Zen禅

心理学に基づく坐禅の研究-心の風景を眺め、流れていく気持ちの音を静かに聴く(英訳)

信頼、不信そのルーツThe root of trust, distrust

2019-12-27 | 心理学習

人格を決める根本的な種があるなら、

それは選択傾向であるだろう。

If there is a fundamental source that determines personality,

it will be a tendency of what to choose.

他人と自分を区別する根本的な違いは『何を選ぶか』かも知れない。

The fundamental difference that distingue self and others,

it may be “choose what”


動物にはその選択肢が自然の法則に基づき、

パータン化されているから、個性性が限られている。

Animals personalities are limited

because their choosing options are based on

the laws of nature and it is patterned.

人間は持って生まれた遺伝子情報、

置かれた環境が限られていても

それぞれ違う選択をしていく。

Each of human does different choose

even though with their given genetic information

and environmental states are limited.


ある人を信頼できるということは、

その人が選択することを信じられることと直結する。

Being able to trust someone is directly related

to a person’s belief in choosing.

逆にある人がある人を信じられないと感じる背景には、

その人が何を選ぶか分からない場合が多いだろう。

On the other hand, the background

where a person feels untrusty to one,

there are many cases to be found about

uncertain of what they would choose.


また、ある人を良い人だと判断する背景には、

その人が悪いことをしないと分かっていることに根拠づいているが、

悪い人だと感じる場合は

悪いことを平気で選ぶ人だと分かる場合いが多いかも知れない。

Also, the background of judging

whether someone is a good person or not,

it is based on the apprehending that

the good person never does a bad thing

but for the bad person would choose bad things without hesitating.


気品を感じさせる人に共通的に多く持っている特徴として

行いに裏腹が無いような感じを放つ人が多い。

People who have refinement,

their characteristic attitudes giving off feeling that

there is no behavioral reverse in common.

言っていることとしている行いが他でも変わりがなく、

一貫した態度があると見ている人はその人を良い人だと感じる。

People feel someone is a good person

when they find the one who has a uniformed attitude

and there is no difference between the one’s telling and doing.


だが、下品さを放つ人は、

言っていることにどこか無理強いがあって、

考え尽くされた打算的な行いをしている場合が多い。

However, someone who gives off vulgarity,

they looked impel by somewhat

and behaves mercenary which calculated as much as they get merit.

そのような下品な人は

自分がどのように見えたいかを考えに考えて、

良い人に共通する望ましい態度を演技し、

聞こえの良い話しをする。

Such vulgar people, they think much about

how they are seen as they desired

and act in a desirable manner

which borrowed by good people’s attitude samples,

telling sweet pieces of stuff to be heard.


その見せかけに騙される人は、

自分が信じたいことだけを信じる愚かな人が多い。

People who are fooled by the above kind,

mostly they are unwise because they believe in

only what they wanted to believe.

そんな愚かさの根本には、

都合に良い話に現を抜かされ、

簡単な方法で楽になりたがる性格傾向の持つことが多く見られる。

At the root of such foolishness,

they would be hooked by convenience

and their personalities tend to take easy in an easier way.



私が一番嫌いなことばに“私を信じて”というセリフがある。

One of the words I hate the most is the sheriff of “trust me”

その言葉には人の人格、自由意志、自由選択権を侵す暴力性がある。

In the word, it has violence that intrudes on one’s personality,

free will and assault the right to choose.


人が人を信じるには、

その人が今までに良い行いをしてきたとの確かさが必要である。

To believe in someone,

it requires a certainty that the one has been behaving well.

また、その確かさは強いられた感情選択肢からでなく、

自由に何となくそのように感じたような

理屈の無さが必要不可欠でもある。

Also, the certainty is not only from emotionally forced to feel,

but also need to be freed for feeling without reasonable baking up.


なので、人を信じる、信じないことの背景には

その人が何を選択するかに対する確かな信頼感覚が根源にある。

Therefore, at the bottom of trusting or untrusting,

there is a certain reliable sense of what the person would choose.

本当に信頼をおける人は、

もはや人から信じてもらう必要さえなく、

自らの選択肢に迷いさえ無い人かもしれない。

The meaning of a truly trusted person

is indicating someone who no longer needs to be trusted by others

and may not be confused at all what to choose.


信頼できる人は当たり前のように正しく選択し、

選択したことを最後まで全うする。

A person who can reliable

the one chose right like as it should be

and execute to be done for it.



日々を木々に囲まれて生きて、

TV画面の中でしか人波を観ることができない私にとっては,

いい人はどんな人か、悪い人はどんな人かなどの見方も

思案の一つでしかない。

For me, who spends daily life surrounded by trees

and only can watch waves of people on the TV screen,

so judging what kind of person is good or bad is just one of my considering.


だが、たまに言い出したことを結論で結ぶことや

根拠をしっかり示す説得力が煩わしく感じてくる時は、

想ったことを思い浮かんだままに書いてみるのも

思案のストレッチ運動になるのやらどうやら…

However, when I come to feel a nuisance

things for those making conclusions for what I started to write

or convincing with the logical ground,

maybe just write whatever as came up to my thoughts,

it will be good for my brain exercise to stretch…


補足:写真は先週の土曜、くるみ割りバレエを観にボストンに行った時撮ったものです。

   記事と関係ないのですが...


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33 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ZIP)
2019-12-28 02:31:34
行いの良し悪しというよりは、いかにもその人らしさが感じられるということが、ある意味において信用できることになるのではないかと思います。
善悪といった倫理的な行いというよりは、
『あの人だったらきっとそう思い、きっとそう言うに違いない、また、きっとそう振る舞うに違いない』という具合に、その人の複雑性がお互いに縮減できたならば、それが信じることのルーツに繋がるのではないかと思います。
二人のあいだの関係が、たまたま良好であるといった行為的な一側面よりも、その人を、その人たらしめている、その人の背後にある関わり方の方程式が理解できたなら、それがその人らしさとして信じるに値することになるわけです。

そういう意味で『信頼』は手間も時間もかかるわけです。
何もかもが品行方正で、隙さえ無い人に惹かれることは先ずあまり無いと思います。
Unknown (To-zipさん)
2019-12-28 03:49:37
Zipさんは人を納得させる説得力がありますね。
私が言いたかったことの背面まで視ているから
角度が広いですよね。
透視されてもそれでいいみたいな感じがします。

そうですね。
信頼は手間暇かかる手作業ですよね。

この記事を書いた理由は
8年か前にネット詐欺にあって
50万くらい詐欺師に払ってしまった恥ずかしい前歴があって
それが今になって記憶に鮮明に浮かんできたからです。

その時、人は金のために人を騙すと疑っていたら
或いは、今の記事に書いたような信頼の背景を知っていたら
きっと、最後の一歩で送金をキャンセルできたかもしれません。

誰か、信じるかどうか悩む人がいて
私の今回の記事を読んで
しかもこのコメント欄まできて
Zipさんのコメントも読んで
判断する視野が広がれば、
それで書いた涯があるでしょうね。

恥ずかしことだから隠し通したかったのですが、
言っても言わなくてもどっちみち不快な記憶なので
書いておくことにしました。
Unknown (ZIP)
2019-12-28 10:59:34
この世で信用してはならないものの一つとして
該当するものが『お金』でしょう。

お金は物事の複雑さを縮減すると共に、物事の単純さを逆に複雑にさせる働きを併せ持つものです。
それらの作用のによって人は右往左往することになるわけです。
お金には、それを使用することによってその人らしさといったものが現れたり、また消されたりもするわけです。

しかし、そのお金を使用できることに信頼を持たなければ、人は何を手掛かりに生きていけるのか分からなくなるわけです。
そういう意味で『人』は、信用できないものに信頼を寄せることができる矛盾律を内に秘めた複雑性を兼ね備えた、最も信用できない生き物であるというわけです。
Unknown (To-zipさん)
2019-12-28 17:19:43
お金は厄介ですよね。
お金から解放される有一な方法は、
それを十分に持つことだと思います。
十分に持つためには、
ある期間、確かな犠牲を払わなければ持つことができないです。
私の青春はそれを持つために犠牲にされました。
遊んだことも無く、只管勉強と仕事だけでしたね。

お金はもう大丈夫だと思えた時は
32才か31才の時でしたね。
お金の用意を全て済ませて
勉強だけに専念できました。

勉強が終わってからは
仕事だけの日々でしたね。

やりたい勉強を気が済むまでできたのは
お金を用意しておいたからです。
以後、お金に困ったことは無かったです。

私はお金に対して哲学的に捉えません。
それを持つためには引き換えに何かを犠牲しなければならない交換性のあるものだと思っています。

プライドまで犠牲にしなければならない厄介なものですが、
正直な性質もありますよね。

自分が作ったお金の量で家を3回現金で買えた時、
自分が払った犠牲の価値を実感しました。

私がお金に信用をおくのは
それは必ず何かを交換を要求するとのことです。

Unknown (ZIP)
2019-12-28 22:11:25
まさに『必ず何かと交換ができる』と思わせることがお金の作用というわけです。
この思わせる作用によって、思ってしまう、信じてしまう、その作用を受ける『人』が即ち、信じるに値しないものというわけです。
人によって作られた、メモ用紙にさえ使えないような紙切れに、見事に思い込まされ信じてしまうといった一連の関係性はまさに矛盾しているわけです。
この矛盾を可能にするものが『言葉』であることに間違いはないでしょう。
『言葉』の作用はお金と同じです。
Unknown (ZIP)
2019-12-30 02:23:12
本山の記事は貴女へのメッセージですね。
Unknown (To-zipさん)
2019-12-30 10:01:47
本山のお風呂エピソードはどうも私とは関係がないかもです。

でも似たような経験をしていたので
お風呂にあんな数だけいけば
似たようなことが起きるのかあと思いました。

日本にいた時は
一週間に2~3回温泉に行ってました。
一旦行くと4~5時間、水風呂サウナ繰り返しして
すると、毎回会う人がいて
挨拶したりしてました。

ここに来る前に
温泉行かなくなるともう終わりだと思ってましたけど、
無ければ無いだけで、他の策がとれましたね。

私は人を私より汚れたと思ったことがあまりないです。
垢でコーティングされている人が銭湯にきたら
まあ、背中流しましょうか?と声かけるくらいかな。

ZIPさんが私へのメンバーだと思えた背景には
人種が異なる国で
一人孤独に生きるあの人が私にオバーラップして、
南師のあの時の単純な生活日常も
どこか通じていると思ったからでしょうんねえ。

まあ、あのエピソード場面は
まるで私が経験したかのように
全くイメージできますけどね。

ところで、昨日は
朝からボストンに行きました。
ボストンに韓国人がやっている歯科があって
地元のインプラント価格より半値なので
3時間かけて行っています。
設備も最先でスタッフと医者も親切で礼儀正しく
不愉快な思いも全くないので
夫もそこで治療を受ける予定です。

インプラントの予備段階で
昨日は穴を開けてねじを入れてくれました。
ドリルが回る音を聞きながら
バレエのクラスで習った振り付けを思い出したりしたから
まま、有益な時間にできましたね。

帰ってから、モールに2か所も回った疲労が一気にきて寝ちゃいました。
今日も眠くもないのに疲れて一日ちゅう寝てました。
Unknown (榮久)
2019-12-30 11:15:04
間に

人と人との「間」を意識する視点
人と人との間にあるもの・・・

個は個に対(つい)することによって個

「美しくある」美的であることが倫理的であると万葉集以来続いていた倫理観は明治期から徐々に薄れていったようだ

万物に生命が宿っていると、我もまたひとつの命、天地万物もそれぞれひとつの命、攻撃的な世界からの解放の基にとは儚い夢かも知れない。

礼儀なき宗教、カリスマなき宗教、教養なき宗教・・・歴史的な宗教といっても、たかだか二千五百年程、それ以前の状態の意識とは如何なるものであったのだろうか
と寒空の下落ち葉を掃きながら考えています。
Unknown (To-栄久さん)
2019-12-30 15:50:40
>礼儀なき宗教、カリスマなき宗教、教養なき宗教<
宗教の現代的弊害みたいだと
読みながら思いました。

20代の頃、この世で生きる上での
苦痛など抱えることができなかったから
宿命的な宗教があるだろうと
いろんな宗教に転々したことがあります。

極めて真剣だったから
洗礼とかも受けました。

私が宗教の檻に入らずに済んだのは
私が『ある宗教に入った後何が起こるか』を重視したからです。
彼らが約束する後世の幸せとか、
癒やしてくれる全知全能の神とか、
罪を許してくれる神とか、などなど
それらにはあまり興味が無かったでしたね。

ただ、私の気が許せる宗教に身を任せたかったのでしたが、
結局はどこにもそのような団体は無かったのでした。

今も坐禅さえ最後の安楽処だと思ってないのです。
宗教を持つには残っている時間がもう短くなりましたね。


栄久さんのいう宗教が誕生する前の意識の状態は、
恐らく太陽を全知全能だと思ってましたかね?
私も疑問に思い出しました。
Unknown (月のような者)
2019-12-30 23:40:28
私は仏教を選んだけど、「選んだ」という感覚はないですよ。答え合わせみたいな感覚で仏教に触れましたから。どれが本物でどれが偽物かは自然に分かりました。本物を本物ではないと言っている人はそれが本物であることを本当は知っているんです。でも自分の小市民的な世界観(過去の積み重ね)が崩壊することを恐れて目を逸らしているんです。そのような回避行動に意味があるのか?と疑問に思っても無駄です。世界観が崩れる恐怖は体がガタガタ震えて立っていることも難しくなる程なのです。新興宗教に嵌る人が晒されている不安感とは崖から押し出されるようなかなり切迫したものであることを忘れてはいけないのです。その崖から暗闇の底に飛ぶことが仏教を選ぶということです。私は自分自身を木刀で殴って「頭から行けこの野郎」と発破をかけたものです。宇宙自体が絶対に気付かないであろう疑問や不信が閃いてしまった以上、お前はどうごまかしても崖にいるのだと。仏教を選んで頭がおかしくなるのならそれはしょうがないという最終判断だったのです。
飛んでみてどうだったかというと、私は稀に見る幸せ者だったということです。この宇宙にはノッペラ坊も存在しないという事実を受け入れられる自分(比喩としての自分)を発見していました。心というコピー現象は「誰」ではありません。つまり我々は心の始まりにも終わりにもたどり着けません。涅槃寂滅という「理に適った本音、終わり」を別にすれば。宇宙も家の中も自分の体も表裏のない「現象」です。遠い銀河の真ん中に「本当の幸い」を想定する必要はありません。

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