応仁の乱以降の畿内史

日本史上最高に面白い時代を特集します

応仁の乱以降の畿内史  
 
「応仁の乱以降の畿内史」へようこそ。このブログでは、応仁の乱が終結してから室町幕府が滅亡する100年の間に着目し、この複雑で実に興味深い時代をまとめて解説しています。

最終更新:2019年8月5日

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第一章 応仁の乱終結(1477)~明応の政変(1493)
 
 概要
  応仁の乱が1477年に終結すると、足利義尚が将軍に、畠山政長が管領に就任しました。ところが義尚も政長も大きな力を持てず、実権は細川勝元の子、細川政元や日野富子が握ります。政元はさらに政長の力を削ごうと山城国一揆を引き起こしたり、義就を支援したりしました。1489年に義尚が死んで足利義材が将軍になると両者の立場は逆転し、今度は政長が権力を握ります。しかし細川政元は1493年に明応の政変と呼ばれるクーデターを起こして政長を殺害し、義材を監禁してしまいました。新将軍には足利義澄が擁立されています。

 第一回 応仁の乱以降の畿内史
 第二回 応仁の乱の結果
 第三回 足利義尚と長享の乱
 第四回 足利義視の一生
 第五回 畠山家と河内争奪戦
 第六回 山城国一揆と畠山政長
 第七回 明応の政変と延徳の乱
 第八回 室町前期の天皇家
 第九回 本願寺と蓮如
 第十回 水墨画とやまと絵と狩野派

第二章 明応の政変(1493)~細川殿の変(1507)

 概要
  明応の政変で監禁された足利義材は側近の助けを得てひそかに脱出し、越中に逃れました。これを受けて、義材の反撃に備えるためとの口実で政所執事の伊勢貞宗が山城国一揆を解体、山城を自らの領国にしてしまいます。実際に義材は反撃を試み、結局敗れて周防へ落ち延びています。一方、将軍義澄の下での実力者細川政元は政治に興味を失って魔法の修行に没頭し、天狗の真似などの奇行が目立つようになっていました。同性愛者であった彼は三人の養子を迎えていますが、これが災いして養子の一人、細川澄之に修行中を襲われて暗殺されてしまいました。
 
 第十一回 山城国一揆の崩壊と大和国人衆
 第十二回 畠山尚順と越中公方
 第十三回 阿波細川家の不穏
 第十四回 政所執事伊勢家
 第十五回 細川政元の奇行
 第十六回 明応・文亀・そして永正へ
 第十七回 細川政元、死す
 総集編1 細川政元の一生

第三章 永正の錯乱(1507)~等持院の戦い(1520)

 概要
  細川政元が殺害されると三人の養子が家督を巡って争います。その混乱をついて、前将軍足利義材が大内義興を引き連れて上洛しました。この大内軍が非常に強力であったため、最終的に養子争いは義興と同盟した細川高国の勝利となり、足利義材も将軍に返り咲きます。その後10年ほど大内軍は京都に滞在して義稙(義材)と高国の安定政権を支えました。しかし彼が帰国すると早速政元の養子・細川澄元が反撃を開始します。高国は辛くもこれを打ち破りますが、一時澄元を支援した足利義稙と対立し、義稙は阿波へ追放されて義澄の子の足利義晴が新将軍になりました。

 第十八回 永正の錯乱
 第十九回 細川澄元の反撃
 第二十回 船岡山合戦
 第二十一回 日明貿易と抽分銭
 第二十二回 大内義興
 第二十三回 等持院の戦い
 第二十四回 足利義稙・畠山尚順の死
 総集編2 足利義稙の一生

第四章 高国独裁(1520)~天文の錯乱(1536)

 概要
  独裁をひいた高国ですが、讒言で重臣を殺害したことがきっかけで政権は内部分裂を起こし、結局澄元の遺志をついだ子の晴元に敗れて将軍義晴とともに近江へ逃れます。細川晴元は空白となった京都には入らず、義晴の兄・足利義維を将軍として堺に疑似幕府を立てました。高国はこの堺幕府に対して反撃を試みますが、あと一歩というところで敗死してしまいます。すると残された足利義晴のもとに細川晴元自身が帰参し、堺幕府を支えていた同盟者達と対立するようになりました。晴元は本願寺の力を借りて堺幕府を滅ぼしたのですが、勢いづいた一向一揆は畿内で大いに暴れまわり、法華宗や延暦寺、興福寺を巻き込んだ宗教戦争に発展してしまいました。
 
 第二十五回 本願寺の改革
 第二十六回 高国政権の平和と陰り
 第二十七回 桂川浜の戦い
 第二十八回 川勝寺口の戦い
 第二十九回 高国派の反撃
 第三十回 大物崩れ
 第三十一回 大小一揆
 第三十二回 飯盛山城の戦い
 第三十三回 天文の錯乱
 第三十四回 天文法難と延暦寺
 第三十五回 狩野派の大成
 総集編3 木沢長政

第五章 天文法華一揆(1536)~東山霊山城の戦い(1553)

 概要 
  長かった宗教戦争が終わって落ち着いたかと思うと、今度は晴元の家臣の反乱が頻発します。また高国の残党もゲリラ活動を続けていたため、畿内が平和になることはありませんでした。そして1548年、家臣の三好長慶が反乱軍に加わると晴元の政権は耐え切れずついに崩壊し、晴元は将軍足利義輝を連れて近江へ逃亡します。三好長慶は京都に入って専制政治をひきました。好戦的な性格の義輝は京都を奪還しようと三好軍に戦いを挑み、日本で初めて鉄砲を実戦に使用したり、暗殺魔となって畿内を混乱させたりしますが、結局敵わずに近江の山奥、朽木に追いやられました。この過程で細川家は没落してしまいます。

 第三十六回 天文の錯乱後の畿内周辺
 第三十七回 太平寺の戦い
 第三十八回 鉄砲伝来
 第三十九回 舎利寺の戦い
 第四十回 江口の戦い
 第四十一回 中尾城の戦い
 第四十二回 暗殺者義輝
 第四十三回 キリスト教伝来
 総集編4  六角定頼
 第四十四回  細川氏の没落

第六章 東山霊山城の戦い(1553)~永禄の変(1565)  

 概要
  将軍を追い払った三好政権は幕府の業務を継ぎ、その影響力は全国に及ぶようになります。領国は畿内全域に周辺を加えた10か国にも膨れ上がり、一族や有力家臣による軍団によって統治されました。三好政権は5年ほどの最盛期を誇りますが、何度も裏切りを繰り返した足利義輝と和睦し、一族の死や六角・畠山との戦いが相次ぐと徐々に衰退へ向かいます。それでも当主の三好長慶が生きているうちはよかったのですが、彼が死ぬと各地の軍団は独立し、また足利義輝は殺害されてしまいました。


 
第四十五回 三好一族と家臣団
 第四十六回 丹波遠征・播磨遠征
 第四十七回 三好政権の最盛期
 第四十八回 畠山尾州家内乱と河内遠征
 第四十九回   正親町天皇と宗教
 第五十回   六角義賢の本気
 第五十一回  天下分け目の教興寺
 第五十二回  三好長慶の死
 第五十三回  永禄の変

第七章 永禄の変(1565)~槙島城の戦い(1573)



 概要
  足利義輝亡き後、義維の子・足利義栄が14代将軍に擁立されました。一方で義輝弟の足利義昭も将軍職を狙い、まず六角、次いで朝倉、織田を頼ります。折しも三好家が三好三人衆と松永久秀とに分かれて内紛を起こしていたため、織田信長・足利義昭は松永久秀と組んで京都に進出しました。長慶死後に分裂していた三好勢力は畿内から一掃され、信長は難なく畿内を制圧します。これに対し、警戒する諸大名は信長包囲網を形成しますが、敗れます。足利義昭は二度目の包囲網に加わったために信長の攻撃を受け、京都を追われました。こうして室町幕府はついに滅亡したのです。

   第五十四回 三好家の分裂と足利義秋
   第五十五回 松永久秀の反撃
   第五十六回 織田信長・足利義昭の上洛
   第五十七回 第一次信長包囲網
   第五十八回 第二次信長包囲網
   第五十九回 室町幕府の滅亡
 

第八章 槙島城の戦い(1573)~本能寺の変(1582)

 
概要
  織田信長に京都を追放された足利義昭はまず紀伊国へ、続いて毛利家の領地である備後国に入りました。元々織田家と同盟して三好家に対抗していた毛利家はこれを機に織田家と敵対し、対する三好家が織田信長の傘下に収まって四国で三好家と対立する長宗我部家は反織田となりました。さらに義昭の働きかけで上杉謙信まで反織田陣営に加わって、第三次包囲網が成立します。信長は各地の軍団を用いてそれぞれ対処していきますが、あと一歩及ばずに本能寺で死んでしまいました。

 第六十回 織田と武田・本願寺の戦い
 第六十一回 信長・天下人へ
 第六十二回 欠番(訂正予定)
 第六十三回 長宗我部元親と阿波国
 第六十四回 第三次信長包囲網
 第六十五回 上杉謙信と手取川の戦い
 (第六十六回から第七十一回は赤松の歴史)
 第七十二回 播磨戦線
 第七十三回 織田家臣団
 第七十四回 本能寺の変


第九章 本能寺の変(1582)~関ケ原合戦(1600)

 概要
  信長の死後、光秀を倒した羽柴秀吉と重臣の柴田勝家が権力をめぐって争い、秀吉が勝ちました。柴田勝家と結んでいた足利義昭はついに復帰の道をあきらめ、京都に帰還しています。その後、小牧・長久手の戦いで徳川家康と和睦した秀吉は紀伊・四国・九州・関東を次々と制圧し、天下統一を果たしました。秀吉は豊臣姓を名乗り、将軍より上の関白・太政大臣にまで昇り詰めています。秀吉の死後に関ケ原の戦いが発生し、徳川家康が勝利しました。

 第七十五回 山崎の戦い 
 第七十六回 賤ケ岳の戦い
 第七十七回 小牧・長久手の戦い
 第七十八回 紀州・四国・九州征伐
 第七十九回 小田原征伐と天下統一
 第八十回 検地・刀狩
 第八十一回 朝鮮出兵
 第八十二回 関ケ原の戦い

第十章 関ケ原合戦(1600)~大阪の陣 (1615)


番外編
 番外編1 偏諱と通字 
 番外編2 元号 
 
 赤松・尼子の歴史
 第六十六回 赤松の歴史1
 第六十七回 赤松の歴史2
 第六十八回 尼子の歴史1
 第六十九回 尼子の歴史2
 第七十回 尼子の歴史3
 第七十一回 赤松の歴史3
 
書評
 戦国三好一族 今谷明著
 応仁の乱 呉座勇一著

ゲーム
 戦国史FE  

本能寺の変から一か月弱が経過した六月二十七日、柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・羽柴秀吉の四名による清須会議が催されました。彼らは織田家の後継を、対立する信雄か信孝ではなく、信忠嫡男の織田三法師秀信とすることで合意し、秀吉は光秀討伐の功によって新たに河内・山城・丹波を勢力下に収めました。また信雄には尾張国、信孝には美濃国、勝家には越前と北近江、長秀には若狭、恒興には摂津が与えられています。

Battle of Shizugatake.jpg
賤ケ岳の戦い合戦図
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明智光秀肖像画

天正十年の六月二日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に宿をとっていた織田信長を明智秀満率いる軍勢が襲撃し、次いで旧幕臣の伊勢貞興が嫡男の織田信忠を二条城で自害に追い込みました。近江では明智家臣の阿閉貞征・京極高次が羽柴秀吉の長浜城や丹羽長秀の佐和山城を落とし、美濃の安藤守就、丹後の一色義定、若狭の武田元明も呼応して兵を起こしました。
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