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戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(4)

2019年07月31日 | 国際政治
戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(4)
        ……日米開戦を進め亡国への道を走らせ者達
江戸末期、幕末の日本は封建国家ではあったが学問も発達し識字率は地方も含め世界最高水準、通信網・上水道等インフラや金融・商業・家内制手工業等近代国家として世界に誇れる水準に達して居り、先進国並みの近代化へのプラット・フォームは既に出来上がって居たのである。明治維新はこの基盤に西欧の近代システムを模倣し導入したものである。
憲法制定、議会制度や近代的常備軍隊の導入、廃藩置県・身分制度の打破といった西欧型社会への大改革を行った背景には、当時日本のお手本であった文明国インド・中国が西欧列強に植民地化され搾取される状況に大きな危機感を抱き、攘夷では到底勝ち目がない、西欧列強の侵略に対抗し、さらに徳川幕府が結ばされた不平等条約を改正させる為には、「自らが西欧列強の仲間入り」をすることが最短・最良の道あると言うことに思い至ったのである。幸い大政奉還により大きな内戦には至らず欧米列強につけ入る隙を与えなかった為、文明開化、富国強兵に邁進出来たのが維新成功の大きな要因ということが出来る。ここまでは良かったが、その後の吉田松陰の思想を受け継いだ山縣有朋を頂点とする覇権主義者がその考えをエスカレートさせ道を誤った。
軍の近代化に成功を収めた日本は日清戦争で朝鮮を開国させたが,朝鮮は日本の支配を嫌い大韓帝国と改名してロシアに接近し始めた。ロシアは満州を占領、日本が清国から賠償で得た遼東半島を三国干渉で止む無く清国に返還していたが、これを租借権として確保し着々と南下政策を進めていたのである。ロシアの韓国支配の意図が明白となった為、ロシアの日本侵略に危機感を抱いた桂首相や山縣有朋は伊藤博文の満韓交換論を軟弱だと排し、ロシアの中国進出を嫌うイギリスと日英同盟を結び、米英の支援を得て1904年日露戦争を始めた。当時ロシアは人口で日本の3倍、歳入額で10倍、兵力で15倍。しかも、兵器と装備は西洋式で、陸軍は日本より遥かにハイテク化されており、まさに日露戦争は安全保障上の一か八かの大博打であった。結果は大きな犠牲を払ったが奇跡的に勝利し、1905年9月のポーツマス条約締結で、日本は韓国の保護権が承認され、ロシアからは南樺太、「南満州鉄道の利権、旅順・大連の租借権」を得ることになった。 更に韓国に対しては此れに留まらず軍事圧力を加えて幾つもの条約を結ばせ1910年の韓国併合条約で植民地化を実現した。これ以降韓国は日本の一地方として朝鮮と呼ばれることになったが抗日運動が絶えず前の韓国統監伊藤博文が1909年、満州のハルビンで韓国の独立運動家安重根により暗殺された。
伊藤博文は「満州に於ける日本の権益はポーツマス条約でロシアから譲り受けた満鉄と遼東半島の租借権だけであり満州は日本の属国ではない。条約には「満州では清国の主権を認め日露双方は撤兵し、満州の活動は各国平等とする」となっている。これを無視して満州に軍を駐留させ独占的な運営を行った為に日本の支援者であった英・米は日本に不信感を抱き猛烈に抗議を始めた。伊藤博文は米英と協調路線を主張し、両国との満州共同経営も考えるべきであると主張していた。これに対し日露戦争開戦強硬論であった陸軍参謀総長・児玉源太郎,山縣有朋、桂首相、寺内正毅等陸軍軍閥や小村外相等が反発、伊藤暗殺の不穏な声すらあったと伝わっている。暗殺・謀略,国の器は近代化されたが指導層の人間の意識は幕末と何ら変わっていなかったのである。
伊藤博文の死を契機に山縣有朋の推進する軍事大国化、覇権主義に歯止めがかからなくなり満州事変、日中戦争、太平洋戦争に繋がって行くことになる。
日本の真珠湾攻撃、多くの外国人が常識では考えられないと言うような日本歴史最大の愚挙によって多くの生命・財産を失わせ、国民の多くを不幸の存底に突き落とし滅亡への道に突き進んだ。その原因は①日清戦争や安全保障の為に始めた日ロ戦争で得た賠償金や権益等が軍や多くの国民の領土拡大の野心に火を付けたこと。又無謀な戦術で如何に多くの犠牲を払っても軍功さえ挙げれば出世の道が開けており貴族への道も夢では無いという悪しき風潮を軍上層部・指揮官の間に根付かせたこと。
②岩倉使節団のメンバー伊藤博文等が普仏戦争に勝利したプロイセンのビスマルク首相が唱える「国家の統一に必要なのは、鉄と血、つまり兵器と兵士である。万国公法より力である」と言う理論に感銘を受けドイツ帝国の君主制を真似て大日本帝国憲法を策定した。この明治憲法よって山縣有朋が軍事国家への道を開くのを容易にしたのと、日本の政治に統帥権の独立という最悪の統治システムを導入することに繋がった。 この統帥権の独立によって陸海軍は内閣や国会の意向を無視して行動する自由が与えられた。 「天皇の命令以外では軍隊を動かせない」というこのシステムは、一方で「君臨すれども統治せず」という天皇の権能と矛盾しており結局首相や陸軍大臣・海軍大臣などは軍の作戦などに口をはさむ余地がなく天皇の権威を悪用して「陸軍・参謀部」、「海軍・軍令部」及びその両者から成る大本営がその権限を握るという結果になった。陸軍の暴走の真因は統帥権の独立に存在したのである。
③ 5.15事件、2.26事件が発端となって軍の若手将校による政府要人の暗殺の空気が俄かに強まり、無法地帯の様相を示し始めた。多くの財界人や政界・官界の要人暗殺が相次いだ。統帥権と言う伝家の宝刀を悪用し、頭に血が上った無能な佐官クラスの軍人が国の運命を決める重要事項を差配し、政治家や軍の上層部までもが暗殺を恐れ、これにブレーキをかける強い政治力を発揮できる者がいなくなった。 
以上のような状況の中で陸大出身の過激な将校を中心に陸軍は政府方針を無視し満州に侵略、その権益保持を図るために日・中戦争に没入することになる。中国の戦力を軽視して始めた戦争であるが、その背後には米・英・仏・ソ連(当初はドイツも)の支援体制が出来上がっており戦争は泥沼化した。戦争を決着する為には彼らの支援を断ち切る必要があり、最悪の選択と言われる「日・独・伊3国同盟」を利用してアメリカを牽制しようとしたのである。白人至上主義のヒトラーにとって日本は第一次世界大戦に於いて空き巣泥棒のような行動で自国ドイツの支配地を奪った敵対国であり、黄色人種と蔑む相手と同盟を結ぶことは「勝つ為の悪魔との握手」であると迄言わしめている。
元々岩倉使節団のビスマルク信奉に始まり日本にはドイツ賛美者が多く政府や軍の幹部にはドイツ留学生が多くいた。三国同盟や日米開戦の強硬推進論者の殆どはドイツ経験者で、ヒトラーの本質を見破り、ドイツの戦況が日増しに悪化するのを冷徹に判断する有能な人間の声が無視されるような状況になっていたのが日本の悲劇あった。元々ソ連を牽制する為に結ばれた日独防共協定が紆余曲折を経てアメリカを念頭に置く三国同盟に変質したのはヒトラーの策略によるものである。ヒトラーはアメリカの欧州参戦を阻止するために、アメリカをアジアに釘付けにしようと日本を利用したもので、まんまとその術策に乗せられアメリカと戦争せざるを得ない状況に追い込まれていくのである。
アメリカを硬化させたのは1938年の近衛首相の行った「東亜新秩序声明」である。この声明で日本による欧米植民地の解放と中国・満州との連携を明確に打ち出した。後の「大東亜共栄圏論」のさきがけと成るものでアメリカの対日不信感を増幅することになった。日本の経済的弱点を熟知していたアメリカは経済制裁に打って出た。1939年「日米通商航海条約の破棄」を通告して来た時点で鉄鉱石・石油の7割、兵器を作る工業機械の6割がアメリカからの輸入でアメリカ無しでは国も軍も維持出来ない状況だった。
それにも拘らずアメリカに譲歩する事もせず、ドイツがイギリスを破ればアメリカは戦意喪失するだろうという全く根拠の無い夢物語に希望を託してアメリカが極度に嫌うドイツと1940年「三国同盟締結」に踏み切ったのである。この時点でドイツの対ソ戦線は敗北に傾きかけていたのは前回ブログのとおりである。しかし兵士・国民の命を預かるドイツ信奉者にはドイツが破れ崩壊するなどという状況は全く念頭になく、危機管理能力皆無の状況であった。結果的に見てドイツとの三国同盟は日本にとってメリットは皆無、大きなマイナスだけが残ったのである。
アメリカの輸出規制で資源不足に陥っていた日本は資源を求めて南部仏印(現ベトナム周辺)に進出、この二つがアメリカを更に刺激し、在米日本資産の凍結と石油の輸出停止に踏み切りイギリス、オランダもこれに追随した。軍の早期開戦論に対し政府南部仏印進出以前からルーズベルト大統領の友人であった野村吉三郎駐米大使を交渉役に立て「中国への支援停止と輸出制限解除」を求めて和平交渉を行ってきた。交渉相手の米国はハル・国務長官、「日本の三国同盟破棄と中国大陸からの撤退」を求め交渉が行われてきたが業を煮やした日本軍部はアメリカを甘く見て、交渉途中であることも無視し、源確保を目的に南部仏印(現ベトナム周辺)に進出、アメリカにとって「最後の一線」を超えてしまうことになった。アメリカの対日感情は一挙に悪化し、在米日本資産の凍結と石油の輸出停止に踏み切りイギリス、オランダもこれに追随したのである。日本軍部の再度に亙る見通しの甘さが最悪の結果を招く事になったと言うことが出来る。
当時日本は日中戦争で一日1万2千トンの石油を消費しており此の侭では座して死を待つのみ、早期対米開戦しか道が無いという強硬論に対し若干の譲歩案で期限付き対米交渉による戦争回避に希望を託したが1941年11月アメリカからハルノートが提示された。①南部仏印を含むアジアからの無条件撤退、②アメリカが支援する中国国民党のみの承認 ③三国同盟の破棄を含む10項目の要望、この要望の受け入れを条件に輸出の再開と経済制裁を解除する、というものであった。中国大陸を満州事変の前の状態まで巻き戻せと言う要望は満州を日本の生命線と考える陸海軍若手参謀を一挙に強硬論に走らせ、政府や軍の一部上層部にもこれを阻止する力が無く、日米開戦・真珠湾攻撃に突き進むことになった。

戦争責任(10)…太平洋戦争の原因は日本の中国侵略にあり…(5)
        ……日米開戦を進め亡国への道を走らせ者達
太平洋戦争の開戦から敗戦までの戦闘経過は下記の通り。日中戦争、真珠湾奇襲、シンガポール攻略、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島争奪戦、アッツ島、タラワ島、サイパン島、硫黄島の死闘、マリアナ沖とレイテ両大海戦、最後の沖縄大決戦 
この間の亡国の責任者はだれか。極東軍事裁判の結果も踏まえ検証したい。

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