古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

環濠集落と高地性集落

2018年10月17日 | 雑感
 今年、何度も何度も日本列島を襲った大型台風や暴風雨による河川の氾濫などの大きな被害の状況をテレビやネットで見ていて、被害にあわれた方々に対するお見舞いの気持ちを抱くとともに、不謹慎と思いながらもある考えが頭に浮かんだ。

 大自然の猛威に対して、現代の治水技術、土木技術をもってしても防ぐことができない河川の氾濫。これが縄文時代や弥生時代といった古代だったらどういうことになるのだろうか。人間が生きていくためには水は欠かせない。そしてその水の主たる供給源は今も昔も河川である。したがって水の獲得だけを考えれば河川の近くに住むのが合理的である。しかし、毎年いくつもの台風が襲来する日本列島で、河川の氾濫を防ぐための堅牢な堤防やダムを築く技術のない古代においては、河川の近くに住むことは危険極まりないことであった。ひとたび大雨が降ると河川は氾濫し、周辺のものは全て流されてしまうことになる。だから、古代のムラはたいていの場合、台地や河岸段丘の上、あるいは平地であっても微高地と呼ばれる周囲よりも少し高くなったところに設けられている。生活のために必要となる水を汲んで高いところへ運搬する労力よりも、河川の氾濫による被害から身を守ることを優先したと考えられる。

 弥生時代になると村の周囲に濠や壕を巡らせた環濠あるいは環壕集落が出現する。稲作中心の社会になって各地で集団による定住生活が定着すると、耕作地に近い低地にムラが形成されるようになる。するとムラどうしが耕作地や水資源、あるいは収穫物をめぐって互いに争うようになり、それぞれのムラは自らを防御するためにムラの周囲に濠や壕を巡らせるようなった。(水を貯えたものが濠、そうでないものを壕と表現するが、ここではまとめて濠と表すこととする。)環濠集落と呼ばれるもので、有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡では濠に沿って逆茂木が備えられており、環濠集落そのものが防御施設であることは間違いないと考えられる。しかし一方で、奈良県の大和盆地中央にある多重環濠集落で有名な唐古・鍵遺跡では、その環濠が浅くて防御機能を果たしえないという。この遺跡の多重環濠は河川につながっていたことから、上下水道の機能、あるいは運河の機能を果たしたのではないかと考えられる。

 そして現代における河川の氾濫による水害の映像を見て思いついたことは、環濠集落は水害からムラを守るために築かれたのではないだろうか、ということだ。現代のゲリラ豪雨のような猛威には抵抗できないであろうが、近くを流れる河川から水が溢れ出てムラを襲った際に周囲に濠があれば被害を緩和することができる。特に低地に設けられた環濠集落は敵からの防御とともに水害対策の目的があったと考えることができないだろうか。

 この発想をさらに拡げてみた。いわゆる高地性集落は実は暴風雨や大水害がムラを襲ったときの避難場所ではなかっただろうか。もちろん、ムラが敵から攻撃されたときの避難場所でもあり戦闘のための施設という位置付けであることは言うまでもない。両者の考えは矛盾するものではなく、むしろ両立するものである。高地性集落は東海地方、北陸地方よりも東側には存在せず、その分布は東海・北陸以西の西日本に限定される。これは台風の進路にあたる地域と一致している。環濠集落についても関東地方や東北地方において存在が認められるものの、その多くが西日本に分布する状況は同様である。環濠集落に関する報告書などを読むと、時代を経る中で環濠が幾度かにわたって埋められたり掘られたりを繰り返すという記事を眼にすることがよくある。これは河川の氾濫による土砂で埋まった環濠を掘り返して再建するということを繰り返したということではないだろうか。

 以上は何ら検証のできていない素人の思いつきの発想なので悪しからず。


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