特別なRB10

昭和の東武バス野田の思い出や東京北東部周辺の乗りバスの記録等。小学生時代に野田市内バス全線走破。東武系・京成系を特に好む

茨城急行 北越ケ谷駅~岩井警察線を追憶した その4 愛宕駅とバス共通カード

2018年08月04日 20時18分03秒 | 旅行

バスは野田橋を越え野田市に入りました。
昔はこんなところに信号機などありませんが、それなりに結構渋滞するポイントでした。

橋渡ってすぐのシュロの木のようなものが生えているところそばには昔野田警察の派出所があり
橋を渡りきる前から赤い行灯が見えたものでしたが、現在はこの隣の隣ぐらいの見えないポジションに移転しています。

せっかく江戸川の川面の上なのに風のない夏の日の昼下がりならば、
冷房のない当時のバスの車内にいる乗客乗員はそれはもう火刑に処せられたジャンヌダルクに与えられたような
苦痛に耐えねばなりません。

ところでジャンヌダルクが命を懸けて救ったフランスが生んだ大数学者フーリエは
健康と思索のためには砂漠のような熱気と乾燥が必要だと
真綿やら包帯やらで体をぐるぐる巻いて夏でも窓を閉め切った部屋で
フーリエ解析という知る人ぞ知る数学の技法を完成させたそうです。
わたくしもさっそく健康と思索のためにエアコンを消して
あの日の野田橋と同じくらい暑い部屋でこのブログを記しております。



この路線には茨城急行は少なくも一日車両2台以上担当車を当てており、ある日東武の野田市駅行きに乗っていて、
さらに4台先くらいに岩井行き茨急もいる状況で野田橋上で北越谷行きの青縞模様の茨急バスとすれ違ったことがあります。



平成13年野田出張所廃止直前に野田市駅から乗ったときのもの。松伏と越谷の境界あたり。
ともかく野田~越谷間は昭和時代から妙にバスの本数が多くて、
このときも軽トラ1台挟んだすぐ先にエローラあたりから来て北越谷駅へ行く方向幕のバスがいます。

つり革につかまっている立客までいるのがわかります。
おかげでわたくしの乗ったバスはガラガラで駅に着きました。
バス共通カードのリーダーが懐かしいです。

わたくしは学生時代は実家を出て違う土地で過ごしておりましたが、
平成3年か4年頃野田へ帰省したとき
母とともに境~野田間を走る境営業所のオレンジ色の東武バスに乗ってヨーカドーに買い物に行ったことがあります。
運賃は母が面倒みることになっていましたが万札しかもっていないことに気づいて母は慌てました。

そこで小学生時代におばあちゃんから聖徳太子の一万円札や五千円札貰ってバスに乗りまくってた経験を活かし
「裏技使うか」と勝ち誇ったように言い放ち万札ひったくって運転士に「回数券ください」と申し出たところ、
「回数券なくなったんだな今。その代わりカードってのがある、ちと待ってろ」
と言われ一番安い3000円のバス共通カードを買ったことがあります。
「へえテレフォンカードみたいなもんか。回数券までもが過去の遺物になったんだ」と感慨深いものがありました。
 カードには東武動物公園のジェットコースターか何か遊具のイラストが描いてあって
「明けても暮れても動物公園推しなのはバスが青かった昔と全然変わってないな」と思いました。

ところでカードは乗るときもカードリーダーに通しておかないと始発からの運賃額がひかれます。
幼い頃の青い東武バスの青い体験を思い返すのに忙しいわたくしは肝心のここを見落としました。

確か整理番号的にあのバスは境車庫ではなく関宿の工業団地入口始発だったかなというのが救いでしたが、
愛宕神社前で降りるときに始発からの大人運賃しかも二人分ゴボッと引かれました。
運転士のおじさんも買った人間の顔覚えてるんだから注意してくれたらいいものを。

一体この話のどこが茨急と絡んでんだ?!、とお怒りになりましょうが
バス共通カードが完全消滅した今ふと平成初期のバスの光景として思い出した次第です。




野田で最初の停留所が昔も今もこの上岸で
なんと20年近く前にここを通らなくなった「岩井車庫」の文字が未だに行先としてうっすら残っています。
さすがに30年近く前に消えた「岩井警察」はどこを見てもありません。




わたくしが物心ついたときにすでにあった黄色い日立チェーンストールの看板の真下にある愛宕駅バス停。
ふじだな電機は昭和56、57年はまだ営業中で掃除機とか電気ストーブが軒先に飾ってある立派な電気屋さんでしたが、
すぐ裏のヨーカドーにも家電売場がありましたから物販で稼ぐのは難しかったかも知れません。




茨急バス。(『いわい』 岩井市教育委員会 平成6年)
茨城急行には北越ヶ谷駅~愛宕駅あるいは岩井警察前~愛宕駅という区間運行があって
そういう方向幕の画像がネット上にゴロゴロ転がってます。


茨急の愛宕駅止まりは実車を終えたらその後折り返すのではなく
当時覗き見た行路表の記憶と実際に愛宕で降りた後の記憶によればそのまんま道をまっすぐ行って岩井へ帰っていってしまってました。
また岩井警察署前→愛宕駅の方は松伏町に今もある茨城急行の車庫へ回送していきました。





(『市報のだ』昭和45年2月号)
愛宕駅踏切を右折して野田市駅方向へ行けるのは運行時間中の路線バスだけですので注意しましょう。
わたくしが生まれる何年も前、否、何十年も前、踏切が第四種踏切という極めてプリミティブな形で
道路は未舗装凸凹道でたまに三輪自動車が通るくらいという太古の昔には
踏切前はロータリーになっていてロータリー中央部は一段高くなっており
そこに路面電車の電停のようにバス停が立っていたそうです。
なので、その時代なら愛宕駅前で折返しをなしていたかも知れません。



以前お話ししたように、茨急の北越ケ谷駅~岩井警察署前線には警察の名がつく停留所が3つあって一つに「越谷警察前」、
今ひとつが終点の「岩井警察署前」、残る3つ目が「警察前」。

ただの警察前ではどこだかさっぱり分かりません。
もしかして畏こき皇居桜田門のことかなと勘違いしそうですが、
桜田門とは月とスッポンの野田警察署の前のことです。







とりあえずナントカという居酒屋と焼肉屋があるところが野田警察署跡です。
現在はここから南にうんと下り、かつて野08紫ゴルフ場線の「畔谷」という停留所があった付近に移転しているので
「野田文化会館入口」なる長い名前に改称されています。


後ろの川間モータースはわたくしの小学生当時も現在地にありました。
岩井行き側のバス停は目の前にキタジマという自転車屋がありましたが現在は無くなっています。

昔のバス停はもちろんオレンジ色のダルマ型のポールでしたが「警察前」としか書いてありません。
バスのテープも越谷とか岩井のそれのように地名を付けることなく「警察前」としか言ってませんでした。
警察の跡地に駐車場付きの酒を出す店が出現するのもこち亀の両さんが
毛嫌いしていた千葉県警ならではです。

両さんというとソースのコロッケが有名ですが、何話か忘れましたがシェフ川〇みたいな近づきがたい感じの西洋料理人が
フランス料理のようなものを作って両さんが味見をする、というような場面があり、
両さんはキッコーマン型の醤油差しを手にして「なんだこれは。日本人にはこれが一番だ」と言いながら醤油をジャブジャブかけて
ナイフもフォークも使わず日本箸で犬食いするので背後で料理人が怒りでワナワナ震えている、というシーンがあって
これは野田の者どもの洋食の食い方とそっくりなので面白く読んだことがあります。




余談がありすぎてまた長くなりました。
自然のコクと香りの本醸造。
野田の醤油をPRしたところで次こそ昭和時代にバスから眺めた終点岩井の商店街の面影をお話ししてシリーズを終えたいと思います。


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