Dining Cafe 海
こんにちは。元地域おこし協力隊のはやとです。
島を出てから1年半ぶりに礼文島を再訪しました!島では地元の先輩と飲んだり、島を歩いたりと旧交を温めました。
そしてなんと、私が島を出てから新しいカフェができたそうです。しかも2軒も。そのうちのひとつ、元地にある「Dining Cafe 海」を訪れたので紹介します。
https://www.instagram.com/p/Bwv-2XVgllE/
今まで礼文島には定食屋や居酒屋はありましたが、洋風の店がありませんでした。そこで個人的には海の幸を用いた洋風な料理を提供する店を作れば流行るのにと思っていました。そんな思いを実現したようなカフェが今回紹介する「Dining Cafe海」です。
写真は『Dining Cafe 海』の名物ホッケバーガー
うにのクリームパスタ
シーフードピザ
写真にあるものを食べたのですが、味は◎でした。今流行のタピオカドリンクも種類豊富でした。一緒に行った友達(男)は最北のタピオカだとか言って喜んでいました。
Dining Cafeは元地にあります。近くには桃岩荘があります。店は地元の人がやっているようで、島の人もたくさんいます。礼文島を訪れた際はぜひ行ってみてください!
食べログ:
地域おこし協力隊になりたい20代必見!協力隊を経験して良かったこと
(写真は利尻富士と日没)
こんにちは。名古屋大学環境学研究科博士前期課程のはやとです。
北海道礼文島で地域おこし協力隊を2年やった後、都会に戻ってきて半年が経ちました。
家でビールを飲んでいたら、ふと自身の協力隊経験等について書いてみたくなったので、記事を作成します。
この記事では、自身が協力隊をやって良かったなと思ったことを書いていきたいと思います。
目次
経験としての地域おこし協力隊
確認ですが、地域おこし協力隊とは、三大都市圏をはじめとした都市部から最大3年間、田舎に移住することができる制度です。
総務省によれば、協力隊員の約7割が20〜30代、約4割が女性だそうです。
協力隊制度の主な目的は「地域おこし活動」と「定住」の2つです。
この「地域おこし活動」と「定住」の2つは分けて考えるべき、という指摘があります*1。
思うに、同じ「若者」でも、20代(特に前半)と30代は違います。
30代はライフステージの観点から、「身を固める」あるいは「定住」というものを真剣に考えはじめる可能性があるのに対し、20代、特に20代前半は人生経験として、モラトリアムとして協力隊制度を活用するのがよいのではないかと思います。
労働市場の観点からも、20代、特に20代前半は引く手数多ですよね。
ですので、悪く言えば「逃げられる」訳です。
私は、それが悪いことであるとは全く思っていなくて、この国全体の未来を考えた時、都会の人々が若いうちに田舎の社会に触れるというのは、非常に貴重な経験であると思います。
私自身のお話をしますと、大学を卒業しての2年間、極寒の地・礼文島で暮らしたことはかけがえのない経験でした。何が、というのは具体的には説明できません(それは文学の領域に属するものかもしれません)。しかし、ただひとつだけ言えるのは、「礼文島という視点」が手に入ったということです。
大学あるいは都会にいると、ついそこから見える世界がすべてだと思ってしまいます。しかし、理路整然とした世界に対する「理解」あるいは「了解」に対して、礼文島での経験はノーを突きつけてきます。
「その事実は礼文島では当てはまらない」という反例、あるいは「わからないもの」、「説明できないもの」が、私の心に沈殿しています。物語は、それほどわかりやすいものではないのです。
日本の田舎は「田舎」じゃない??
大学院に入ってから、外国人の留学生と話したり、一緒に日本の田舎に調査に入ったりすることがあります。その中で、特に発展途上国からきた学生は、「日本の田舎は「田舎」ではない」と言います。
最初は私も意味がわかりませんでしたが、よくよく話を聞くと、中国やラオス、あるいはアフリカ(マラウイ)の農村は非常に「貧しい」らしいのです。というのも、都市化、産業化が進んだものの、田舎は取り残されるかあるいはむしろ中途半端な貨幣経済化などにより生活は悪化しているとのことです。途上国の農村の教育レベルは、日本の田舎とは比べものにならないくらい低いそうです。
そういう意味で、日本の田舎は先進地域なのです。田舎に留学してみよう(責任はとりません)。
この国の未来を考えよう
確かに、私が主張したように、単なる経験、あるいは短期留学のような形で協力隊を利用することは、受け入れ先地域にとっては単なる損失であるように見えるかもしれません。
しかし、国レベルで考えたらどうでしょうか?
一定期間、新しい可能性を求めて田舎に移住し、新しい価値観・可能性を求めて活動するのと、都会に「引きこもって」人口減少・経済の衰退、あるいは物質文明のゆるやかな死に見て見ぬふりをしているのと、どちらがいいと思いますか?
私自身、今後どうするのかは全くわかりません。しかし、この国の「閉塞感」を打破するためにも、「とりあえずやってみよう」というのは非常に重要だと思います。
今日を維持することよりも、明日を創ることに目を向けよう。
ビール片手に長いこと語ってしまいましたが、今日はこれくらいにしておきたいと思います。
礼文島と「民主主義」 -あるいは「当たり前」を崩すということ-
こんにちは。元・礼文町地域おこし協力隊のはやとです(この記事の内容はあくまで一私人の見解です。現在の協力隊や礼文町役場とはなんの関係もありません)。
今年(2018年)の3月までの2年間、地域おこし協力隊として礼文島で活動していました。そして4月からは、名古屋大学環境学研究科社会学講座の大学院生になりました。
そろそろ、タコやボタンエビなどの島の海産物や、たちかまなどの珍味が恋しくなって来ました。当然ですが、都会の海鮮居酒屋などではその欲求を満たすことができないので、残念です。
礼文島唯一の幹線道路である船泊(島の北側)から香深(島の南側)へ続く道路は、通勤で使っていたためおそらく700回くらいは通っていたのですが、島を去った後は悲しいことにその記憶も徐々に薄れていきます。
都会に帰って、元どおりの「当たり前」の世界に戻ると、様々なものが見えてきます。
「当たり前」の上に成り立った社会や学問の枠組みも、「礼文島の視点」を加えると、また違ったように見えるのです。
逆に、礼文島で「当たり前」とされていたことも、都会で教育を受けた自分の観点から見ると面白く見えることが多々ありました。
この記事では、雑多なそれらのことを、忘れないうちに書いていきたいと思います。
日本に民主主義はあるのか
いきなりタイトルが飛んだように見えますが、これにはわけがあります。私の見立てでは、礼文島の人々の意識の深層構造は、いわゆる「日本人」のそれをもっとも色濃く反映しているように見えました。日本人の意識を地層に見立てれば、比較的古い部分を直に観察できるといったところでしょうか。
大学や美術館などの「教育」「文化」、あるいは裁判所や税務署などの「制度」がない島にとって、「学校教育」や「選挙」、あるいは「法律」などは、すべて中央から伝わったものです(その「中央」の人々の「文化」も、もとをたどればヨーロッパのある地域から来たものです)。小学校、中学校、高校の先生という、学校文化を持った人たちがほとんど全員、島民ではなくて外の世界から派遣されて来た人たちである、というのが象徴的にその事実を表していると思います。
行政は、少なくとも手続き上、あるいは書類の上では民主主義の原則に立っています。しかしそれらは島の人々の生活からすれば、遠い遠い、ものすごく遠いものです。
学校では「民主主義=善。選挙に行こう」と習います。日本は民主主義国家ということになっています。
その「民主主義」が成立するためには、「市民」が存在することが前提となりますが、おそらく島に「市民」の精神構造を持つ人はほとんどいないと思います。
そのため、手続きの上では民主主義でも、結局はパターナリズム(恩顧=庇護主義)の上に成り立っているのがほとんどだと思います。
礼文島の人がやたら世話好きであるのも、このパターナリズムの延長だと考えてよいと思います。
ところで、チャーチルやアクトン卿の言葉を待つまでもなく、学校などでは、民主主義は良いことで、それ以外は悪いことだとされています。
しかし、本当に、パターナリズムは悪いことで、民主主義は良いことなのでしょうか?
島で生活していると、いかに学校で習うことが島の生活と関係ないのかがよくわかります。
島に住んでいると、学校の成績評価が、いかに中央の基準に従った「実態のない」ものなのかがよくわかります。
実際、漁師の風を読む「知識」は、論文という形で生産された大学の「知識」とそんなに違いがあるのでしょうか。
遠藤周作が『沈黙』の中で、日本にキリスト教は馴染まない、本来のキリスト教が日本流に変形されている、というようなことをいっていましたが、それは日本という国の本質的な部分なのかもしれません。
上記のことは、もしかしたら、文化人類学あたりですでに語り尽くされているのかもしれません。
私自身の価値観で言えば、市民や民主主義の概念は私の好むところではあるのですが、上記のような構造に自覚的になれば、もう少し世の中をクリアーに見ることができるのでしょうか。
私の目には、あらゆるものが疑問に見えます。そして、その疑問に吸い寄せられるように、きっと私は東京から礼文島に飛び立ったのだと思います。
その根底には、今まで「当たり前」だとされていた価値観、「正しいこと」と「正しくないこと」の間に並べられた大小関係を転倒させたいという密かな野望があったと思います。
島の経験、あるいは視点を現在の生活や研究にどう落とし込めばよいのか、非常に苦しいところではありますが、これは真っ当な苦しみであると信じて、やるべきことをやっていきたいと思います。
【2018年3月18日掲載】北海道新聞「風 論説委員室から」で礼文町住民調査が引用されました!
こんにちは。はやとです。
私たち地域おこし協力隊が昨年礼文町で行った「地域おこし」や協力隊に関する地域住民の意識調査が、北海道新聞の社説で引用されました!
記事内容はこちら:
よそ者、若者、ばか者 高須賀渉:どうしん電子版(北海道新聞)
地域おこし協力隊と、受け入れ先の自治体の意識について、本調査を引用しつつ論じています。
私たちの活動が、地域おこしへの一助になればと思います。
調査概要・結果等はこちら:
礼文島移住雑感:島を出るということ
こんにちは。地域おこし協力隊のはやとです。
私は、この3月末を持ちまして、地域おこし協力隊を退任し、大学院に進むことになりました。
「島を出る」前に、親しかった人やお世話になった人に挨拶に回ったり、飲みに行ったりしました。
そして、今日がお別れの日でした。
乗船するフェリーには、職場の同僚が見送りに来てくれました。私自身、何回か見送りにいったことはあるのですが、自分が見送られるのは初めてのことです。
3月で退任することはかなり前から決まっていたのですが、出航する直前まで島を離れる実感がどうしても湧きませんでした。
ですが、接岸していた岸壁からフェリーが切り離された瞬間、自分は島を去るのだ、と自覚しました。
ターミナル付近で手を振ってくれている彼らは小さくなっていきました。
あとは、雄大な利尻富士と、どこまでも続く水平線、それに私を育ててくれた礼文島が見えるだけです。
稚内までのフェリーは2時間近くあるのですが、乗船がこれほど長く感じ、「島から離れたくない」と思ったことはありませんでした。
フェリーは稚内を目指して進んでいきます。
デッキに出て、私はひとり遠くなる礼文島をいつまでも眺めていました。
*お知らせ*
引き続き、Cooking Rebunは礼文島の情報を加筆修正していきます!
また、大学院生として別ブログ「地域おこしリサーチ」にて地域おこしに役立つ情報を発信していく予定です!
どうか今後ともよろしくお願いします。