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戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(5)

2019年08月18日 | 国際政治

戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(5)
        ……日米開戦を進め亡国への道を走らせ者達

「諸君狂いたまえ」と言う吉田松陰の教えに沿って一時「狂介」に改名した程の松陰信奉者であった山縣有朋は松陰の覇権主義・植民地主義を推進する為に、日本を軍国主義国家に仕立て上げた。プロイセンのビスマルクに感銘を受け、藩閥政治を支える官僚制度と統帥権の独立を導入、更には治安維持法、天皇の神格化(国民統合の精神的中核としての現人神思想)、軍人勅諭、教育勅語等全てが軍国主義に繋がるものであった。
ビスマルクや山縣の衣鉢を継いだのは、ヒトラーや東条英機等といった一種狂的な軍人達であり、彼等がドイツ・日本を滅亡に向わせたという意味でビスマルク、山縣の罪は極めて重い。
太平洋戦争は満州事変が発端であるが、その間の事跡は下記の通りである。
…→1930年(昭5)浜口内閣がロンドン海軍軍縮会議で海軍の反対を押し切り条約調印、幣原外相協調外交、軍部・右翼・対外強硬派野党の立憲政友会から「天皇の統帥権干犯」非難、浜口首相が右翼の狙撃を受け退陣
…→1931年 第2次若槻内閣 満州事変(関東軍による柳条湖事件)、関東軍の暴走止められず幣原協調外交終焉 閣内不一致で総辞職、犬養内閣に 
…→1932年満州国建国宣言 5.15事件で犬養首相暗殺され内閣総辞職、斎藤内閣 
…→1933年国際連盟脱退    …→1934年斎藤内閣総辞職、岡田内閣   
…→1936年陸軍皇道派による2.26事件、岡田内閣総辞職、広田弘毅に組閣命令 日独防共協定締結 
…→1937年1月(広田内閣)閣内不一致で総辞職(寺内寿一陸軍大臣の幼稚な切腹論争が原因)、同月(宇垣内閣)流産(参謀本部石原・田中の軍部大臣現役武官制を悪用した策謀) (林銑十郎内閣)議会の賛同得られず総辞職、(第一次近衛内閣)成立、盧溝橋事件・支那事変(日中戦争)勃発 国際連盟日本非難決議 
…→1939年(平沼内閣)成立、ノモハン事件で日本大敗 独ソ不可侵条約締結(日本は広田内閣以降の親独政策の根拠消失)平沼内閣欧州情勢複雑怪奇として総辞職 (阿部内閣)成立、米国が日米通商航海条約破棄を通告 ドイツのポーランド侵攻(第二次世界大戦始まる)
…→1940年天皇の希望で親英米派・日独伊三国同盟反対論者の(米内光政内閣)成立 即時陸軍による倒閣運動開始(畑陸相辞任・後任者拒否) 7月(第2次近衛内閣)成立 日独伊三国同盟締結 北部仏印進駐(米英仏の中国援助ルート遮断目的) 米制裁として対日屑鉄・工業機械禁輸
…→1941年 日ソ中立条約締結(松岡外相調印) 南部仏印進駐(資源不足解消) 米国の対日制裁(在米日本資産全面凍結、石油の禁輸)英・オランダ同調、ドイツのソ連侵攻、松岡外相一転ソ連との参戦主張 松岡外しの為内閣総辞職、(第3次近衛内閣)成立・豊田海軍大将外相就任、近衛・米大統領に直接交渉を申し入れるも拒否される、 御前会議で帝国国策遂行要領決定(米と交渉するも10月下旬目途に対米戦争準備)、ゾルゲ事件に近衛の側近が関与・近衛退陣、10月(東条内閣)成立・東郷外務大臣、天皇・東条に組閣条件として国策遂行要領の白紙撤回を命じたが、東条は再検討に留める。11月26日ハル・ノート提示され、田中等陸軍参謀は、これを飲めば日本は満蒙の権益を失ってしまうので到底我慢できない。アメリカと戦えば長期戦になり勝ち目はほぼないが、ドイツ次第では万に一つの勝機があるかもしれないと軍幹部や東条政府の鼻ずらを引き回した。12月8日陸軍マレー半島、海軍真珠湾奇襲攻撃、米英に宣戦布告…→太平洋戦争

太平洋戦争の原因を作った満州事変の責任者
1931年6月、建川美次参謀本部第二部長を委員長とし、陸軍省の永田鉄山軍務局軍事課長、岡村寧次人事局補任課長、参謀本部の山脇正隆編制課長、渡久雄欧米課長、重藤千秋支那課長からなる、五課長会議が発足し、一年後をめどに満蒙で武力行使をおこなう旨の「満洲問題解決方針の大綱」を決定した。8月には山脇に代わり東条英機編制課長が入り、今村均参謀本部作戦課長と磯谷廉介教育総監部第二課長が加わって、七課長会議となった。陸軍中央部では永田鉄山、鈴木貞一、関東軍では石原莞爾、板垣征四郎によって満洲事変の準備が整えられ、一夕会系幕僚が陸軍中央、内閣を引きずって満洲事変を推進していった。
満州事変直前に、奉天総領事からの電報で軍事行動発生の情報を得た外務省が陸軍省に通報。建川が、関東軍の行動を引き留めるため奉天に派遣される。9月18日の奉天到着後に料亭で板垣征四郎ら関東軍幹部と面談するが、その夜に事変が発生。持参した大臣書簡を本庄繁関東軍司令官に渡す暇もなかった。これは、満州事変そのものが板垣と建川自身を含む参謀本部中堅の意見一致で始めたことであり。引き留める積りなど全くなく、南・陸軍大臣および参謀総長から戦闘勃発阻止を正式に命ぜられた建川は、作為的に命令の伝達を遅らせることで消極的側面支援を行ったのである。更に関東軍は朝鮮軍に応援を求め、朝鮮軍司令官・林銑十郎が独断で満州に軍隊を派遣した。(指揮者・小澤征爾は当時関東軍に深く関与していた父親が満州事変の首謀者、板垣の征と石原の爾を貰い受けて命名したとNHKの番組、「ファミリーヒストリー」で報じられた。)
満州事変は陸軍の関東軍が天皇統帥権と日本政府の統治権を奪ったクーデターそのものであり、陸軍刑法、国家反逆罪に照らし関与した人物は全員死刑、勿論陸軍上層部は監督責任を問われ懲役若しくは退役が当然である。実際には処罰するどころか賞賛し異例の昇進をさせる始末で、結果良ければ全て好しの風潮を生み、以降参謀達が政府の方針を無視し指揮官を思い通り動かして戦線を拡大する幕僚統帥が常態化し国家滅亡に邁進したのである。
1937年盧溝橋付近で中国軍と小競り合いがあり,連隊長の牟田口廉也・連隊長の攻撃命令が発端で日中戦争が始まった。(牟田口は一夕会メンバーで石原莞爾の一期後輩、多くの戦死者を出したインパール作戦責任者)
日中戦争の長期化を懸念し慎重論を唱える参謀本部作戦部長の石原莞爾に対し部下の武藤章・作戦課長、田中新一・軍事課長(共に一夕会4期後輩)が上司を無視し、中国軍は一撃で倒せると拡大論を唱え、関東軍参謀長の東条英機もこれを後押しした為日中戦争の泥沼にのめり込んでゆくことになった。石原は満州国経営をめぐり東条や軍首脳と対立し予備役となった為、極東裁判で訴追されることは無かった。
1939年日中戦争の泥沼で藻掻いていたさなか、満蒙国境でソ連・モンゴル軍と衝突,ノモハン事件が勃発した。関東軍作戦主任参謀・服部卓四郎、参謀の辻正信の二人がソ連兵力を過小評価し参謀本部と陸軍省の事件不拡大の方針を無視して戦闘を続行・拡大し2万人近い戦死者を出して大敗した。日本陸軍の北進論者の多くは、ソ連軍の実力を思い知り、以後、「日本の生命線は南方にあり」と言わんばかりの南進論者に転向、米国を敵に回すことになる。尚この事件で関東軍司令官らは責任を取らされ現役を退いたが二人の参謀は大きな処分を受けず、大本営の作戦課長や参謀に昇進、日中戦争の責任者武藤・田中も軍務局長・作戦部長に昇進していた。日米開戦時の陸軍の作戦は過去に大きな失敗を犯し日本に大打撃を与えた(作戦部長・田中)―(課長・服部)ー(参謀・辻)のラインで行われ日本を滅亡に導いたのである。
上記日本滅亡の発端となった日中戦争の首謀者の内、【永田】は暗殺され【板垣・東条・武藤】は極東軍事裁判で絞首刑(南京虐殺事件に関しては略)、【本条繁】は板垣・石原に唆され朝鮮軍の越境応援を得て政府方針に反し占領地を拡大し続けその功績で男爵の爵位を得た。又娘婿が2・26事件反乱部隊の協力者で天皇に十数回に亙り事件首謀者達の弁護をするなど事件の事前了解をしていたとみられている。戦後戦犯に指定され壮絶な自決を遂げたが、堂々と責任を取る事は無かった。
【鈴木貞一】は一夕会で石原の一期後輩、東条の取巻き「三奸四愚」の3奸の一人とされ独断で満州政策を進め、白鳥敏夫・森恪と共に国際連盟撤退論を強硬に主張、また日米開戦論の急先鋒であった。終身刑を言い渡されたが途中で釈放され、岸信介等自民党幹部と親交を深くし、A級戦犯に指定されたことのある人物としては、唯一平成まで存命し、百歳で没したが生涯責任をとる事は無かった。【南治郎元陸軍大臣】も終身刑を受け途中釈放されたが責任を取る姿勢は無かった。【林銑十郎】常に周囲の最強硬論を鵜呑みにするところがあり、陸軍部内では革新派のロボットと言われていた。無能総理、1943年(昭和18年)2月死去。勿論自身の責任に言及することは無かった。【田中新一】、宇垣内閣を流産させ日中戦争を拡大させるなど陸軍暴走の牽引役、 松岡洋右外相と提携して近衛文麿内閣を日独伊三国同盟・南部仏印進駐へと誘導、「国家総動員体制」も実現、 慎重論を抑えて南進政策を強行し、早々にナチス・ドイツとの同盟で対米英妥協を放棄、戦争ありきの強硬策を推し進め東條英機内閣に対米開戦を決断させた。 太平洋戦争の帰趨が決しても「負けを認めない」田中新一は強硬姿勢を貫き、ガダルカナル島撤退に猛反発して佐藤賢了軍務局長と乱闘事件を起し東條英機首相を面罵、前線のビルマ方面軍に飛ばされインパール作戦に関与したが失敗、終戦直前に予備役編入となり無事に生還した。東京裁判では、天皇の温存を図るGHQが統帥権(参謀本部)関連の訴因を外したことが幸いし、田中新一は起訴を免れ、1976年まで83歳の長寿を保った。
石原莞爾・田中新一は訴追を免れたが極東軍事裁判とは別に日本で裁判が行われておれば当然死刑判決が下りて余りある人物であり、その他の人物も死刑、終身禁固刑等厳罰に処すべきと考えられる。
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(6)
        ……日米開戦を進め亡国への道を走らせ者達 へ続く


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