35. 「最後の審判」サグラダファミリアと第三次世界大戦。 | ポポ山に祈りを込めて

ポポ山に祈りを込めて

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しばしの休憩を。

(初めにポポ山より。
実はここに転載した本の内容は自分自身きちんと読んでいなかったため、書いているうちに、このような内容になるとは思っていませんでした。
途中で何度も書くのをやめようかと思ったのですが、でも当時のイエスのことばは宗教関係なく今も生きていて、そのことばの一つ一つが心に響き、受難の前のイエスの悲しさと、そして私達への改心を求めた預言「最後の審判」という重い話は、一年を最後にして、深く深く考えさせられる内容だったので、そのままをここに載せたいと思います。長くなりましたが、今年一年間本当にありがとうございました。どうか良いお年をお迎えください)
(会話の太文字がイエスの話す言葉です)

「今夜もそこで過ごされるおつもりですか。その後で、ゲッセマニに行かれるおつもりですか。それをユダが知りたがっていました。野宿だとゆっくり休めないので、もう疲れてしまったと言っています」

「近いうちに、それも終わります。とはいえ、私の意向についてユダには何も言うつもりはない・・・」

「ごもっともです。私たちを指導しているのはあなたですから、私たちの方からとやかく言うことではありません」

ヨハネは、裏切りがあるなど想像もつかない。このごろ、イエスは将来の計画についてちっとも話さないその賢明さの理由さえも分かっていない。
マナヘンの公園を後にした時、まだ暑いけれども夕暮れのそよ風がそれを和らげ、ぬけるような青空に小さな雲を運んでくる。

もとは羊飼いのマティアが、この時イエズスに近づいて問いかける。

「主よ、私と仲間たちは、この間のあなたのおことばをいろいろと考えてみましたが、はっきりしないまま寝てしまったので、いまもまだ分かりません。
先だってのあなたの話では、律法は変わらないだろうが、他の多くのことは変わり、新しい預言者、知恵者、律法学者でもって、新しい神殿が建てられるということと、この神殿に対していろいろな戦いが挑まれるだろうが、これは滅びることなく、その代わりに、いまの神殿がやがて滅びていく運命にあるということでしたね」

「そのとおり。ダニエルの預言を思い出しなさい・・・」(ダニエル9.26-27)

「そうは言われても、昔のいろいろな王たちがやっとこの神殿を造ったのに、数も少なく貧しい私たちが、どうしてそれを建て直せますか。またどこに?別の所にですか。ユダヤ人が、あなたを神に送られたものとして祝福するまで、ここは神殿なしに残るとおっしゃったから・・・・」

「そのとおりです」


「あなたのおっしゃる国が霊的なものであるということは、私たちも分かっているので、あなたのおっしゃる国に建てられるのでもない。それなら、どこへ。どのようにしてそれを造るのですか。また昨日、あなたはまことの神殿が・・・いまあるのは、まことの神殿ではないので。敵方が滅ぼしたと思うその瞬間に、まことの神殿が勝利を得て、まことのエルサレムへ上ると言われましたが、そのエルサレムはどこにあるのですか。こんがらがってしまい、私たちの頭ではよく理解できません」

「そう、敵たちがまことの神殿を滅ぼしても私は三日でそれを建て直し、それからは人間が害を加えることのできないところへまで昇って、もう滅びることはあり得ない。
 
 
神の国というのは、それは、おまえたちと私を信じる人たちがいるところにはどこにでもあります。いまのところは散らばっており、このまま何世紀も続くでしょうが、その後、天において一つのものとなり、永遠に完全なものとして存在します。神の国において新しい神殿が建てられます。それは、つまり神の国についての私の教えを納得し、その掟を守る人々のいるところです。
 
私たちは数が少なくて貧しいから、そうやって建てられるのか不安なのですか。神が新しく住まわれる建物を建てるには、金も権勢も要らない。神の国は、おまえたちの中にあります。それは自分の中に神の国を持ち、恩寵である神、命である神、光である神、愛である神を持っているすべての人の集まりであって、地上では神の大きな国であり、新しいエルサレムであり、世界のありとあらゆるところまで広がり、何一つ欠点のない、陰のない、完全となって、天に永遠に生きるものです。
 
 
この神殿と町と、おまえたちがどうやって造れるかだって?おまえたちではなく、神、自らがこの新しいものを建てます。おまえたちは、神にその善意をささげるだけで十分です。善意とは、私の教えを、“生きる”ことであり、皆の心の一致ということです。おまえたちは、小枝の先まで同じ樹液で養われている一つの木のように一致したものでなければならない。唯一の土台に建てられ、神秘的な統一によって一つとされます。
 
 
私はおまえたちに祈ることを教えました。死ぬ前に、私もおまえたちのために祈ります。父の助けなしには、愛、真理、命である私の中にいることができないので、終わりを知らない神殿となるために、自分の中に神をもつように絶えず努めるよう繰り返します。新しい建物である私の教会で、あなたたちの心に神が本当に住むとき、神は生きる石であるおまえたちをもって、自分の教会をお建てになります」


「しかし、あなたは、あなたの教会が建てられる石、その頭はヨナの子シモンであると言われたではありませんか。それに、あなたがそれの角石であるともほのめかされたではありませんか。では、その頭とはだれなのですか。いわゆるこの教会はあるのですか、それともないのですか」と、ケリオットのユダが口をはさむ。


「私は神秘的な頭です。そして、ペトロは目に見える頭です。私は、私のことばによって、私の苦しみによって、私に忠実であった人々の友人となります。私は弁護者(聖霊)を残して父のもとに戻るからです。私の霊的体である教会と私は一つであり、私はその頭です。ところが、頭がその非物質的命令をもって指導しても、それを実行するのは目、耳、鼻、皮膚などのような器官です。

つまり、考えたり活動したりするためには、器官と手足とが必要とされます。それと同じように、私の霊的体である教会では、私は頭、すなわち、理性と知恵です。 

ペトロとその協力者は、いろいろな反応を見て、そういうふうな表現などを理解し、これを伝えた理性によって照らされ、体全部のために善であることを行うよう命令し、そこから弟子たちは私の命令に照らされ指導されて、他の肢体に話し指導します。 

私の教会は、すでに存在していると言えます。なぜなら、もはや教会の超自然の頭と神的頭を持ち、その手足、『弟子たち』を持っているからです。それはまだほんの小さな、成長しつつある芽であって、指導している頭においてのみ完全です。他のものにおいては不完全で、完全になるためには、神の一触と時間とを必要とします。

しかし、まことに言うが、その教会は、もはや存在しているし、その頭またその成因の善意によって聖なるものです。この聖なるもの、敗北し得ないものに対して、悪魔と悪魔的な人間によってできている地獄は、ただ一度どころか何百回も何千回も手を替え品を替えて襲いかかるでしょうが、彼らが勝つことは決してない。その建物は永遠に崩れることのないものです。 

確かに、建物は一つの石だけでできるものではありません。いま夕日をあびて美しく雄々しく建っている神殿を見なさい。それが、一つの石でできていますか。いいえ、さまざまの石が組み合わさり、調和のある統一のとれたものを作っています。まず壁と屋根とを支える土台ですが、壮大なものにふさわしい、しっかりしたものでなければなりません。

同様に、このようなさまざまな部分の従属によって、新しい神殿も建つにちがいない。未来世紀にわたって、おまえたちはその大きさに合う私が与えた非の打ちどころのない完全な土台の上に、神殿を築くはずです。神の指導によって建てられるために使われる物事、すなわち神の住まいとなっている霊魂たちの善良さによって、それは造られます。 

おまえたちの心の中に神がいれば、おまえたちは、新しい神殿のための、ひび割れ一つないなめらかな石となるに違いない。おまえたちの心の中に神の国が建っていないならば、おまえたちは焼きの足りないれんが、虫くいのある木材、賢い建築家ならより分けるもろい石でしかない。 

父が神殿の建築に定めた建築家が、ぼつぼつ仕上がる建築に使われる材料をよく吟味せず、内心は孔雀のように傲れる(おごれる)ばかりであれば、その建築の一部はいつか必ず崩れます。このような人たちは、偶像的な建築家で、偶像的な後見人で、偶像的な番人で、盗人しかない! 

神の信頼を盗む人たち、人間の尊敬を盗む傲慢な泥棒たちは、大もうけすることだけを喜びとし、多くの材料を集めるけれども、それらが良いものか、それともいつか滅びのもととなるよからぬ傾きのあるものか、よく調べることをしない。 

新しい神殿の新しい司祭、律法学者よ、よく聞きなさい。自分自身を偶像視して、自分や他人すなわち信者をよく吟味せず、つまり石と木材の品質を十分試しもせずに、上っつらだけを見て、神殿のために不良品や有害な材料が使われるのを見逃して、いつかくる大きな滅びのもととなるおまえたちは災いです。その災いは、教会の創立者である神からでなく、おまえたちからくるものだから、主と人間との前に、おまえたちがその責任を負わねばならない。だから、勤勉、注意、分別、賢明でありなさい!

大黒柱には不適当な石、れんが、弱い梁(はり)は、さほど重要ではない他の部分に使うことができます。 

このように、おまえたちは選択することを学ぶ必要があります。愛をもって弱い部分を補うように。重大な角を支えている石が良くないか、あるいは弱くてとても調和がとれそうにないと分かったら、その石を、勇気をもってそこから取り除き、聖なる熱心という、のみで削って修正し、それがあまりの苦しみに耐えかねて叫び声を上げたとしても、かまわずにその作業を続けなさい。おまえたちはそれを救ったのだから、未来の世紀において感謝されます。それを動かして、他の役割りを与えなさい。

だが、もしそれが滅びとつまずきのもととなり、おまえたちの仕事を妨げているのが分かったら、それを全く捨て去ることを恐れてはならない。多い底荷よりも、少ない石のほうがよい。あわててはいけない。神はあわてることがない。神が造るものは、実行する前によく検討してあるので、永遠に続くものです。 

永遠でないとしても、半永久的に続くものとなります。宇宙を見てごらんなさい。何世紀、何千世紀も前から、神が造ったそのままに続いています。主に倣いなさい。おまえたちの父のように完全でありなさい。神の律法、神の国を自分の中に持ちなさい。そうすれば誤ることはない。

もしも、いま言ったとおりにしないなら、建物は崩れておまえたちの苦労も空しいものになります。そうなれば、角石だけ、土台だけを残して崩れます・・・。ちょうど、あれ、(神殿を指す)に起こると同じように!

まことに言うが、やがてあれは崩れてしまいます。しかし、おまえたちが造ろうとする新しい神殿も、もうすでに古い神殿にあるような傲慢、貪欲、罪と淫乱に病む部分を置けば、同じことが起こります。山の峰に美しく置かれている雲のじゅうたんが、一陣の風で吹き払われてしまうのと同じように、超自然的または人間的罰の風の一息によって、聖なるものとは名ばかりの建物は崩れ去ってしまう・・・・」

イエズスは物思いに沈み、黙ってしまう。しばらくして、ようやく口を開き、
「ちょっとここに腰かけて休もう」とだけ言う。
沈みいく太陽に接吻されている神殿に向かい、橄欖山の斜面に腰を下ろす。イエズスは神殿を悲しそうに眺める。他の人々は、その美しさを誇らしげに眺めているが、さっきの師のことばが、その誇りに一抹の不安を投げかける。あの美しさも本当に崩れ去る運命だったら・・・?!

ペトロとヨハネが話し合ってから、そばにいるアルフェオのヤコボとアンドレアとに何ごとかをささやくと、この二人がうなずく。

ペトロがイエズスに頼む。

「あちらで、神殿の滅びについてのあなたの預言はいつ起こるのか話してくださいませんか。ダニエルもそれについて話していますが、ダニエルの言うとおりで、あなたがおっしゃるとおりだとしたら、神殿の崩壊までに、あとわずかの時間しか残されていません。ところが、軍隊も戦争の兆しも見えません。いつのことなのですか。そのしるしは何ですか。あなたはここに来られ、近いうちに去ってしまうと言われる。それなのに、あなたが人間の中にいらっしゃる時に、それは起こるだろうと言われている。では、いつかお戻りになられるのですか。それはいつですか。私たちに分かるように話してくださいませんか・・・・」

「ここを離れる必要はない。ごらん、最も忠実な弟子だち、おまえたち十二人の大きな助けとなるに違いない人たちが残っています。私がおまえたちに話す言葉は、この人たちも聞いてよろしい。皆、そばに来なさい」

イエズスは皆を集めようと、大声で叫ぶ。斜面に散らばっていた弟子たちが、イエズスと使徒たちを中心に円をつくる。
「将来、いろいろな誘惑に負けないように気をつけなさい。私がキリストであって、他のキリストはいない。多くの人が、“私はキリストです” と言って大勢の人を惑わすかもしれないが、おまえたちは、そのことばがたとえ奇跡を伴っていても信じてはならない。偽りの父、うそつきの保護者であるサタンは、自分の下僕たちと弟子たちとを偽りの不思議をつかって助けるに違いない。

しかし、その不思議はいつも恐れ、不安、偽りを伴っているので、善くないものだと見分けられます。神の行う不思議は、おまえたちも知っています。その不思議は、聖なる平和と喜び、健康と信仰とを与え、聖なる望みと業(わざ)とに導くものです。サタンのはそうではない。偽りのキリストたちは民の救い主を装おうが、それは人々を崩壊させる獣にすぎない。このような不思議の形と結果についてよく考えなさい。

また、おまえたちは戦争を見、そのうわさを耳にし、“それは終わりのしるしである” と言われるが、その時にうろたえてはならない。それは終わりではない。戦争などすべてのことは終わりの前に起こるはずですが、まだ終わりではない。民は民に、国は国に、人種は人種に刃向かい、大陸は大陸に向かって立ち上がり、その結果として、ペストや飢餓や地震が起こります。だが、これは苦しみの始まりでしかない。

民衆は、その時、おまえたちが自分たちの苦しみの原因であると訴えて、おまえたちを虐げ、殺し、私の下僕たちを迫害して滅ぼすことによって、その災いから抜け出すことを望むはずです。

“人間が罪によって作り出している災いの原因は、罪のない人々、また神自身であるとして、最高の善であり、全く罪のないものである神自身を非難するのは言うに及ばず、おまえたちをも非難します” おまえたちは、私の名前のために憎まれます。そういったたぐいの人間をけしかけるのはサタンです。多くの人々はそれによってつまずき、裏切りを重ね、憎しみをつのらせることになります。

その時、多くの人々の誤らせる偽者の預言者が立つはずです。これほどの悪の、まことの発起人はサタンです。罪悪が拡がるにつれて、多くの人々の愛は冷えていくが、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。神の国の福音は、その前にすべての民に対する証として全世界に宣教されなければならない。その時、終わりが来ます。これを迎えるイスラエルの人々はキリストに戻り、私の教えは全世界に述べ伝えられます。

もう一つのしるしがあります。それは神殿の終わりのためのしるしと、世の終わりのしるしです。預言者ダニエルの言った“荒らす者のいとわしいもの”が聖所に立つのを見たら、ユダヤにいる者は山に逃げなさい。屋上にいる者は、家具などを運び出したくても下りてはいけない。畑にいる者は、外套をとりに戻ってはいけない。その日、不幸なのは、身ごもった女と乳を飲ませる女です。こういう事態が、冬や安息日に起こることのないように祈りなさい。その時には前代未聞の大艱難が起こります。その日が短くないなら、救われる者は一人もいない。なぜなら、悪魔的人間が、人間を苦しめるために地獄と結託するからです。

またその時も、主に対して忠実を誓う人々を正しい道から踏みはずさせ、滅ぼすために“キリストはそこだ、キリストはここだ” と言う人々が出てきます。だが、信じてはならない。偽キリストや偽預言者たちが立って、選ばれた人たちさえも迷わせるほどの偉大なしるしや奇跡を見せるに違いない。あらかじめ、私はこのことを知らせておきます。

だからといって、倒れるのを恐れてはならない。主に残るなら、誘いと滅びに引かれることはあるまい。おまえたちに言った私の言葉を思い出しなさい。“蛇とさそりの上を歩く力をおまえたちに与えたし、敵のすべての力はおまえたちに害を与えることはあるまい。すべてがおまえたちに服従するはずだから” しかしながら、これらのことを得るためには、自分の中に神を持つべきです。そして、悪の力と毒するものを支配できるためではなく、おまえたちの名前が天に書かれていることのために喜びなさい。

おまえたち、主とその真理の中に残りなさい。私は真理であり、真理を教えます。だからこそおまえたちに繰り返します。私について、人々が何を言っても信じてはならない。私だけが本当のことを言います。キリストは来るけれども、終わりが来る時に来る、とおまえたちに言うのは私だけです。

ある人が、“キリストが荒野にいる” と、言っても出て行ってはいけない。“キリストは奥の部屋にいる” と言っても信じてはいけない。再臨のときの人の子は、またたく間もなく、東から西の空に閃光が走るようなものです。その閃光は、早速屍となった大なる体に襲いかかり、輝く天使にしたがわれて裁くだろう・・・そして、体のあるところにはげたかが集まる。

これらの日々の艱難の後、直ちに太陽は暗くかげり、月は光を失い、星は空から落ち、天の力が揺れ動きます。まさにその時、人の子のしるしが天に現れ、地上のあらゆる国民は皆後悔し、人の子が勢力をもち大いなる栄光を帯びて空の雲に乗ってくるのを目にします。

人の子は自分の天使たちに命じて麦とぶどうの収穫をし、小麦から毒麦を取り除き、樽にぶどうを入れるよう命じます。これでアダムの種子の大収穫がなされ、小さな房や落ち穂はとっておく必要がない。なぜなら、地球上に人類が継続することはあり得ないからです。

らっぱの大きな響きとともに、世界のあちこちから選ばれた人々が神なる審判者のそばに立ち、この人とともに生きている最後の人々と復活者たちとを裁くために、天使たちに集めるよう命じます。

いちじくの木から思いをめぐらせばよい。その枝が柔らかくなって葉が芽ばえれば、もう夏が近いと分かります。それと同じことです。そういうことがあれば、事はもう間近に迫り、門に近づいたと知りなさい。まことに言うが、これが実現するまで、いまの世は過ぎ去りません。私のことばが過ぎ去ることはなく、私の言うことは起こります。人間の心と考えは変わることがあるが、私のことばは変わりません。天と地とは過ぎ去っていくが、私のことばは過ぎ去ることがない。

その日と正確な時期について、だれも知らない。主の天使さえも知らず、父だけが知っています。人の子の来臨の時に、ノアの時代と同じことが起きます。洪水の前、ノアの箱舟に入るその日まで人々は飲み食いし、めとりまた稼ぎ、洪水になってすべてが滅ぼされるまで何一つ気づかなかったのです。

人の子の来臨もそれと同じです。その時、二人の男が畑にいたら、一人が取られ、一人が残されます。二人の女がうすをひいていたら、一人が取られ、一人が残されます。常に警戒を怠ってはなりません。主がいつの日に来られるかは、だれも知らない。

泥棒がいつ来るか、家の主人に分かっていれば、用心して、自分の家に入るのを許しはしない。そのために、主の到来に備え、警戒をして祈りなさい。この時に、さまざまな不節制によっておまえたちの心がだらけていないように、おまえたちの霊がこの世のことにあまり気をとらわれないように、死の絞首索に不意打ちを食わせられることなどないように、心しておきなさい。人は皆死ななければならない。すべての人間は、一たび生まれたら必ず死にます。この個々の人の死と、それに続く裁きとが、キリストの一つの到来だが、人の子の尊厳な来臨は皆のために最後の審判まで繰り返されます。

主人が、留守中、下男たちの食べ物の管理をさせるために決めた忠実で賢明な下僕のことを考えてみなさい。主人が突然帰ってきたとき、命ぜられたことを賢明と正義と愛をもって実行している下僕を見たらどうしますか。まことに言うが、主人は下僕に向かって、『忠実な善い下僕よ、こちらに来なさい。おまえは私の報いに値するものです。さあ、私の全財産を管理しなさい』と言うに違いない。

ところが、その下僕は一見忠実に見えて、実はそうでなく、心の中は偽善者と同じほど悪くて、主人が出かけてしまうと、内心“主人が帰るのは遅い!それなら楽に生きよう” とつぶやいて、仲間の下僕たちをたたいたり虐待したり、酒飲みたちと一緒にたびたび酒盛りをするために、少しでも多くの金を集めようとして他の下僕の食料や品物をかすめ取ったりしていたらどうなるか。主人が、まだ帰るとも思っていない時、不意に帰宅してその悪事が露見したら、この下僕は地位も金も取り上げられ、正義が要求するところへと追放され、そこにとどめられます。

もう死が近い、裁きも近いということを考えず、この世で楽しみ、“いつか痛悔すればよい” と考えて、改心しない罪人(つみびと)についても同様です。このような人には、痛悔する暇も与えられないことがあり得ます。冒瀆と涙と苦しみしかないその恐るべき所に、ずっといなければならないという罰を受け、そこから引き出されるのは最後の審判を受けるためだけで、この世で罪を犯すために使った体がよみがえって再び肉体を身につけ、救い主として自分を迎えようとしなかった、裁くイエズスの前に現れます。

地と海とから戻され、それはそれは長い間、灰であったにもかかわらず、またよみがえらされた体をもった数限りない人間の群れが、人の子の前に立ちます。それぞれの霊魂は、この世で生きていたそれぞれの体とまた一緒になり、その天使たちに囲まれ、神の御稜威(みいつ)を見て輝く人の子の前に立ちます。

人の子は、諸国の人々を自分の前に集め、ちょうど牧者が羊と雄山羊を分けるように、羊を右に、雄山羊を左に置きます。

輝かしい聖なる体で美しい姿をしている右側の人々に、優しい声と柔和な態度で、『父に祝された者よ、ここに来て、世の始めからあなたたちに用意されていた国を受けなさい。あなたたちは、私が飢えていたときに食べさせ、乾いていたときに飲ませ、旅にあったときに宿をかし、裸だったときに服を、病気だったときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれました』と、言います。

すると、義人たちはこれに答えて、『主よ、私たちはいつあなたの飢えているときに食べさせ、乾いているときに飲ませ、旅にあるときに宿をかし、裸のときに服を渡し、病気のときや、牢に入れられたときに見舞いましたか』と言うと、主はこう答えると思います。 『まことに私は言う。あなたたちが、私の兄弟であるこれらの小さな人々の一人にしたことは、つまり、私にしてくれたことです』

それから、左側にいる人々に向かって厳しい顔をして、神の怒りを声に表して言います。『呪われた者よ、私から離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火の中に入れ。おまえたちは私が飢えていたのに食べさせず、乾いていたのに飲ませず、旅にあったときに宿もかさず、裸だったのに服をくれず、病気のときや牢にいたときに見舞いに来ませんでした。おまえたちにとっては、自分自身の快楽のみが、生きる唯一の基準だったからです』

その時、これらの者たちは、こう言い逃れます。『主よ、あなたが飢え、乾き、旅に出、裸になり、病気になり、牢に入れられたとき、私たちがいつ助けなかったですか。私たちはあなたを知らなかったのです。あなたが地上におられた時、私たちはまだこの世に存在していませんでした』

すると、主がこれに答えます。『そのとおり、私が地上にいた時、おまえたちはまだ存在していなかったから私を知りませんでした。しかし、おまえたちは私のことばを知っていたはずです!おまえたちと一緒に、貧しい人々、飢え乾く人々、裸の人々、病人、牢に入れられた人々がいたはずです。なぜ、こういう人々に、“私だったらするかもしれない”ことをしなかったのですか。私と一緒に地上にいた人々の皆が皆、人の子にあわれみ深かったというわけではない。とはいえ、私の兄弟たちの中に私はいるということを知らなかったのですか。私の兄弟の一人が苦しんでいるところに私もいること、そして、私のこの小さな兄弟たちにしなかったことは、人間の長男である私にしなかったことであると知らなかったのですか。

己の利己心の中に燃えに行きなさい。行け!そして、闇と寒さとがおまえたちを包むように。おまえたちは光と愛の火とがどこにあるかを知っていたのに、闇の中に冷えたままでいたからです』 こういうふうな人々は永遠の拷問に行き、義人たちは永遠の生命(いのち)に入ります。

以上話したことは、未来に起こるであろうことです・・・・。もう行ってよろしい。だが、それぞれの別れになってはならない。私はヨハネと一緒に行きます。それから晩餐のため、またおまえたちに訓戒を与えるために、夕方過ぎにおまえたちのところに戻ります」
 

以上、マリア・ワルトルタ「受難」。
(追記。ワルトルタの内容を決してオカルトや陰謀論に利用しないでください。その為に今までワルトルタの名前を出したくなかったのです。
過去何百万年という、繰り返す地球上の人間の生と死の歴史の中で、その都度、新たな文明が始まり今以上に進化した時代もありました。けれど、文明が何度滅びようが私たちの魂にとって大切なことは何一つ変わっていません。それは無償の愛と慈悲の心です。そして日本人ならではの大和魂をもって、宗教ではなく本来の真の神の道を歩むこと。しかし残念ながら今の時代、多くの人がそれを忘れてしまったのです)

(Sagrada Familia)
この翌日、日本へ無事に帰国しました。
支離滅裂な長い旅行記でした。
5年間にかけて何度もヨーロッパを旅してきましたが、
残念ながら、
これでしばらくヨーロッパに行く事は無いと思います。

旅の記事の途中、
よくわからない宇宙人の記事になりましたが、
情報を降ろしながら記事を書くので、
どうしても書くことが必要になるんです。
私の気がおかしくなったと思ってください(笑)
宇宙人は今も各国の軍事施設に隔離され、 
様々な軍事兵器、生物兵器の実験に携わっています。
地球人はなぜこれ程に残虐になったのでしょう。

これからの時代、イエスの預言通りに、
第三次世界大戦のような事が起こり始め、
想定外の超自然災害も起こり、
混沌とした時代に突入します。
その時こそ私たちの精神性が試されるでしょう。

本当にありがとうございました。