2019年12月02日

「ジョウという初期の城」(続 つくで百話)

落ち葉1202。 朝から雨が降り,強く降ることがありました。
 「このままでは警報が…。」と思える降り方でしたが,当地はそこまで降り続けませんでした。
 雨の被害はありませんでしたか。



 『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手三十六地獄」からです。
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    作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)
          ジョウという初期の城
 作手地方に城郭が出現するのは,いくら早くみても鎌倉末期をさかのぼるとは思われません。それから元和堰武までの四百年間が城郭存在の期間ですが,応仁の乱を境にその前と後では,城の性質も規模もかなり違ってきます。そこで私はその違いを,社会経済や兵器戦法の変遷がいかに城郭に影響を与えたかを,作手の城址について確かめてみようと思います。
 武士の城郭には,その用途から二つの系統があります。一つは平常の居館であり,今一つは戦争のための軍事拠点です。前期の城はこれを作った武士の地位が低く,その経済力も生活程度も低いため,その城は規模も小さく,人工よりむしろ天嶮にたよるところが多かったのは当然のことでした。そしてその目的も自家防衛のためのもので,後のように他を侵略するための拠点という考えは薄かったといえます。
 当時は城のことをジョウといい決してシロとはいいませんでした。これを構築することを城郭を構えるといい。決して城郭をキヅクと言わなかったのは,初期の城は地上に築き立てるというより,溝や堀を堀ったり,土をひきならす土工が多かったからです。郭の字に土扁をつけた墩,木扁の槨などという宇が用いられたのも,城郭築造の材料を示すものといえます。
 この時代の武士は,後のような軍事専門の武士ではなく,平常は田畑を耕作しており,定期的に城詰をするだけですから,近世のように城下町の必要はありません。その上この時代は騎馬戦が主で,馬の上りにくい嶮しい山の方が,守り易く,城郭としては有利でした。しかし山城に使われる山は,どんな山でもいいというわけには参りません。荻生徂来という学者の書いた「鈐録」という兵書には,山城立地法がのべてあり,独立した山を男山,尾根で他山に建っているのを女山といい,男山が優れているとします。しかしこうした男山は滅多にあるわけではなく,普通には不利でも女山を使わねばなりません。そうした場合は尾根を堀切って男山に仕立るわけで,尾根は細くて険しいほど都合がよいわけです。また近くにそれを見下ろすような高い山があるのは禁物です。
 作手でこの初期の城に属するものとしては市場の本城山と木和田・善夫の境にある城ヶ峯が挙げられます。
古宮城址1202。 本城山は市場の西北へ突出した須山々系末端に築かれた山城で,海抜六二〇メートル,麓の市場部落より高きこと七〇メートルです。頂上に周囲に高二ー三メートルの土塁をめぐらせた本丸があり,面積約三三〇平方メートル。東方に入口があり,その下に同じく土塁をもつ一〇〇平方メートルと,三〇平方メートルの郭が二段に設けられ,その下方に一条の堀切があります。本丸の南にも入口があり,外に巾四メートルの帯郭があって西方に通じ,その先に土塁をもつほぼ三角形の郭があります。ここで一番問題となるのは飲料水ですが,南側の急坂を頂上から高度差で二〇メートル程下ると,当時の井址があり,崩れてはいるが井道もどうやらたどれます。
 本丸には大正年間に建立したという大国主尊の祠がありますが,賽神城という城名の本源である賽の神は,山上からも山下からも遂に発見せずに終わりました。御存知の方は教えて下さい。塁上に立って願望すると,作手三十六地獄は一眸の裡にあり,就中武田勢の籠った古宮城は眼の下にあって,城中の動静は手にとるように見えます。その右に田園を隔てて奥平氏の本城亀山城があり,更にその向う鍋弦峠の彼方に見代城が望まれます。眼を左に転ずると長者平の長者館に近く,奥平氏最初の拠点川尻城が見え,木和田古城の城ヶ峯ははるか遠いけれどもはっきり見えます。このように本城山は,作手盆地を支配する者によっては絶好の見張台として,終始その重要性をもちつづけました。
 木和田古城は木和田と善夫の境にある城ヶ峯の山上にあり,海抜七〇七メートル,木和田部落よりは二五〇メートル,善夫部落よりは一〇〇メートルほど高い。北から南につづく尾根の突端で,峯続きの北を除く三方は急坂で,馬背のような頂上に東西一八メートル南北二七メートルの削平地があり,二段になっています。堀切もなければ土居もない,極めて素朴な小砦です。「三河国二葉松」は,奥平貞能の臣河合八度兵衛これに住すとありますが,とても人の住めるような場所ではありません。その姓からして八度兵衛は作手河合の地士であり,命ぜられてこの砦を守り,本城との連絡に当った見張役だったようです。しかし城そのものは古くから存在したわけで,奥平氏が作手の大部分を掌握すると,北方の菅沼氏に備えてかっての古塁を利用し,情報収集及び伝達の基地としました。城兵は恐らく麓の木和田城か,所在は不明だが善夫方面のどこかで起居し,交替で勤務についたと考えられます。
 ジョウという名は残っていませんが,地形と遺構から推して前期に組入れるべきものに文珠山城があります。須山の古刹金輪山善福寺の背后に聳える山上にあり,海抜六六〇メートルと賽の神域よりやや高く,周囲に幅ニー三メートルの帯郭をめぐらした,広さ三五〇平方メートルの円形の郭が一つあり,帯郭の外は急坂になっています。郭の中央には城名のよって来る文珠菩薩堂と大宝筐印塔があり,亀山城も古宮城も眼下に俯瞰され,亀山城の詰の城として活用されたことが知られます。この城は里俗に一夜城といい,元亀二年(一五七一)作手に進駐してきた武田氏との協定に基き,賽神城と同時に築くはずであったが,奥平氏の都合により着工がおくれていました。武田氏は契約不履行を難じ強談判に及んだので,奥平氏はあわてて一夜にこれを築いたといいます。しかしこれはあくまでも伝説で,居館の城と戦時に最後に立龍る詰の城とは一体のものですから,他から催促されて築くなど信ずるわけにはいきません。
 居館防備のことは,すでに上代蘇我氏が,その邸宅に柵を設け,矢倉を構えたことが史に見えていますから,その渕源は久しいものがあります。地方の豪族が領地の中に景勝の地を選び,堀を穿ち土塁を築き,柵を設けたことは当然でした。
 居館の縄張は,平地では正方形若しくは長方形の単郭で,塁線に屈曲のないのが普通です。施設については米福長者のところで触れたのでここでは再説しません。時代はずっと後になりますが,松平忠明が慶長年闇市場に築いたという米蔵の址がつい最近までありました。昭和二十八年私が初めて訪れた時には,国道三〇一号線に沿う面はありませんでしたが,他の三方は崩れながらも,その面影をとどめていました。昭和四十二年,四十七年を訪れる度に土塁は姿を消し,あと幾年も経ずして全くその姿を没するでしょうが,あれが上代の居館の姿と思って差支えないでしょう。単純なものは新と旧で,どれほどの相違もないからです。
 居館(屋敷)と居館城と,どこが違うでしょうか。近世の兵学者は塀に矢鉄砲を射る狭間があればそれは城,なければ屋敷だとしています。つまり攻撃する施設があるか,ないかが重要で,施設の大小軽重は問題でないとしています。
 さて,作手で最も古い居館城といえば,それは菅沼字前田にある菅沼古城です。下菅沼部落西方山麓に御本城という所があり,東西五四メートル南北三六メートルの地が,今は三つの水田となっています。菅沼の田園からの比高は僅々一〇メートル内外,周囲を濠と土塁で囲んだとしても,要害としては問題になりません。今は開墾で旧態は何一つとどめていませんが,古老の言を綜合すると,明治年代までは濠や土塁の一部らしいものが残っていたということです。
 城主は菅沼信濃守俊治ですが,その菅沼に興った時期も系譜も明らかでありません。正長元年(一四二八)後南朝の小倉宮寛成親王が伊勢国司北畠満雅の擁立をうけて兵を挙げた事件があります。この時宮の催促をうけた俊治が兵を率いて駆けつけてみると,既に宮と足利幕府との間に妥協が成立し,彼の出兵は徒労に終わりました。むなしく帰国した彼のもとへ,幕府の討手が差向けられたのは六年後の永享六年春で,将軍義教の命を受けた土岐興安,同頼安,その弟光政,同定直等美濃勢の総攻撃をうけ,衆寡敵せず三月二十四日討死しました。殆んど無防備に等しい屋敷城では,一溜りもなかったでしょう。彼の歿后四十年,その悲業の死を傷んだ村人によって,菅沼山楽法寺が建てられたといい,その時期を寛正年間としています。
 後年山家三方衆として名を轟かせた菅沼氏は,土着の俊治を倒し,その遺領を戦功として賜った土岐定直の系統で,寺はこの菅沼氏が罪滅ぼしに建てたのかも知れません。楽法寺は近世菅沼家の菩提寺として,寺領三石九斗(黒印)の寄進をうけています。
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