・・・夜中に猫が、虹色に照らされて唖然としてるのが、シュールで可愛くて、笑っちゃいました
光目覚まし時計、使い始めました。
朝6時に起きるとするじゃないですか?そうすると、5時30分にやや暗めの光がつくわけですよ。そこから徐々に光が強くなって、6時ちょうどにバカでかい鳥の鳴き声が鳴ります!!いや、このボリューム下げられないんかーい!?と・・
音の種類は色々選べるけど、ボリュームは変えられないんだって。
光と自然の音で、快適な目覚め・・・のはずなのに、音を聞きたくないがために早めに止めてしまうという・・・。違う意味で目覚ましになるけど。
〜1月の読書日記~
「子どもたちは夜と遊ぶ」 (辻村深月/講談社文庫)
辻村深月作品には、毎回あっと驚かされるので、今回こそ騙されまいと、常に疑りの目で読んでいたのだけど・・・またもや、まんまと騙された!
海外留学を賭けた、大学の論文選考で、ぶっちぎり通過した天才「i」。しかしその正体は分からないまま、2年後、「i」は恐ろしい連続殺人の幕を開けてしまう。
すごく長い長い、1000ページくらいある小説で、離れがたいキャラクターたちでした。でも、後々のネタバレのために伏せられてる部分があって、なかなかのもやっと感で読み進めました。まだ理解できてない部分が多いです
主軸の一つである、「木村浅葱」のキャラクター・・ネタバレになってしまいますが、
女性もうらやむ美しい容貌の浅葱。彼は時に冷酷に、時に憔悴して犯罪に手を染めるのですが、その悲惨な生い立ち、ネットの中でしか会えない「i」、卓越した頭脳・・といった背景から、二重人格ではないかと思い始めていました。二重人格といっても、浅葱と、浅葱が生み出した、優しい兄「藍」と、それらを客観的に見る「木村浅葱」がいるような・・・何とも複雑で、私にはなかなか理解できないところでした。
また主軸は別にあって、一見オシャレ盛り盛り、明るい女の子「月子」ね。歪んだ友情に心乱されるくだりは、切なくなりながら読みました。美人でお嬢様な「紫乃」の描き方は、ちょっと意地悪で、えげつない。友達よりも、ほんのちょっぴり勝っていたい・・・言葉巧みに月子を貶め、自分の優位を保とうとする紫乃は、大人っぽく見えてもまだまだ子どもなんだ。
「ぼくのメジャースプーン」に登場していた、あのお姉さんが月子ちゃんだったのか!と、気づいてからは、ますます目が離せなくなる存在でした。と同時に、秋山先生のこともさらに深く掘り下げて描いてくれていて、嬉しかった。秋山先生は、ゆったりと構えて何でも俯瞰で観ることができて、感情的にならない「大人」。子どもたちの行き過ぎた鬼ごっこを、分析できた彼は、辻村深月さんの究極の理想なのか、作者として、悲惨な状況設定に降ろした、非力な神なのか、私は想像してみるのです。
だから秋山先生が、たまに見せる静かな怒りや、温かさがいちいち琴線に触れるのかも。とても魅力的なキャラクターです。
相変わらず、私の中では、老けた内野聖陽さんですが・・。
浅葱君があまりに救われないので悲しい。でも、哀しい美青年という設定は今も昔も、女性の心をつかむのでね。
「戯作三昧」 (芥川龍之介/新潮文庫)
やたらと注釈が多い!短編集。例えば一番目の
「或日の大石内蔵之助」では17ページの短編で、60個の注釈!しかも、読んでもピンとこない人物で戸惑う
赤穂浪士の大石内蔵之助ね・・・。!仇討ちという美談が一人歩きする中、複雑な胸の内が描かれている。
「戯作三昧」・・・。今度は江戸の戯作者、滝沢馬琴が主人公である。
そして滝沢馬琴の憂鬱が、芥川龍之介の憂鬱とかぶっている。
創作の疲れ、芸術への周りの理解の乏しさ、アンチの存在(気にしないように思っても、けっこうくよくよしちゃう)、原稿の催促がわずらわしい、他の芸術家との比較や劣等感。それから「改名主どものはびこる世の中が心細いのです」という文には、芥川龍之介本人の憤りと、文字通りの不安が宿っているように感じます。
改名主というのは、いわば「改ざん」・・都合の悪い事を書くのは規制されるのです・・YouTubeの現代をも予見していたかのような芥川先生。
・・しかし、この憂鬱な馬琴に、ふと「おりてくる」瞬間が訪れる。「この感激を知らないものにどうして戯作三昧の心境が味到されよう」・・・書ける事の至上の喜びをも、馬琴を通して語ってくれているようでした。「おりてくる」感覚、分かりますよ、芥川先生!冷蔵庫の残ってる食材でいい感じに献立決まった時の主婦の快感ですよね!?(←絶対違う)
「開化の殺人」・・・ 古文調の趣がとても素敵な「開化もの」の一つ。
ドクトル北畠の独白遺書という形で、読者が読むことで、劇中劇というか2段階にタイムスリップするような効果。
衝撃の遺書の内容。
16歳のとき、まだ10歳の少女だった明子に恋に落ちた。(早くない?)
“紫藤の下の明子”をずっと心の灯火に、恋い焦がれている。まるで光源氏が紫ちゃんを思う状況にそっくり・・・。
21歳、ロンドンへ留学するよう父から命じられる。
3年後、帰国した時には、恋しい明子は、銀行頭取・満村恭平の妻になっていた。残酷で最低野郎な夫なので、心配やら悔しいやら。
キリスト教の教えに触れて、何とか踏みとどまっていた恋心だが、明子がひどい目に遭わされていると知り、爆発・・!
医師という立場を利用して、巧妙に毒殺してしまう。
明子を解放した満足感・・然し明子は・・・自分の友人・本多子爵と元々いいなずけで相思相愛だった!ああ、哀しい。愛する人の幸せを望む気持ちと、嫉妬が交錯する。
次第に、子爵への殺意が芽生える自分が、きっと怖くてしかたないんだと思う
「かの『丸薬』の函は始終、予の恐る可き誘惑を持続したり」
函は箱のこと。予は一人称、自分。
・・そして「予が子爵を殺害せざらんが為には、予自身を殺害せざる可からざるを」・・・こういう古文の否定の否定みたいなやつ苦手〜
まあ、子爵を殺さないためには、自殺するしかない・・ところまで追いつめられたということでしょう。
こういう思い切りドラマチックなのもお書きになるんだぁ・・と、振り幅に驚きます。
「枯野抄」・・・場面は元禄時代の大阪。俳人・松尾芭蕉の病床、次々と門弟たちが看取るというところ。
これはもう…夏目先生の最後をまんま描いてるんでしょう??
松尾芭蕉と夏目漱石を重ねている表現、いくつか見られます。
・「うす痘痕のある顔」→夏目漱石も顔の痘痕を気にしていた。
・ともに優れた文人で、多くの門弟に慕われた
・芭蕉の木は、漱石宅の庭に植えらていて、漱石山房のシンボルとも言える
・・・単に場面を重ねただけではなく、芥川自身も含めた門弟たちの心の機微をも描いてるようで、ある意味問題作だと、私は勝手に思うんですけど
「愈(いよいよ)という緊張した感じと、一種の弛緩した感じ」→集まったみんなの中に無言の共通認識?どこかきまりが悪い。
師の昏睡状態を前に、ただ悲しいだけではないことの後ろめたさを感じるのは、本当によく分かるし、そこまで自分を追い詰めなくてもいいのに・・・と思った。心中の複雑さを、それぞれの門弟たちの内心を描くことで、さらに掘り下げている。
木節▶「今生の別れとはさぞ悲しいものだろうと想像していたが、いざとなると冷淡に澄み渡り、むしろ嫌悪の気持ちを持っている」自分に動揺。いや、嫌悪ってあれですから、死を嫌悪するのは人間の本能ですから、多分。そんな責めないで~。
去来▶師匠の重病をきいてから、すぐに駆け付け、見舞いや手伝い、病回復の祈祷など進んで引き受けた。しかし周囲の目に、自分がそういう師想いできちんとした人物と印象づける、自己満足ではないか?
真面目で道徳的に潔癖な彼は、震え、涙まで出てしまう・・・ちゃんとやってるのに、自己肯定感が低い分からんではない・・・。
東花坊▶「自分たち門弟は皆、師匠の最後を悼まずに師匠を失った自分たち自身を悼んでいる」・・・もう、やめてあげて〜
惟然坊▶師匠の次に死ぬものは、自分?殆ど、無理由に近い恐怖。
丈艸▶どのキャラクターにも芥川の気持ちが反映されているとは思うけど、この人物こそ一番芥川なのではないか?
限りない悲しみと安らかな気持ち。「師匠の魂が虚無の生死を超越して常住涅槃の宝土に還ったのを喜ぶ」・・・という美しい文章が、それを感じます。
「芭蕉の人格的圧力の桎梏に、空しく屈していた彼の、自由な精神」の解放。ドキッとするね。夏目漱石の弟子と言われるのは、嬉しくもあり、重くもあったのかな・・・。
「開化の良人」・・先ほどの「開化の殺人」で、明子と結婚した本田子爵が、美老人?となって登場。語り手と読者を、明治初期へと導く過剰演出は、たまらない
語られる人物は「三浦直樹」。本多子爵の仏蘭西帰りからの友人。資産家。少し体が弱い。読書好きで、あまり社交的ではないが、模範的な開化の紳士という表現。
三浦直樹の結婚観→「僕はアムール(愛)の無い結婚はしたくない」と、独身を貫いていくかと思われた。
しかし、本多の海外赴任の間に、まさにアムールの相手ができた、と結婚!
画家に肖像画を描かせるほど、愛していた、美しく聡明な妻・勝美。・・・でもでも、本多はなにか不穏なものを感じ取る。「なぜ三浦はあんなダリラと離婚しないのか?」・・・ダリラとは、聖書にも登場する妖婦。
後々、本多の察した通り、二人は離婚していた。
三浦は、自分が病弱ゆえに、妻の不貞に目を瞑ってきた。「それはそれで純愛なら、僕は潔く」・・・という気持ちで。
けれど、勝美とその周辺のだらしない関係を知るや、「僕の理想は粉砕した」
愛を信じた結婚の破たんと、時代の急流を重ねたと思われる作品でした。「今日、我々の目標にしている開化も、百年の後になって見たら、やはり子どもの夢だろうじゃないか」
「舞踏会」・・鹿鳴館の華麗な舞踏会の描写が際立つ、ロマンティックな作品でした。
「秋」・・才媛の信子は、周囲の誰からも、いとこの俊吉と結婚するだろうと思われていた。多分、自分でもそう思っていた。
だけど、信子は大学卒業後、商事会社に勤務、その後、別の男性と結婚してしまった。
実は、妹の照子が俊吉に思いを寄せていると知り、信子は身をひいたのだ。
結婚した信子は、妹からの詫びの手紙をずっと大事に持ち続けている。
旦那様は優しく上品で、日曜ごとに一緒にお出掛けするような、いい感じの夫婦生活が続く・・ただ、学生時代の夢だった長編小説を思うように書けないのが悲しい。
不景気のせいか、時々、旦那様も機嫌が悪くなる。
そんな折、とうとう妹・照子と俊吉が結婚する。信子・微妙な感情・・・。
久しぶりの3人の再会。気兼ねない仲の3人として、楽しい一方、姉妹の間にわずかにわだかまりが垣間見える。
姉から妹へは、もしかしたらどこかで、自分が俊吉を譲ったけど、自分はまだ愛されているという、上から目線が見えはしないか?そして、自分は幸せなんだと、妹に思わせたい・・・みたいな。
妹から姉へは、まだ私のこと恨んでるかしら?お姉ちゃんは幸せかしら?みたいな。
何も確証も無い、ただの想像、傍から見たら、仲良し姉妹、仲良し夫婦・・。でもその複雑な心模様は、秋という季節と相まって、読み手の想像をかきたてもする・・と思いました。
「一塊の土」・・・これは、ちょっと衝撃でした!20ページほどの短い中に、私はず〜んと引き込まれ、読み終わった時には、時も場所も一度リセットされたぐらいの、深い潜り方だった・・・。
主人公はお住さんという。
長い事、病の淵にあった息子が亡くなったところから物語が始まる。
お住の気がかりは、嫁のお民が今後どうするかだ。幼い孫も一人いる。
できればお民に新しく婿をとって、安泰に暮らしたいが、お民が孫を連れて出ていったら困るなぁと思っている。
え〜、息子が亡くなって婿をとろうと思うのか~!と驚いたけど、そういう時代だったのかも知れないし、家を存続させるのが大事なのかも。
お民は、今後も同居を続けたいと申し出てくれて、とりあえずホッとするが、再婚することだけは頑として拒否し、男並みに野良仕事をこなす。
かつては義母と嫁ということで整っていたパワーバランスが、覆されていく辺りは、怖いものがあった。
「お民は愈(いよいよ)、骨身を惜しまず、男の仕事を奪い続けた」というところに、ちょっと皮肉が込められてるような・・・。
お民が、働き者の評判のお嫁さんになっていくにつれて、お住は孫の面倒と家事とに追われ、自分から家にいてほしいと言ってた手前、何も口出しできないようになっていった。芥川龍之介は、女性の権利解放運動的なことに、別に反対ではないとしても、あまりに権高に言われるのは辟易していただろうと思う。
男女平等って、シンプルにお互いを尊重すれば良いのに、いつの間にか対立構造にされてるじゃんね~。
男性並みに働いて、どうだ!と能力を見せつけるお民は、社会のヒーローなのかも知れないけど、女性本来のたおやかさ、癒しを離れてぎすぎす。可愛くない
…物語は、急展開。丈夫自慢のお民が、腸チフスに罹って急死してしまうのだ。
もう、これで自分を押しこごめる圧力は無いのだとホッとする一方、息子に続き、またしても縁ある者の死を悼めない自分の情けなさに、涙する。働いて働いて、お民の得たものって結局何だったのか・・・。とても考えさせらる話でした。
他にも素晴らしい話が収録されています。短いストーリーの中に、深く壮大なテーマを凝縮させる、芥川龍之介の凄さを改めて知った気がします。
「不機嫌は罪である」 (齋藤孝/角川新書)
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・・タイトルを見て、ぎょっとしました。今日の私、不機嫌じゃなかったかな?ドキドキ。
と思ってたら、不機嫌な娘が帰ってきたけど・・・
「現代日本は無数の不機嫌が蔓延し、社会の空気を淀ませ、全体のパフォーマンスを低下させている」言い得て妙ですね。
著者は「不機嫌にはもはや何の力もない」と述べています。
☆若い人が傷つきやすくなった▶核家族化が進んで、大人に叱られる機会が減った。大人からきつい言葉を言われると委縮してしまう。・・まあ、若くなくても委縮しますけどね。悪くすると、SNSで拡散されてしまう・・・怖い時代になりました。
☆心理的安全性▶アメリカとアジア8か国の調査「仕事をする上で大切なもの」、日本以外は賃金重視なんだけど、日本の1位は「良好な職場の人間関係」なんだって。そりゃ、私もそー思うわ。
・・・というような事を踏まえて、協調、調和が大切と言われる今後の社会で、いかに上機嫌が大切か、上機嫌でいられる方法とは何かを教えてくれる本です。
この本の中で、印象的だったのは、やはりSNSへの危惧だった。「ネット社会がもたらした新しい不機嫌」と表現し、誹謗中傷の場となっているコメント欄を「傲慢な裁判官だらけ」と評している。確かにそうだと思う。
有名人を引きずり落としたいとか、歪んだ正義感はシャーデンフロイデ効果とか呼ばれてね、気を付けないと誰でもそういう、非難したい欲望に駆られる。人はそういう脳を持ってるんだから、しょうがないけど、当面、こういう現象は続くだろうから、SNSと適度な距離をとることも大切なのだろう。「精神面を人類全体で上げていかなければならない時代」・・←この表現、好き。
それともう一つ、不機嫌が知的で威厳があると勘違いしてる人、今すぐやめてください(笑)・・・旧時代的な家父長制、徒弟制度のなごりをいつまで続けてるんだ・・って。不機嫌が許されるのは、一握りの天才と、幼児だけですって。
著者の齋藤孝さんは、いつもニコニコご機嫌なイメージだけど、意外にも若い頃は不機嫌をまき散らしてたんですって。でも、その失敗から得られたことを、こうして本にも書けるんだから、なにが糧になるか分かりません。
私も不機嫌にならないよう、気を付けようと思いました。
でも家だと、娘と不機嫌をぶつけ合うこともあって、反省なんですけどね・・。まあ、できることからコツコツと。
今日はまた、昨日とは打って変わって寒いですね。
立春は過ぎたので、実感こそ無くても、体は春の準備を始めていると思います。
冷えに気を付けて過ごそう・・。昨日作った、チキンと玉ねぎのスープを今日もトロトロに煮込んでいただきました。
読んでくださってありがとうございます