内向型人間が生きづらい理由

ふと、ここ最近の私の生活を振り返ってみると、「もしかしたら充実してるのかもしれない」と思った。

なぜ疑問形なのかといえば、私自身はそのことを全く実感できていないからだ。

ただ、第三者視点で私の生活を客観的に見ると、世間的には充実していると思われそうだ、ということである。

今働いてる職場(アルバイト)では有能な人材扱いを受け、休日は社会人サークルの仲間とイベント行事に出向いている。

文字で表せば、文句のつけようがないリア充生活である。

にも関わらず、私の心は全く満たされていないのだ。

それどころか、逆に心が疲れ切っていると感じる……。

これは一体なぜなのだろうか。

その理由は、私が内向型人間だからである。

内向型人間は、世間で良しとされている生活をしても幸せにはなれないのだ。

今回は、そんな内向型人間の生態を少しでも世間に知ってもらいたく、内向型人間が生きづらい理由を語ることにする。

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内向型人間は疲れやすい

自分が内向型で最も苦労することは、疲れやすいことだ。

疲れやすいというのは、身体的なことだけではなく、心の疲労も含まれる。

わかりやすく言うと、精神エネルギーだ。

内向型人間はこの精神エネルギーの容量が少ないため、活動が極端に制限される。

例えば、私は冒頭で今働いてる職場で有能な扱いを受けていると書いたが、それは極力精神エネルギーの消費量を抑えているからである。

現在、私は平均して週2日のペースでとある工場で働いている。

週2日……恐らく、この数字を聞いて、多くの人は「少ない」と感じるはずだ。

それは至極真っ当な感想で、こんなことを現実で公にすれば、「いい年した大人がそれで働いているなどおこがましい」とお叱りを受けるだろう。

間違ってもブログ以外でこんなことを公言することはできない。

だが、弁明させてもらうと、私からすれば、これは週4日で働いていると同義なのだ。

どういうことかといえば、私は1日働くと精神エネルギーをほぼ全て使い果たしてしまい、翌日は何もできなくなってしまうのである。

何もできない、というのは比喩ではなく、文字通り本当に何もできなくなるのだ。

働いた翌日はほとんど一日寝たきりになり、食事以外は布団の中で過ごす生活。

そうしてエネルギーを一日充電した後、ようやく翌日に動き出せるようになる。

つまり、一日おきに仕事をすると4日連続で拘束されることと同義なのだ。

週3日で働けば、このサイクルが6日間になり、ほぼ1週間丸々使うことになる。

人によってはこの私の感覚を「甘えだ」と叱咤するかもしれない。

もちろん、自分でもそのことは重々理解している。

一時期はその思いから、短期間ながらフルタイムに挑戦したこともある。

だが、その結果、私は生きる屍のように生気を失った。

目は虚ろで表情は暗く、言葉数も極端に少なくなり、何も考えることができない思考停止の状態。

そんな状態で毎日会社に出向いていた。

傍から見ると、まるでウツのように見えただろう。

しかし、これこそが内向型人間の大きな特徴なのである。

内向型はエネルギーを消耗しやすく、失ったエネルギーを溜めるのにも時間が掛かる。

その大きな理由は、刺激に弱いからだ。

内向型は刺激に敏感なため、エネルギーをすぐに消耗してしまうのだ。

一方で、内向型に相反する外交型はこの刺激に強い。

厳密に言うと、外向型は刺激の感度に鈍感なため、多少のことではエネルギーを消耗しないのである。

つまり、この刺激の感度こそ、内向型と外向型を区別する一番の要因なのだ。

内向型は、とにかく刺激に弱い。

外向型には何とも思わない出来事でも、内向型にとっては許容量を超える刺激になることが多々ある。

例えば、職場で仕事の合間に雑談することは、一般的には息抜きだとされている。

しかし、内向型にとって、人との接触はそれだけで十分刺激になるのだ。

組織で働く以上、人間関係は避けられない。

内向型人間にとっては、他人と時間を共有するだけでもエネルギーを消費してしまうのである。

ただ、勘違いして欲しくないのは、これはコミュ障内気などの、性格による症状ではないということ。

コミュ障や内気などの性格は、時間はかかれど改善することは可能だ。

しかし、内向型というのは生まれ持っての気質なのである。

気質である以上、変えることはできない。

だから、一見して社交的に見える明るい人でも、実は内向型の人間である、ということは決して珍しくない。

現に、私は他人から見ると図太い性格に見えるようだ。(本当は繊細で細かいことを気にする性格である)

普段は明るいのに、たまにスイッチが切れたように覇気がなくなる人がいたら、その人は内向型である可能性が高い。

それはエネルギーが枯渇したガス欠状態の証である。

そうならないためにも、内向型人間は自分で意識してエネルギーの使い方を抑えなければならないのだ。

こうした疲れやすい性質が、内向型人間が社会で生きづらい理由の一つである。

内向型はエネルギーを溜めにくい

内向型人間が生きづらいと感じるのは、仕事などの日常生活で疲れやすいことだけではない。

プライベートの時間でもまた、内向型は苦悩する。

それは前述したように、エネルギーを溜めにくいということ。

内向型がエネルギーを補充するためには、一人の時間を持つことが重要である。

価値観の合う本を読んだり、感動する映画を見たり、自分の内面と向き合うことでエネルギーを補充する性質だからだ。

反対に、外交型人間は外部の刺激からでしかエネルギーを補充できない。

だから、飲み会やパーティーなど、他人と交流するイベントには積極的に参加しようとする。

このエネルギーの補充の仕方が内向型人間と外交型人間の大きな違いであり、内向型が生きづらいと感じる要因でもある。

冒頭でも話したように、ここ最近の私はイベント行事などに積極的に参加していた。

気持ち的に少し余裕があったことと、たまには大勢でワイワイするのもいいか、という思惑からだ。

しかし、実際に参加しても、自分が思ったような充足感は得られなかった。

皆が楽しそうにしていても、私は心から楽しむことができないのだ。

もちろん、全く楽しくない、というわけではない。

花火大会やバーベキューなど、一人では行けないイベント行事はそれなりに充実した時間を過ごせた。

だが、私の満足度が60%だとすると、周囲の人間は120%心から楽しんでいるように見えるのだ。

「見える」というだけでなく、実際にそうなのだろう。

外向型人間にとって、他人と交流することはエネルギーを補充する行為なのだから。

彼等は人と交流し、外部から刺激を受けることで心のエネルギーが充電される。

いうなれば、生存活動なのだ。

逆に、私のような内向型人間は、そういった場にいると最初は楽しく感じても、長時間いると心に靄が掛かったようにドンヨリとしてくる。

まるで、エネルギーを奪われてるような感覚だ。

最近では、こうした理由から誘いがあってもあえて断るようにしている。

そうしなければ、エネルギーが枯渇してしまい、他のやるべきことが全くできなくなってしまうからだ。

たまに、自分のこうした性質が嫌になる時がある。

正直に言って悔しいのだ……。

皆が楽しそうにしているのに、なぜ自分は純粋に楽しむことができないのかと。

私も、本当はもっと活動的になって、イベントなどを楽しめる人間になりたい。

心から人との交流を楽しみたい。

しかし、それは内向型人間である以上、どう願っても無理なのだ。

世間で「楽しい」とされることを純粋に楽しめないジレンマ

これもまた内向型人間の苦悩である。

内向型人間が生きづらい最大の理由

ここまで読んで、内向型人間の生きづらさが多少なりともわかってもらえたと思う。

刺激に敏感で疲れやすい、エネルギーの補充には一人の時間を確保しなければならない、他人との交流を純粋に楽しめない等、どれも内向型人間ならではの苦悩である。

しかし、内向型人間が最も生きづらいと感じる理由はそこではない。

本当に生きづらいと感じることは、内向型の価値観が他人に共感されないことだ。

あるデータによると、世の中の外交型人間と内向型人間の割合は7:3だと言われている。

多くの者は外交型に属するのである。

それはつまり、内向型人間は疎外感を感じやすい、ということを意味する。

世の中の正論とされる価値観は、外向型の人間を主軸にして作られているためだ。

その価値観に頑張っても染まることができない焦燥感。

私は、子供の頃からそのことに苦悩してきた。

例えば、一般的には友達は多い方が良いとされている。

幼少の頃から友達は多く作れ、社会人になれば人脈を増やせなど、人と交流することが人生にとって最善の生き方だと教えられてきた。

私も昔はその教えに習い、交流を広げようと頑張った時期がある。

しかし、大勢の飲み会やパーティーに参加しても、心が疲労するだけで全く身になることがなかった。

人脈を広げても、結局のところはの場限りの関係で終わることが多く、後に役立った経験もほとんどない。

それよりも、少人数の気の合う友人と深い話をすることの方が、私にとっては非常に有意義だと感じるのだ。

これも私が内向型ゆえの性質である。

前述したように、内向型人間は人と接することでエネルギーが奪われる。

逆に、外交型人間は人と接することで外部からエネルギーを補充できるのだ。

つまり、内向型人間は外交型人間に比べて社会で生きていくために不利なのである。

しかし、こうした性質の違いを多くの人は知らない。

外向型人間からすれば、内向型人間はただの社会不適合者にしか見えないのだ。

だからこそ内向型人間は批判を受けやすい。

こうした事情を理解してもらえないことこそが、内向型人間が生きづらい最大の理由である。

内向型人間が幸せになるためには

内向型と外向型の性質は相反する。

両者がお互いの性質を理解しない限り、合い交えることはない。

特に両親が外交型人間で、その子供が内向型の場合は悲惨である。

親からすれば外向型の価値観こそが正義であり、内向型の子供は容赦なく否定されるからだ。

実は、私がまさにその例に該当する。

私自身は生粋の内向型人間だが、両親は揃って外向型人間なのだ。

父は元銀行員で営業成績が1番になるほどのバリバリの営業マンで、母親は友達とよく旅行に行き、休日には必ず予定を入れないと気が済まないという性格だ。

そんな両親から生まれた私だが、二人の性質を全く引き継いでいない。

昔から、大勢でワイワイするのが好きではなかった。

遠足や修学旅行の前日には、必ず気持ちが下がっていた。

そんなことに参加するくらいなら、一人でゲームや読書をしていた方がよほど気持ちが高揚する。

しかし、親はそうした私の行動を「よくないこと」として、真っ向から否定した。

あの頃は今のような知識がなかったので、私自身もその度に「自分はダメな子なんだ」と自己否定していた。

しかし、今ならハッキリと言える。

内向型は悪いことではないのだ。

これはれっきとした個性なのである。

世の中に外向型人間が多いため、どうしても内向型は負い目を感じやすい。

しかし、本当は両者に優劣などないのである。

ただし、内向型人間が幸せになるためには、やらなければならないことがある。

それは、自分が内向型であることを受け入れることだ。

前述したように、内向型は性質である以上、変えることはできない。

ならば、それを受け入れ、自分らしく生きることを目指すしかないのだ。

時には、外交型が集まる世界で疎外感を感じることもあるだろう。

しかし、そこで無理して外向型の生き方を目指したところで、内向型人間は決して幸せになれない。

例えるなら、それは利き腕を無理やり変えようとするようなもの。

反対の腕は訓練である程度使えるようになっても、本来の利き腕と違ってどうしても違和感は残ってしまうものだ。

これと同じで、内向型人間が外向型人間のように振舞っても、本物の外向型人間には永遠になれないのである。

だからこそ、内向型である自分を肯定し、より自分らしく生きることを模索するしかないのだ。

私と同じく自分が内向型だと自覚がある人は、自分を否定せず「自分らしい生き方」を見つけてもらいたい。

それが内向型人間が幸せになれる唯一の方法だ。

あなたが幸せになれる道を間違えずに進むことを願っている。

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