古代日本国成立の物語

素人なりの楽しみ方、自由な発想、妄想で古代史を考えています。

銅鐸の考察⑫(おまけ)

2020年04月16日 | 銅鐸
 古代日本の成り立ちにおいて謎の青銅器である銅鐸をどのように位置づけるか、について自分なりに考えてきました。知っているようで知らない銅鐸、まずは「そもそも銅鐸とは何ぞや」を勉強するところから始めました。最初、意外にも手頃な価格で手に入る書籍があまりないことに戸惑いました。加えて、もともと発行冊数が少ないのか、価格は手頃でも新品が手に入らないものが多く、結果、今回このために手に入れた書籍は一冊を除いてすべて古本ということになりました。ただ、これまでに購入していた様々な書籍や博物館の図録が役に立ったのはよかったです。とはいえ、それらの書籍だけではどうしても隔靴掻痒の感が否めず、ネットを検索しまくって様々な情報を集めました。その中でいちばん役に立ったのは様々な専門家が書いた論文でした。専門家の論文が手に入ったのは有難かった。さらに、それらの書籍や論文にくわえて古代史研究家の皆さんのブログも大いに参考にさせていただきました。

 そして、私にとってラッキーだったのが、それらの書籍や論文などに登場する遺跡の多くがこれまでの古代史の勉強で何度も出てきた遺跡で、それらについて多少なりとも知識を持っていたこと、さらにはその半分くらいが実際に行ったことのある遺跡だったということです。銅鐸出土地はあまり行ったことがないのですが、大阪や奈良周辺のみならず北部九州や出雲、吉備、丹後など、これまでに行った実地踏査ツアーが大いに役立ちました。現地を知っているだけでイメージが広がります。

 とくに昨年、岡山へ実地踏査ツアーに行ったときの経験が今回の結論に至った大きな理由のひとつになりました。弥生時代終わり頃の楯築墳丘墓を訪ねたこと、その墳丘横に祀られる弧帯文石の実物を見たこと、さらに前方後円型の宮山墳丘墓を訪ねたこと、そして博物館で特殊器台を見たこと。吉備で見たこれらのものが畿内に入ってきている。それとは逆に、北部九州の各地を巡った時に見てきた甕棺墓や銅剣、銅矛は畿内にない。北部九州の勢力が東進して銅鐸祭祀を行う勢力を制圧したという説もあるかな、と思って勉強を始めたものの、私の結論はそこには至りませんでした。

 今回の銅鐸の勉強はこれまでの中で最も頭を使ったかも知れない。でもその分、けっこうな達成感があります。ただし、私がこれまで記紀の記述をもとに考えてきた古代日本国の成立過程と整合性があるかどうかの確認はこれからです。もしかしたら、自説の修正ということになるかもわかりませんが、それはそれでまた楽しいことです。


■参考にした主な書籍・論文・Webサイト
「対論 銅鐸」 森浩一・石原博信
「青銅器の考古学」 久野邦雄
「邪馬台国から大和政権へ」 福永伸哉
「祭りのカネ銅鐸」 佐原真
「徹底討論 銅鐸と邪馬台国」 銅鐸博物館編
「卑弥呼以前の倭国500年」 大平裕
「銅鐸の時代」 春成秀爾
「弥生青銅器の成立年代」 春成秀爾
「弥生青銅器祭祀の展開と特質」 吉田広
「銅鐸・武器形青銅器の埋納状態に関する一考察」 石橋茂登
「小銅鐸同工品の検討」 臼井久美子 
「銅鐸文様の起源」 設楽博己
「銅鐸の世界」 国立歴史民俗博物館発行「歴博」第121号
「邪馬台国時代の王国群と纒向王宮」 石野博信
「邪馬台国の候補地 纒向遺跡」 石野博信
「北近畿の弥生王墓 大風呂南墳墓」 肥後弘幸
「吉備の弥生大首長墓 楯築弥生墳丘墓」 福本明
「王の鏡 平原王墓とその時代」 糸島市立伊都国歴史博物館編
「王権誕生」 寺澤薫
「銅鐸の謎を探る」 滋賀県野洲市公式サイト 
「大岩山と近江の銅鐸」 守山弥生遺跡研究会サイト 

■今回のレポートに登場する遺跡で行ったことのあるところ
 吉野ケ里遺跡
 吉武高木遺跡
 平原遺跡
 三雲南小路遺跡
 井原鑓溝遺跡
 須玖岡本遺跡
 立岩堀田遺跡
 荒神谷遺跡
 加茂岩倉遺跡
 西谷墳墓群
 青谷上寺地遺跡
 楯築墳丘墓
 宮山墳丘墓
 赤坂今井墳丘墓
 大風呂南墳墓群
 三坂神社墳墓群
 纒向遺跡
 箸墓古墳
 ホケノ山古墳
 西殿塚古墳
 中山大塚古墳 
 朝日遺跡

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