病んだ詩をうたう

病んだ詩をうたう

自作の詩、動画をUPしていきます。

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現代はもう、
尊さとは永遠にかけ離れた平和。

青の人は空と地を指差しながら
内心呆れ返ってはいないのか?



利権に金を貪り、
若者達の夢が今日もまた潰れてゆく。



何の為の降伏だ。
何の為の復興だったのだ。



我を持たぬ、顔も晒せぬ者ばかり、
日銭欲しさに今日も冬の路上をうろつく。



何の為の教育だ。
何の為の道徳だったのだ。




行く人よ、怯め。
長崎に白が降る。



微尺の積雪で全てが閉ざされる。
黒い雨を忘れた懺悔のように。
日常を失い戸惑う明日になる。






怯め、雪なり。




 

 

 

夫の実家の風呂は、
2000年代になってもシャワーのない風呂で、
しかも自動で沸かすタイプでもなかった。

そうなると、どういうことかというと、
夏場は天日に溜めた熱湯。
冬場は冷たい水道水だ。

同居して、優しかった舅が亡くなってから
風呂焚き担当は私になった。

夏場はまだいい。
天日の熱湯を水道水でぬるくするだけでいいから。
それでもまだ熱かった時は夫から
「もっと調節しろ!」と怒られたが。

地獄は冬だ。
ものすごく冷たい水道水を風呂に張って、
0度から適温の湯にしなくてはならない。

姑がどこからか手配して手に入れた大量の角材を
慣れない斧で割って薪状に小さくし、かまどに入れ、
チャッカマンで火をつける。

斧は小型だったが
長崎市というプチ都会で育った私は使い方など分からず
かじかんだ己の指に斧を滑らせ、何度も内出血を起こした。

そして、薪に火をつけることが、これもまた難しかった。
いきなり木に火をやっても消えるばかりで、
私は新聞紙や段ボールを下地にしてかまどを燃え盛らせ、
細い枝からくべ、だんだん太い薪を入れることを覚えた。

しかし姑がちょくちょく、
「あんまり新聞紙使わないで!」と言ってくるので、
私は必死に小銭を溜めて描いた漫画の原稿や
資料となる雑誌を、新聞紙の代わりに燃やした。

私の夢が灰になって空に昇っていく。

そんな感傷に浸る時間もあったが、なにしろ寒い。

冬場に雨の日も風の日も5時間は外に出て
かまどと薪の相手。
サッシもないので、雨の日は背中がびしょ濡れになった。

夫が夜勤で16時頃入って、ぬるかったら怒られ、
夕飯後姑と義弟の為に再度風呂焚き。
暗いからどの枝が燃えやすいかよく分からない。
誤った斧で何度も打ち間違える。
もたもたしていると姑から嫌味を言われる。

家族の最後に、ようやく私と美羽が入る頃には、
湯船の湯は冷たく、私の膝ほどまでもなく、
私は美羽が風邪を引かないように抱きしめた。

私と美羽の為の水道水の追加と追い炊きは、許されていなかった。


 

・・・・・・・・・・・

 

きっと

並行世界の私の誰かは

今も風呂焚きを続けているのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

人生を順番に書いていくのは疲れる。


話は飛ぶが、私は22歳で岡山県へ嫁ぎ、
23歳で娘を出産した。

名前は美羽。私が考えに考え抜いて命名した。

美しい羽を持つ鳥や蝶のように人から大切にされ、
自分自身にも誇りが持てる女性になるように。

夫から何故か「み」が付く名前がいいと言われていたし。


美羽の存在は、妊娠発覚から私を大きく変えた。
それまで際限なかった酒と煙草はピタリと辞められた。
出産まで一滴も飲んでないし、1本も吸ってない。

エコー写真を見るたびに嬉しくて、ノートに張り付け、
妖精のような美羽の感想を書き、
まだ数センチしかないお腹の美羽にいつも話しかけた。

夫がギャンブル依存症でモラハラでもあったのだが、
私が辛さを感じるとお腹の美羽にも影響があると思い、
辛い時は何度もお腹をさすりながら
「大丈夫だよ。大丈夫だよ」と語りかけていた。

また少し話が飛ぶが、出産直後、泣いている美羽に
「大丈夫。大丈夫」と語りかけると、泣き止んでいた。


世の中には産後うつになって
我が子を可愛がれない人もいるらしいが、私は真逆だった。

私は菩薩様を産んでしまったのでは!!と毎日思うほど
美羽は菩薩のように尊く、天使のような愛らしさだった。

里帰り出産なんて恵まれたことはできず、
出産して退院後すぐに姑と家事をしていたが、
ちょくちょく美羽の寝姿を見に行っては、
「はたしてこの子は本当に動いたり喋ったりするのだろうか!?」
とドキドキとワクワクで胸を膨らませていた。


・・・・

 

美羽ちゃんは今もラブリーです!

 

 




 

 

 

高校生の頃、うつ病を発症した私は
ほぼ毎日部屋のハンガーホックにベルトをかけ、
首吊り自殺の練習をしていた。

当時流行っていた「完全自殺マニュアル」を購入し、
一番手っ取り早いのは首吊りだと
なんとなくそう思ったのだ。

だが私はやはり中途半端な人間で、
苦しくなったらすぐにベルトから身を離していた。

その頃は、首吊り練習で血液の流れが変になっていたのか、
拒食症で栄養失調だったのか、
何もしていないときに突然呼吸ができなくなり、
何十秒もそれが続き、
このまま死ぬのかなということが度々あった。

その時に死んでいればよかったのにと、
後々よく思ったりもしたが、
最近まで私は「自殺をしたら恐ろしい地獄に堕ちる」
という迷信を強く信じており、
結局自殺をするのが怖かったのだ。

一度、自分でも何を思ったか、
母親の目の前でベルトで自分の首を絞めたことがあったが
「何してるの?馬鹿みたい」
と、さらっと流されただけだった。

その頃、週に1回母と一緒に精神科に通っていたのだが、
症状が何も変わらない私を見て、
「お金と時間の無駄だから通院やめましょう」
と、半年もしないうちに母から言われ、通院は終わった。

別に母を嫌いになったことは一度もない。
むしろ毎日作ってくれた夕飯を吐いて捨てて、
申し訳ないと思っていた。

だが心のどこかで、
私の病気にもっと本気で、根気強く向き合ってほしいと、
なんとなくそんな期待もしていたのだが、
通院をやめさせられてから、
私は親に期待することは何もなくなった。

大学進学がどうでもよくなったのはその頃だ。

私はただ早く、両親の扶養から離れ、
親には何も頼らず、
自分だけの力で生きていきたくなった。

生きること自体は鬱陶しかったが、
親とは関係ない生活に憧れた。


だから私は進学校ではまだ珍しかった、就職の道を選んだ。

担任から推薦された、地方公務員。

多少心が病んでいても受かったら上手く紛れ込めるだろう。

そう思った。

それに私は学校から出される大量の課題を上手にこなしきれず、
毎晩午前3時まで机に向かい、勉強には飽き飽きしていた。

それよりも社会人になって社会勉強をした方が、
よっぽど自分の為になるのではないかと思っていたのだ。

死にたいくせに社会勉強したいなど、
本当に中途半端で哂ってしまうが。


・・・・

 

「高校生の頃の思い出は何ですか?」

 

「嘔吐と首吊りの練習です^^」







 

 

 

2020年6月20日

先月精神科で医者から、自伝を書いてみたら?と言われ
それからずっと気になっていた。

私の人生なんて、なんて中途半端なんだろうと思うのだが、
YouTubeで摂食障害を語っている女性たちをなんとなく見て、
同じようなことなら私にもあるなと思い、
書いてみることにした。

私は高校生の頃、摂食障害になった。
きっかけは何だったのか。
不思議なことにきっかけを思い出せない。

摂食障害にも色々あるが、
私が陥ったのは定番の拒食症だ。

それは高校2年生の途中からだった。

記憶が曖昧で色んな記憶や動機が思い出せないのは
トラウマというやつかもしれないので、許してほしい。

とにかく私は急にダイエットに目覚め、
インターネットもなかった時代だが独自に色々調べ、
一般女性の生きるために必要な摂取カロリーが1200カロリーだと知り
(誤った情報だったかもしれないが)
それなら、1200をはるかに下回るカロリーに抑えたら速攻痩せられるじゃん!
と思い、私は一日の摂取カロリーを400カロリーにすることにした。

朝は6枚切の食パン4分の1。
昼は母に頼んでこんにゃくと野菜だけの弁当。
夜は母の手料理を普通に食べていたが、
食べた後すぐにトイレで全部吐いていた。

その効果があって、体重は半年後には55キロから44キロへ。

ちなみに身長は163センチ。

巷の拒食症の方々とは比べ物にならないくらい、まだまだ重い。

だが私はもともと超健康体だったので、
それだけで生理が止まってしまった。

「生理が止まっちゃったー」ってなんとなく母に告げると
母はさすがに慌てたのか、私を病院へ連れて行った。

何も覚えてないのだが、婦人科だった気がする。
あまり覚えてないのだが、ホルモン剤を出してもらって
生理は再開した気がする。

だが1日400カロリー縛りのダイエットはやめられなかった。

腕や足が枝のように細いのが私の自慢だった。
乳房の成長は完全に止まり、Aカップにも満たない貧乳になったが、

鎖骨やあばらが浮き出れば浮き出るほど、気持ちは高揚した。

教室の固い椅子に座ると、尾てい骨が当たりとても痛かったが、
それも痩せてる証だと、嬉しかった。

夜寝るときに仰向けになり、
骨盤からショーツが1センチくらい浮いているのを確認するのも
痩せている証で安眠できた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

・・・・・・

 

不幸自慢ですか?(笑)