日々是好舌

青柳新太郎のブログです。
人生を大いに楽しむために言いたい放題、書きたい放題!!
読者のコメント歓迎いたします。

首塚は大泥棒や金谷宿

2020年05月11日 20時00分55秒 | 日記
日本 左衛門(にっぽん ざえもん、享保4年(1719年) - 延享4年3月11日(1747年4月20日))は、江戸時代中期の浪人の異名。本名は濱島 庄兵衛と言い、諸国を荒らした盗賊(強盗団)の一味で、後に自首して獄門となった。歌舞伎の白波五人男の一人である日本駄右衛門のモデル。

『青砥稿花紅彩画』は、文久2年3月(1862年3月)に江戸市村座で初演された歌舞伎の演目。通称は「白浪五人男」。日本駄右衛門のモデルとされる日本左衛門は尾張藩の七里役の子として生まれる。若い頃から放蕩を繰り返し、やがて200名ほどの盗賊団の頭目となって遠江国を本拠とし、東海道沿いの諸国を荒らしまわったとされる。
徒党を組んで美濃・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・近江・伊勢の八カ国で犯行(主に押し込み強盗)を重ね、諸説あるが、確認されている被害は14件・2622両、あるいは14件・2627両余りと記す史料もある。

可睡斎から遠・駿・豆三国の諸寺院に送った「廻状(かいじょう)」には、日本左衛門の人相や装束など細かく記されており、「背は五尺八、九、年は29歳、見かけは31、2歳、月額(さかやき)に一寸五分ほどの濃い引傷、色白で歯並び普通、鼻筋通り目細く、面長、えりが常に右に偏っている。」などが詳細に挙げられています。

延享3年(1746年)9月、被害にあった駿河の庄屋が江戸北町奉行能勢頼一に訴訟し、老中堀田正亮の命により幕府から火付盗賊改方頭の徳山秀栄が派遣される。これにより盗賊団の幹部数名が捕縛されたが、日本左衛門は逃亡した。日本左衛門は伊勢国古市などで自分の手配書が出回っているという噂を聞き遠国への逃亡を図るも、安芸国宮島で自分の手配書を目にし逃げ切れないと観念。

延享4年(1747年)1月7日に京都にて京都町奉行永井丹波守尚方に自首し、江戸に送られ、北町奉行能勢頼一によって小伝馬町の牢に繋がれた。刑罰は市中引き回しの上、獄門であり、同牢獄にて3月11日(14日とも)に徒党の中村左膳ら6名と共に処刑され、首は遠江国見附に晒された。なお、処刑の場所は遠州鈴ヶ森(三本松)刑場とも江戸伝馬町刑場とも言われる。享年29。
その首を金谷河原町出身の“おまん”という愛人がひそかに持ち帰り、島田市金谷東2丁目 宅円庵に葬ったと伝えられています。

供養塔に刻まれた句「月の出るあたりは弥陀の浄土かな」は、岡本綺堂の作。
日本左衛門の辞世の句は「おし鳥能、人の思以羽か佐成りて、身に青あみ乃名こそ残連る」とされています。

※「おしどりの ひとのおもいはかさなりて みにあおあみの なこそのこれる」
罪人の護送は、罪が軽い場合は山駕籠が用いられ、武士の場合は普通の駕籠に青網をかぶせた「護送駕籠」を使用したと言われています。

領内を荒され、しかも捕縛できなかった遠江国掛川藩主小笠原長恭は、奥州棚倉へ転封となった。棚倉は懲罰的転封先として知られている。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 新しき大河内橋開通す | トップ | 鬼平の先祖は焼津小川です »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事