先日、『町田地方史研究会』主催の「秋の歴史散歩」に参加しました。

 

今回は『未来へ伝承!町田の地名大作戦』「小野路の地名を歩く」と題され、多摩市から町田市の小野路の史跡を詳しい解説と共に巡りました。

 

多摩市の「旧富澤家住宅」は1650年代以降代々名主を務めた名家で、
明治天皇始め皇族方が、明治14年(1881)以来幾度かこの地に兎狩りなどに行幸、行啓した際に「御小休所」として利用された由緒ある家です。

 

 

歴史を感じさせる建物内に新撰組の近藤勇の書や手紙などが展示されており、歴史上の人物の筆遣いに当時の息吹が感じられましたし、明治天皇がお泊まりになった部屋も開帳されていて欄間も大変立派でした。
静かに美しい庭園で鴨が羽を休めていました。

 

 

「平久保の椎の木」は東京都の天然記念物に指定されている樹齢600年の大木で、樹勢は盛んで、一見森のようにも見えるほどでした。

 

 

元々は鎌倉時代の馬次として栄え、武蔵国多摩群由井領であった当地の「平久保の椎の木」は、農村から現在の多摩ニュータウンへと発展したきた時間の流れを静かに見守ってきたのだなと感じました。

 

 

「中坂の庚申塔」は13像集められており、
庚申塔は庚申信仰に基づいて建てられた石塔のことで、
庚申の日の夜は天帝に悪事を報告されないように、夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である「庚申講」を3年18回続けた記念に建立されたそうです。

 

小野路村のあちらこちらにあった庚申塔が今では車通りの多い街道脇の丘の上に集められ当時の大衆文化を密かに伝えていました。

 

 

富士の沢の浅間神社でお詣りし、「戦車壕跡」を見学しました。

 

 

先の大戦末期には米軍が相模湾から上陸し本土決戦となると考えられていました。

 

昭和20年に町田から八王子につながる丘陵地が最後の防御線に設定され、米軍を迎え撃つべく、多くの戦車壕が町田市の北部丘陵に関東軍によって掘られ、そのいくつかが小野路に現在も残っています。

 

こちらの壕に配置される予定であった戦車は満州軍に配備されていた戦車で、満州から新潟に戻り栃木の小山辺りで集結したところで終戦となりました。

 

これらの戦車はお隣の相模原で製造され、遠く海を渡り満州まで行き、最後は帰国し故郷に戻って本土を守るべく、戦おうとしていたそうです。

 

 

戦車壕近くの万松寺には当時、品川から多くの子供達が学童疎開していたそうです。

 

 

小野路も空襲の被害があり、宿通りの10軒の家屋が焼失しました。
万松寺の榧の木には今も焼夷弾が被弾した跡があります。

 

旧角谷の「小野路宿里山交流館」に立ち寄り、小野神社にお詣りし、
「万松寺の草木塔」と「旧草木塔」を見学しました。

 

草木塔は草木の恵みに感謝し、その魂を供養するために江戸時代などに建てられた石碑のことで、自然を崇拝する庶民信仰が背景にあるそうです。

 

 

小野路の「旧草木塔」は元文(1736年~1741年)と記されており国内最古の草木塔です。

 

一方、「万松寺の草木塔」は歴史を愛する皆様が、最古の草木塔が出土したことに思いを馳せ、令和元年に建立された最新の草木塔です。

 

国内最古と国内最新の草木塔を同時に眺められる小野路の取り組みは大変面白いなと感じました。

 

最新の草木塔の向こう側には美しい谷野の風景が広がっており、ここが「世界の人口の多い都市圏ランキング第1位」の東京都であることを忘れさせてくれます。

 

 

この度の「秋の歴史散歩」では、多摩地域の様々な地名について詳しい方々から解説をいただきながら丸1日散策させていただきました。

 

「地名とは地霊であり、地名の多くは地形を表しながら、土地に生き継いだ人々の心と結びあっている。

 

そうした人々の呼吸の中から生まれ育った無数の記憶の跡が、地名の奥から風景として見えてくるのだ」

と教えていただき感銘を受けました。

 

最後に建設中の「リニア中央新幹線」の小野路非常口立坑の前を通りました。

 

中世の鎌倉時代から現在の令和の時代までタイムマシーンに乗って旅してきたような充実した1日で、まるでテレビ番組の「ブラタモリ」のようでした。

 

歴史散歩を通じて人間の儚さや逞しさを感じました。

 

年内の「町田地方史研究会」では、
「新撰組講演会」※要申し込み
「三輪の地名を語る会」
が予定されています。