暮れから正月の休みになった。むしょうにトインビーを読みたくなった。図書館で『図説版 歴史の研究』を借りてくる。数章を読んで、トインビーを貫いている歴史意識を感じる。気持ちがよい。それは、巨大な叙事詩を歌い上げるメロディーのようなものだ。

 アーノルド・トインビー(英国の歴史家 1889~1975)の『歴史の研究』は、人類がクリエイティブに生きるとはどういうことかを追究したものだ。同時に、人類の愚かさを的確に描き出す。

 ほんとうの学問とは、こういうものだと思う。膨大な史実の実証に支えられつつ、われわれの置かれた状況とこれからを照らし出そうとする。

 トインビーが描き出す文明衰亡の原因の一つに、制度の絶対化がある。なにかに成功すると、それをもたらした制度を絶対化して、何が起ころうともそれを繰り返すだけになる。

 

 すでに滅んだソ連社会主義帝国のことを思う。ちょっと経済発展をもたらすのに成功しただけで、自分の社会主義制度を絶対化した。じきに経済混乱を起こして自滅した。

 アメリカ帝国も、すでに盛りを過ぎたと思う。レーガンの頃から、自惚れの度が過ぎる。栄光の民主主義制度というが、自国内の貧富の差と階級分化はいったいなんだろう。過去のアメリカの栄光の亡霊を呼び出そうとしているのは、現在直面する問題に対処する能力を失っている証拠である。

 

 1945年に滅んだ大日本帝国のことも思う。大日本帝国も、あっという間に滅びた。順当であろう。大日本帝国は、日露戦争の勝利に自惚れた、軍事一辺倒の国である。他国の人たちが参加したくなるような社会システムや文化力を持っていたわけではない。

 いま、大日本帝国の亡霊を呼び出す試みが多いが、はかない試みだ。「こんないい人もいた、こんな善い事例もあった」ということなら、どこの時代でもどこの国でも探せば見つかるものである。

 

 制度の自惚れがひどいのが、日本教育である。日本教育は戦後の高度成長をもたらすという大成功をおさめた。その成功のために、あとは繰り返すだけになってしまった。進学競争や落ちこぼれになる恐怖に訴えて、教科書と黒板の一斉授業をしているだけである。

 戦後の教育は、お題目を「お国のために」から「民主主義」に変更しただけで、実はお国が指揮する注入教育であることを変更していない。戦前は国の直接管理であったものが、複雑な官僚支配体制に変わっただけである。それは、高度成長を支えることはできた。

 しかし、その反面で、子供たちには、大きなストレスがかかっているのである。その証拠にクラスに不登校の子が出ると子供たちは「ズルい」という。ほんとうに良い教育が行われているならば子供たちからは「ズルい」ではなく、「もったいない」とか「かわいそうに」という言葉が出てくるであろう。

 徴兵制ならば、徴兵逃れに対して仲間は「ズルい」と言うであろう。日本教育は、まだ徴兵制のレベルであり、強制しなければ食べさせることができない程度のものしか提供できていないのである。

 子供たちが自分がどう評価されるかに恐々としているような教育が、活力ある社会を創れるはずがない。

 

 教育がひどいといえば、韓国と中国は日本を真似たシステムを作り、日本をいっそう極端にしたような教育を作った。中国の脅威が言われるが、たいしたことはないと思う。一時的に経済・軍事大国にはなれるが、あの教育では、それを持続的に支えるだけの社会システムと文化を生み出せないだろう。競争に訴えた教育をすると、階級や閥だらけの社会ができ、闘争に明け暮れるようになるのである。

 

 クリエイティブな状態のとき、人間は「あれがまずい、これがまずい」と言っている。しかし、目は輝いている。そして「ああしたらどうだ、こうしたらどうだ」という試みをやめない。危ないのは、自己賛美の声に取り巻かれたときである。

 日本の教育制度を絶対化してはいけない。宿題とテストと点数評価は麻薬である。たいしたことはしていないのに、何かをしたような気になってしまう。

 指標にすべきは、子供の目の輝きだけである。