこちら側すぐ手前の細路地を入っていったところにありました。図書館に親の運転する車で連れてって貰ったときよく給油したスタンドですが、子供嫌いな感じの店員がいて給油中の車と親を置き去りにして「先に行ってるよ」と断ってここから歩いて一人で図書館に行っていました。

 

 

昭和40年頃という仲町バス停。(「野田市報『あの日あの時14』平成7年」)。右のいすゞBAらしき東武バスは「北越谷駅」ゆき。反対側の丸板の見えるのが関宿行き、岩井行き、そして愛宕を経由して野田市駅に帰ってくるバスの停留所。「オオミヤ化粧品」の前にありバス待ちが10人以上いそうです。わたくしの小学生時代も天気の良い土日の真っ昼間ならば平気でこれ位の人数がいたことがざらにあって、夕方の15時か16時頃にあった関宿・東宝珠花行きに乗っているとすぐ後ろに恐らく北越谷から来たのであろう岩井車庫行が追従してきて2台連続の並びとなり、停まって後ろ扉を開けると「チガウ、チガウ」と岩井行きを待っていた子供たちの甲高い声の大合唱が聞こえてきたのが懐かしく思い出されます。

 

 

 

 

バス停はす向かいの晴山堂はあの頃、あらゆる野田の東武バスの車内前方のワンマン表示板の裏に広告を出しており、この独特の書体から「仏壇屋さんかな」と思っていました。晴山堂脇の細路地をすぐ行ったところに「コマ食堂」という、1Fの調理場から2Fの客席へちっこいエレベーターで料理が運ばれてくる面白い食堂が当時ありました。野田市の食堂は亀甲萬印のボトルにキャップの赤い醤油差し・同じく黄色いソース差しが卓上にあるのが普通で、コマ食堂にはさらにキャップの青い酢が入った「酢差し」があったのを覚えています。赤青黄の3色のボトルの揃ったありさまは到底他の土地では見ることができないものでしょう。

 

 

 


さっきからずっとキッコーマンとばかり言っててゲシュタルト崩壊寸前の状態ですが次のバス停がこれまた困ったことに「キッコーマン前」という。
小学5,6年頃の記憶ではここで乗り降りする人はいなかったように思いますが平日ならば通勤で乗降客がいたかも知れません。商店街にはアーケードがありましたがここだけは背後に商店がありませんからアーケードが掛かっておらずバス停は木造の小屋付きになっていました。小屋の中には当時キッコーマンのイチオシだったデリシャスソースの宣伝などは一枚も見られず「ホステス募集 新人歓迎」とか「悔い改めよ」という聖書のホーロー看板とかそんなものばかりでした。

 

 

 

 

さて、その頃の肝心のキッコーマン本社は今のようにバス停背後ではなく道挟んだ奥まったところに重厚なたたずまいで建っておりました。現本社屋のところは当時なんらかの駐車場であって、土日だとそれほどの台数が停められておらずたいそう広々して見えました。野田七夕まつりのときにはイベント会場として市民に開放されて金魚すくいとか焼きそば売りなどの露店が並び、聞いたことのない名のバンド演奏なんかもありました。あるときウルトラQの「カネゴン」のソフビ人形を掲げて「金がない金がないと言ってるみなさん、カネゴン買うとお金が貯まりますよー」という口上で人形売りしていた人がいて周囲の大人たちが大爆笑していたのを覚えています。

 

 

 


これを過ぎると「興風会館」という庶民相手の商店街の中で当時から異様なオーラを放っていた謎の建物が出てきます。建物眼前にある電線やら通信線やらなんやらおびただしい架空線で視界が遮られているのもまた不気味です。先の興風図書館はもともとこの建物に内包されていたのだそうです。
わたくしは生まれてこのかた人が出入りしているところを一度も見たことがないこの珍妙な構築物を、乗ってるバスから上から下へ舐めるように眺めながら「カリオストロの城の伯爵のような、金持ちだけれども性格の悪い大人が召使いと一緒に住んでるお屋敷であろう、侵入すると床が開いて地下水路に落ちるのだ」などと邪推を逞しくしておりました。

 

 

 

実態はかの野田醤油労働争議の大騒動のときキッコーマン(野田醤油)が労働者のために建てた一大娯楽場であって今では国の文化財になってるのだそうです。しかも設計者はわたくしや可愛い後輩の羽田圭介君も出た某大学校舎を手掛けた高名な建築家だという。そう言われると子供の頃覚えた異様さは醤油に入れたワサビのようにみるみるうちに溶解し、なんたる威容の建物であるかと思わず手のひらを返してしまいます。

 

 

 


柏03はこの下町の交差点を左折しました。運賃表示の透光フィルムがジジジと音をたて「② 下  町」から「③ 野田車庫」へとスライドします。文字数が増えたので野田車庫は下町よりもフォントが小さくなります。無券の欄の運賃は80円から90円になります。交差点にはすでに信号機があって、目の前の赤白の電電公社の電波塔は小学生のあの頃にもありました。越谷方面は右折し、流山方面は直進でした。従前お話ししたように右側には「マスダヤ」という食品スーパーがあって結構繁盛しておりましたが商店会のアーケードはここまで及んでおらず悪天候の日には傘を差した人でいっぱいでした。
信号機の向こうに「関宿屋」という小料理屋か何か小さな白っぽい店屋が当時ありましたが関宿から野田市駅に来るバスも直進せず左折していました。

 

 

 

昭和43年の下町交差点。南方から愛宕方面を見ている(『市報のだ』あの日あの時33)。
左側の建物が当時の野田警察署で、移転して空いた所へ先の「マスダヤ」が入って来たのです。
流山駅のそばでお年寄りに話を聞いたことがありますが、かつて松戸駅から愛宕神社まで走っていた松戸の京成バスはここを「野田下町」と呼んでおり、今日のキッコーマン病院の前身野田病院などの最寄りのバス停であったので流山から乗って来た人はみんなここで降りてしまうのだそうです。警察署の先にすでにアーケードが見えます。野田病院は先述の晴山堂の脇道、コマ食堂のほんの先のところにありました。
また、わたくしの母は高校生のとき下校途中に「吉田歯科」というやはりこの交差点近くにあった歯医者へ通ったことがあり、川間の自宅への帰宅には下町から関宿行きの東武バスに乗っていました。わたくしの記憶に残っている最後のツーマンバスは野田市駅~日枝神社線ですがそれもここから乗りました。
小5のとき家庭科の授業中に担任教諭が「幼少のころ『警察署があったところまで』バスで行って中野台の野田生協で親と一緒にカリフラワーを買ったことがある、それがカリフラワーを見た生涯初めてのことであった」などと懐かしそうに語っていました。野田生協は正式には「野田醤油」生活協同組合といって、早い話がまたしてもキッコーマンの人々を組合員として出来たものです。

 

 

 


柏03に乗るとキッコーマンの呪縛はまだまだ続く。どうしてかというとバスに乗って下町を左折すればこれは嫌でも前方のキッコーマンのマークが目に入ってくるからです。このドデカいタンク群は中に醤油がたっぷり詰まっているものと幼い頃から思っていましたが実際は醤油の原料の大豆から余分な油を抜くための「脱脂サイロ」なのだそうです。
醤油工場はいよいよもって我が眼前に迫り、夏ならば窓全開のバスには醤油の匂いが強烈に吹き込んであたかもこの身がマグロの漬けにされたような気持ちになります。関宿町出身のマグロ大王こと、すしざんまい木村社長もこの臭気を浴びたかも知れません。今年も初セリおめでとうございました。


あの頃バスから道路左側に目をやれば総武通運の建屋の隙間から醤油輸送の貨物列車が見えて心躍ったものですが今となっては夢のまた夢。

 

 


旧貨物線線路終端付近に留置されている荷台ボディー。線路はボディーよりもっと道路際まで伸びており車止め標識が建っていました。

 

 

 

キッコーマン第七工場の高い壁も昔のまま。壁が終えたところには貨物線が走っておりチンドン屋さんの叩く鐘のような音色のする電鈴式踏切が立っておりました。

 

 

 


そしてバスは野田車庫へ。
なぜ野田車庫で降りたのかはわかりません。宿題があったのを思い出したのか、気が変わって違う路線に乗りたくなったのか、腹が減ったのかトイレへ行きたくなったのか。しかし運転士のおじさんが大変驚いて「ちょっとボク! まだ駅(野田市駅)だよ、降りていいのっ!?」と、ハトが豆鉄砲喰らったような顔でわたくしを見たのと、降りると冒頭のあばれはっちゃくみたいな顔した男の子が「父ちゃん情けなくて涙が出てくるぁー」と叫んでる東野英心のように口を開いてこの世の終わりを見たように目を開きこちらを見ていたのを昨日のことのように覚えています。さっきまでバスのりばで鉢合わせした人間がバスに乗らずに降りてきたのだからまあ驚きますわな。

 

 

 

昭和31年、愛宕駅前にあった看板の群れ(『野田人物語 宮本常一②』平成16年「市報のだ」)。トップにキノエネ醤油と野田醤油、下部中央にイラストの描かれた東武バスの大きな看板があります。柏03と言いながら柏が全く出てきてませんが、野田という土地の企業城下町としての特殊性を少しはご理解いただけたものと思います。企業城下町と称する都市は全国あまたありますが、創業からずっと企業の本社が根を下ろしている土地というのは豊田市とか銚子市とか日立市とか非常に少ないと思います。いかなる土地へ行っても醤油瓶を見れば千葉県野田市野田という懐かしい土地の名を見て二度と戻ってはこない郷土の路線バスや醤油専用タンク車に思いをはせることができるのも故郷が企業城下町であったからに他なりません。これはうっかり柏や松戸で生まれてしまった人々には到底得られないであろう貴重な財産のようにわたくしには思われるのです。経済が今よりもずっとヒートアップしていた昭和時代の企業城下町の面影をバス路線を通して感じていただければわたくしのブログの目的はほぼ達成されたに等しいものとなりましょう。

 

 

 

故郷からバスが消え去るなど想像することすらできなかった遠い遠い日の思い出。
では、皆さま本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。