特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

関宿台町と境町

2018年09月24日 20時42分28秒 | 旅行


かの大ヒット曲『潮来笠』で流れ者の潮来の伊太郎が故郷の恋人を偲んで利根川へそっと花を流した関宿町。
平成15年市町村合併により関宿のセ太郎ではなく野田市関宿へとその名を変え、関宿町の名は花と一緒に川の流れに消えんとしています。

ここのところ関宿町シリーズと称して関宿のバスをいろいろ思い出しているところですが皆さまいかがお過ごしでしょうか。
本日は関宿のお隣春日部市でバスのイベントがあって子供たちに人気だったようですが結構なことです。
大人たちに人気じゃダメなんです。
鉄は熱いうちに打てというように子供こそ最大の調教対象にしなければならないのです!

というわけで今回も今から何十年も昔、子供が一人で関宿へバスに乗っていったときのお話をしたいと思います。


関宿町をさらに戦前の旧町村レベルまで分解すると関宿町(旧)・二川村・木間ヶ瀬村に3分できます。
このうち最も野田市に近い木間ヶ瀬は「天領」といって関宿城の殿様の支配をうけないエリアでした。
二川以北が正真正銘まごうかたなき関宿藩です。
なのでバスに乗っていて木間ヶ瀬から二川地区に北上するとそれまでとは趣の異なる眺めが車窓に飛び込んできたものです。
それらは青い東武バスが紅の朝日バスへと変わり元号までもが平成から変わらんとする現在では見ることが叶いませんので、
今回はその思い出をお話ししたいと思います。
余談ながら関東鉄道バスの饅頭広告で知られる常州江戸崎もまた関宿藩です。



前回お話ししたバス停宝珠花橋の一つ手前のバス停は今もある「宝珠花上町」です。但し当時は東武のオレンジ色をしてました。
宝珠花橋など存在しない遠いいにしえの時代、二川村役場~杉戸駅という古路線があり、宝珠花の北方の村役場から来たバスは
このバス停を過ぎると目の前の江戸川土手を野田方面に斜めに登り上端に達するとまた関宿方面に斜めに下って川ギリギリまで行き、
小舟の上に板を渡しただけの増水時には簡単に川に流されてしまうというなんとも頼りない舟橋、宝珠花の「宝」の字をとって「寶橋」と呼んだそうですが、
その橋のたもとで乗客を降ろし対岸埼玉・西宝珠花にいる杉戸駅行きのバスに連絡していたということです。
わたくしがバスに乗っていた昭和の御世、このバス停の真ん前、「辞表を書いてからやれ」でお馴染みの斎藤農水相の後ろのキュービクルが立っている建物、
ここに「庄内家」という木造瓦屋根の旅館があって、まるで東映太秦撮影所のセットのようで旅館よりも「旅籠屋」と言ったほうがより正確かもしれない、
そんな大変古めかしい佇まいの大きな旅館がありました。
暗い色をした板壁でネオン看板も暖簾もない、ただ墨のような黒文字で「庄内家」と書かれた横長の木の板が入口扉上に架かっている、そういう建物でした。
そも関宿という地名は「関所」と「宿」の合成語であることは子供にも一目瞭然でしたが、その「宿」に相当するのがこの老舗旅館ではなかろうか、と思いました。
現在はなんらかの会社の事業所に変わっていますが、WEBサイトが残っています。



関宿幼稚園前に立つ松。(『関宿 79』関宿町商工会)
松並木というと以前岩井市の辺田並木について2,3思い出を語ったところですが、この旧二川(フタカワ)村の辺り、
バス停で言いますと二川小前~関宿幼稚園前間にあった松並木は本数はそれほどでもありませんでしたが、
岩井の並木よりも遥かに幹の高さがあってよく記憶に残る光景でした。

道を暗くするほどではありませんが、大人が見ても枝葉が高々としているほどですから子供だったわたくしの度肝を抜くものでした。
中戸のバス停の奥には当時も「東葛飾病院」があって、バスから見てるとこの病院が城の二の丸三の丸のように見えました。
この並木は関宿城主の参勤交代に備えて植えられた威厳あるものだったそうです。
関宿町中戸は流山電鉄が昭和時代に路線延伸を目論んだ時、終点とされた所でもあります。


現在では松はすっかり消失しています。
わたくしがバスで来た頃は信号機などありませんでした。
ところで小学校すぐそばに農協がありますが、それこそが先述の路線の終点だった二川村役場の跡です。
旧村の役場が農協に変じているのは木間ヶ瀬村と同じです。
昭和30年新生関宿町が発足したとき町役場が置かれた所でもありますが、木間ヶ瀬村から余りにも離れているので
木間ヶ瀬分村運動という大騒擾を招来し、木間ヶ瀬に近い東宝珠花へ移転しました。
野田を発して木間ヶ瀬と東宝珠花を結んでいたバス路線のわたくしの記憶は昨年ご紹介済みかと存じます。


バスはますます北上し、森と田畑と利根川&江戸川の堤防しか見えなかった車窓の眺めに
関宿城の城下町「台町」の家並みが飛び込んでくるのはこの辺りからでした。
関宿中学校入口バス停付近の「寿司常」という寿司屋さんは当時もあって看板も全く同じこの赤赤としたものでした。
寿司屋のすぐ手前にはなんとか自動車板金という整備屋さんがあって「ブリジストン」の看板を出していましたがそれが寿司屋と同じ赤地に黒文字という同じスタイルで、
看板直下に境車庫行のオレンジ色したバス停が立っていたのを覚えています。



台町の交差点が出てきました。信号機は昭和56年初めてきたときすでにありました。
この交差点の先は道が細く大型車は到底直進できませんが、その道こそが関宿藩侍屋敷がズラズラ並んでいた所なのです。
なお今行っても、関宿藩は戊辰戦争のゴタゴタで藩士が四散してしまったので屋敷らしきものは全く残っていません。
「照明と電気工事」といううっすら文字の残る看板があります。かつてバスで通りがかった頃はクロセ電気という電気屋さんがありましたが、
現在は農協経営の葬儀場になり看板だけが残っているようです。
その向かい、写し方が悪くて見えずらいのですが床屋の赤青白の回転灯が見えますでしょうか。
この床屋は私の小学生当時にもあり、床屋のすぐ隣に駐在所がありましたが、駐在さんは現在農協のある側に移転しています。
外務大臣吉田茂が枢密院議長就任の要請をすべく朝の8時に鈴木貫太郎邸を訪ねたとき通ったのもこの交差点です。



海軍大佐時代の鈴木貫太郎。写真折れ線の右側、右胸にモール章を付けている人物。
明治39年4月、野田町の清水公園で開催された「日露戦役凱旋式」に招かれたときのもの。(『市報のだ』)
関宿藩士の家に生まれ、長じて海軍に入り遂には連合艦隊司令長官にまで上り詰めた鈴木大佐は
すでに日清戦争後から野田関宿じゅうに名声が広がっていて、
わたくしが幼時からこれまで聞きかじった野田の古老たちの話すところによれば、
元来前年に行う予定であったところ、賓客の目を喜ばすべく清水公園の桜が満開になる翌年4月まで開催を遅らせ、
江戸川の汽船寄航場から野田町役場まで人力車の両輪を木製から当時大変高価だったゴムタイヤに換装して送迎したそうです。




昭和55年頃の関宿台町交差点。(『わたしたちの関宿町』 関宿町教育委員会)
これは交差点の関宿から野田方面を望んだものですが、「コスゲパン」の店はパン屋ではなく確か文房具屋だったと思います。
というのは関宿小学校(現在は移転)が台町交差点の角地にあったからです。



現在の同地。文具屋さん無くなりましたね。



同じ方向を見ている戦後数年後の関宿台町交差点。(『広報せきやど』 関宿町役場総務課)
余計な車がないので広く見えます。
画像に出ていませんが交差点角地にあった関宿小学校は戦前の関宿町役場があった所で、町役場あるところにバス路線ありということが多いですから、
野田との間を結んだ野田初のバス路線もここで手を挙げている人を乗せたりしていたのであろうかと思うと胸が熱くなってまいります。



野田町桝田貞吉氏が設立した野田初の乗合自動車、東寶自動車の広告。(『北総鉄道沿線案内』 昭和2年頃)
東寶自動車は昭和6年法改正により乗合バス事業がトラック輸送業ともども届出制から免許制に移行しようとする時期には
合同会社丸三運送野田乗合自動車となっており、遅くとも昭和10年まではその商号をもって野田町駅前で営業しています。
後に総武鉄道が野田乗合を含め沿線の乗合バス業者をしらみつぶしに吸収したことと乗合バス業の大臣免許制への移行は無関係とは思われません。



野田町駅前の関宿ゆき野田乗合自動車(『写真が語る野田の歴史と文化』)。
改造T型フォードとシボレーか。フロント両サイドのスペアタイヤが実にきまっています。
桝田氏は野田東京間の醤油輸送で頭角を現した人物で、関東大震災直後の東京で円太郎バスを実際に見ています。
手前の車両は「野田町内」ですが、奥の車両はフロント上部に「関宿・・」と書いてあります。
文字は漢字四つであることがわかりますが、当時の行先表示部は後方が透けて見えるものだったようで
背後の車両躯体が文字を隠すように透けすぎて関宿だけしかわたくしには見えません。




昭和36年、七夕飾りが翻る野田本町通り、中央小学校~愛宕神社間を往く野田発関宿ゆきのバス。(『野田市制40周年記念記録写真集』)
エンブレムを凝視するとふそう製ではなさそうですが日野BHかはたまたいすゞBXかさてどちらでしょうか。
戦後なので総武鉄道ではなく、縞模様の東武鉄道のボンネットバスです。
平成の中頃まで商店街にあった手芸用品店「清水屋」のいかにも手芸屋らしい手作りの城郭を模した凝った飾りが
ただでさえ小さい方向幕の邪魔をして「行」しか見えませんが
すぐ前を行く普通車の屋根に映る反射影に「宿」という文字が認められます。
右後方アーケード下には落語家・鈴々舎馬風師匠の実家の床屋があります。







平成3年頃の台町交差点西側。(『わたしたちの関宿町』 関宿町教育委員会)
わたくしの小学生時分はこの信号機にゼブラが付いていました。
広域避難場所であることをしめす緑十字の看板が出ているのが関宿小学校の校門です。
東武動物公園駅へのバスが通る道です。


現在の同地。移転により校舎が無く校門だけが残っています。



昭和58年頃の台町交差点東側。(『わたしたちの関宿町』 関宿町教育委員会)

台町交差点には歩道橋があるのでこのカメラマンは歩道橋から撮影したようです。
鈴木貫太郎記念館の看板越えて壁柱の先、ダンプのすぐ左側に東武バスのオレンジ色のバス停柱がチラと映っています。
年代的にこの画像はわたくしが乗りバスにかまけてた小学6年生当時と同時代のものです。


町田商店の位置は関宿城博物館で見た古地図によれば元は関宿藩武家屋敷、鈴木貫太郎記念館の場所は足軽長屋があった所になります。
「清酒 奥の松」だった町田商店の掛け看板がご存知「天下の美酒 徳正宗」に変わっています。


さて、このバス停は野田市関宿台町という住所地にあります。
それがどうした、とつっこむ前に、
では野田市になる前、関宿町だったときはここは何という町名であったか?それは関宿が付かないただの「台町」です。
千葉県東葛飾郡関宿町台町。これが元来の名です。
歩道橋にも当時は「関宿町 台町」と書いてありました。
すると東武バスは野田市になる以前はこのバス停を「台町」と言っていたか?
いえ当時でも「セキヤド ダイマチ」と8トラックテープのおばさんは読んでいました。
この事実から東武バス境営業所の路線には他にも「台町」と名の付く停留所があったことが予測されるわけです。
他の台町と識別できるように「関宿」を付けているんだな、と子供ながらに解釈したものです。



鈴木翁が酪農勧業に精力的であったことは従前述べましたが、
このバス停は農協の関宿牛乳集荷所という施設の真ん前にあります。
昭和の昔もこのようにタンクローリーが停まっているのを何度も見かけました。
当時野田から来た体の小さい一小学生は「ガソリンスタンドかな」と思って見ていましたが、牛乳のおかげで一人前の身長を得ることができました。



バス停すぐ裏には、たか夫人の集乳所碑があります。



二・二六事件で夫を暴戻から救った夫人は耕地減少で苦しむ関宿の農業をも酪農興進で救い励まし、名誉町民に叙されました。


関宿を後にして境町へ行きたいと思いますが、
境大橋のたもとにはとある脇道があります。
この道は境大橋が出来るまであった舟橋「境橋」に通じていた道路です。


昭和20年代後半から30年代前半の境橋。(『市報のだ』)
境橋は宝珠花の舟橋とは異なる点があって、境と往来するバスは当時対岸のバスと連絡することなくそのまま巨体を揺らして橋を渡り境河岸にあった境車庫まで行っていたのです。
車も渡れる舟橋なのでこの道は当時よく渋滞していた、と路上に猫車を置いて畑で農作業していた方が教えてくれました。ありがとうございました。
車が通るたびに舟上の板がゴトゴトと音を立てその音はお城の反対側にある関宿江戸町にまで轟き雷に非常に似ていたので「雷様(ライサマ)」と言われていたそうです。



関宿城本丸跡の関宿城址の碑と現在の関宿城。
現在の関宿城は茨城県の対岸にありますが本当の関宿城は埼玉県の対岸にあったのですね。


 
関宿は千葉県の末端、チーバくんの黒い鼻のそのまた鼻の穴ほどのところにありますから見かける広告看板の類には千葉県のものは少なく埼玉県や茨城県のものの方が多く見られます。
このありさまも昔と変わりません。
関宿の人々は同じ千葉県の野田市よりも埼玉県の杉戸(東武動物公園)か春日部の駅を利用する人が多いように見えるのもわたくしの小学生時分から変わらないことです。
わたくしは当時一回だけ境町から東武動物公園駅行きの東武バスに乗ったことがありますが、
野田市駅へ行くあるいは同路線中で鉄道最寄の清水公園入口まで行くよりは遥かに早い安いの二拍子だったのを覚えています。「旨い」を入れて三拍子にはなりません。
バス路線については野田に行くものは確かに野田資本の路線でしたが埼玉へ行くものは総武鉄道ではなく野田とは無関係な旧茨城急行により始められたものです。
斯様な人々からすれば生活の主体性を奪う野田市との合併が必ずしも歓迎すべきことではなかったことが容易に想像されます。

合併年発行の『広報せきやど』は検索すれば今でもネットで閲覧することができます。
その年の2月号には「7人の新成人、町長と語り合う」なる記事があり「関宿町が将来どうなれば良いか?」という尋ねに対して二十歳の関宿町民がこのように答えています。
「野田市と合併ということで、予算を使うのにも税収などを考えたら格差が生じで来ると思いますが、平等というのは町に対しての平等か人に対しての平等なのか。
また、野田市と合併しても関宿らしさを残してほしいと思います。そして、関宿の地名がなくならないようにしていただきたいと思います」。
合併から10年の歳月を経てなお関宿町は永遠でありこれからも永遠でありましょう。

  
雄大な大利根川を渡り対岸茨城県の境町につきました。
境町もまた関宿城の城下町の一部だったところで関宿5万石の領地の一つです。
ここは先の旧茨城急行由来の歴史あるバスターミナルです。
と豪語したところでタクシーしかいないこんなスカスカした現況では説得力がないことはわたくしにも分かります。




昭和25年の境町。(『古河岩井水海道の100年』郷土出版社)
これが凄い。
境大橋開通後ほどなく2キロ以上北にある同町長井戸に「境長井戸車庫」が新設されるまで茨城県屈指の有力バスターミナルとして輝き続けた真の境車庫の姿です。
看板に「東武鉄(道?)株式会社自動車局境営業所 乗合 観光バス ハイヤー」とあります。
ボンネットバスにはもう木炭ガスの装置が付いていません。
結城・下妻方面へ出ていく1台がいますが、逆方向の関宿に行くバスはこちらに向かって出てきて利根川土手をやはり斜めに登ってそして下って境橋をゴロンゴロン渡って行ったのです。
わたくしの母は何の用事か知りませんが境大橋完成直後の昭和40年頃に川間からバスに乗ってここに来たことがあり
「トイレを借りたら小便器があったので男女共用であることが分かったが男性はトイレではなく土手で済ませていたようだ」とのことです。


昭和25年ほどではありませんが、わたくしの小学生時分の境町でもバスが10分に1台くらいの頻度で見れました。
なお「境長井戸車庫」はすでに現名の「境車庫」に改まっていました。
かつて東武バスが舟橋に向かって駆け上っていた脇の利根川土手には非常に幅が狭く手すりめいたものもなく、
よくよく見ないとあることすらわからないほどのささやかな石段があり、関宿の牛乳の作用が発現する成長期前の体の小さいわたくしは
えっちらおっちら石段の中段まで登ると座りの良い草むらのうえに腰を落とし、ときおり持参のゲームウォッチで「ドンキーコング」をプレイしつつ
出入りする東武バスを眺めながら野田行きのバスを待ったものです。







その頃の眺めを思い出してさっきの画像に書き加えるとこんな感じです。
どうでしょうちょっと賑やかになったでしょうか。
乗り場と降車場が分かたれていて、降車するときは朝日タクシーの前付近に降車専用オレンジポールが立ってました。
奥の暗い整備場にはいつ訪れても朝日自動車の観光バスが東武のそれとはやや本数と太さの違うブルーラインのお尻を向けて止められていて
そのお尻を見ながら降りたものです。
行先は結城・下妻、岩井、古河、野田、東武動物公園、そして境車庫行きに分かたれ、最も土手側にある乗り場は古河行きの乗り場でした。
と言ってもそれはバス停にそう書いてあっただけですでに廃止済みのものもありました。
このうち下妻駅行きは境車庫ではなく当地境町を起点にしており、
長井戸車庫からすでに回送から「下 妻 駅」に方向幕を変えてきた東武バスは境町のバス乗り場の島をグルーンと一周すると
今来たばかりの長井戸への道を逆戻りして行きました。
そこそこ乗っていく人がいたように覚えてますが、比較的早い時期に廃止されたようで残念です。
結城行きはバス停そのものには青色のペンキで行先表示が書いてありましたがすでに廃止されていました。


境営業所の路線図は上方に国鉄線を表す線路記号が横一線に引かれていて下館とか小山とか駅を示す矩形も書いてあり
わが野田市駅は左下端中央辺りにあったのは覚えております。
茨急の手書き路線図よりははるかに理解しやすいものでしたが、
地元の野田営業所の路線に比べればやはり乗車回数は少なく、かつ路線図のカバーエリアが野田よりもはるかに広範囲、
さらに言えば野田営業所の路線図と決定的な違いとして、描かれている停留所名を見ても土地勘が全く沸いてこない、ということがあります。
結局覚えられないまま大人になってしまいました。
下妻と下館、大人になったいまでもどこにあるのか不鮮明ですね。
それから、下館は当時東武バスの独自の営業所があったはずですがなぜか下館駅も境の路線図に載っていました。
他に後代に伝えるべき確かな記憶としては、まだ「杉戸駅」という表記が残っていた、関宿橋西詰のすぐ隣に「西関宿」とあって「は?誤植かな?」と思ったことがあった、
その西関宿から伸びてる線が「船渡橋」で杉戸行きと春日部行きに分かれていたが漢字が総画数の少ない「船戸橋」ではなかった、今思い出せるのはこんなとこでしょうか。
野田市駅とか下妻駅とか私鉄線には線路記号が付いていたようななかったような。
岩井車庫線の途中停留所に「莚打」という漢字があって「どう読むんだこれは?」と思案にくれましたが実際当該路線に乗って理解できました。
また境町の古河駅ゆき乗り場の背後に簡略式ながら大人の背丈ほどの大きさの薄鋼板に描かれた境営業所管内路線図がありましたが土手に登ると
なんにも書かれていない裏面しか見えないので記憶に残っていない次第ですが、とっくのとうに廃止されたはずの「境町~岩井車庫線」が描画されていて、
途中停留所として若林・鵠戸他が書いてあったのが鮮やかに記憶に残っています。
大事なことなのでもう一度言いますが書いてあったのは境車庫~ではなく「境町~」です。


天気が悪いときなどはいちいち土手に昇らず場内のベンチで休みました。
下手くそに書き込んだなかに朝日自動車のガレージの右に赤っぽい屋根の謎の建屋がありますが、
そこには自販機とベンチを書きました。
自販機でファンタオレンジ買ってくれたり、やにわに東武動物公園の入場券差しだしてきた朝日タクシーのヤニくさいおじさんがいたのを忘れることができません。
また境大橋辺りから車内で運転士と二人きりでお喋りしていたら操作間違えて運賃表示器が野田の下町まで行っちゃってタダで境町で降ろしてくれたこと、
帰りのバスも同じ人なのが行路表からわかっていたので気まずいから東武動物公園駅行きに乗って帰ったこと、
逆に半額にする暗算間違えて過少払いして「あと10円だっぺな、まったく」と怒られたこととか境町にまつわる個人的思い出がいろいろ浮かんでまいります。
野田市駅から乗ってくると子供で200円台後半だったので大人だと500円以上ですね。当時では結構いいお値段です。

なおずっと後年、平成元年頃にひまつぶしに大人運賃で乗り通したことがありましたが
終点境車庫まで1050円もして「路線バスに札を使うような時代になったか」と唖然呆然としたことがあります。

今回も駄文長文となりました。ここまでお読みくださりありがとうございました。



2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
初めまして (イスマ)
2019-01-23 01:23:24
初めまして、境町と関宿を検索していたら貴方のブログにたどり着きました。
私自身境町出身で土手の境車庫のすぐわきに住んでいました。ですのでブログでのお話で子供の頃を思い出し、懐かしんでおります。境町から東京に出るときは東武バスで杉戸まで行くか、もしくは反対方向の国鉄古河駅まで行くしかなかったので、バスにはよく乗りました。最近太平洋戦争終戦までの過程をいろいろ呼んでいまして、今度帰省したら鈴木貫太郎記念館にも行ってみようと思っています。
また他の投稿も読ませて頂きますね.
では失礼します。
Unknown (surrender90)
2019-01-24 23:41:05
イスマ様。コメントをいただきありがとうございます。
境町も道の駅とかいろいろハコモノができてなかなか幼時を思い出すのが難しいほどに変貌されました。
バスから降りて境の土手のてっぺんに登りぐるっと回りを見渡したときの光景が思い出されます。
土手の上の道は現在と違い交通量が少なく、対岸の関宿にはまだお城がないので富士山や日光の山々が白く輝いて見えました。
キンカ堂もまだありませんで、車庫から松岡町まで続いている商店街には荷台にトイレットペーパーとか段ボール箱やら購入品を縄やゴムで括り付けて走っている買い物客の自転車の方が沢山おられました。
その中を轟音を上げてこちらに向かってくるバスの姿の凛々しさはわたくしの心に刻まれた原風景の一つになりました。
古河行きも杉戸行きもバス待つ人がよくおられました。母と子の二人連れ三人連れという感じの方が多かったでしょうか。
杉戸行きはすでに東武動物公園駅行きと改まっていて、後ろ扉を開けた東武バスから「お待たせしました、東武動物公園駅ゆきです」という音声が土手っぷちに座っているわたくしの耳まで届きました。
このバスを終点まで乗るとライオンや象が見れるのだ、と面白勝手な想像をめぐらしておったのが昨日のことのようでございます。
自分語りに終始したつまらないブログですがお目にしていただいたこと、誠にありがとうございました。

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。