この小説は純粋な創作です。
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実在の人物・団体に関係はありません。
〝歌えないよ
ぼく………。〟
屋敷に向かう車中、
瑞月は繰り返す。
それは乗車の前からで、
西原が迷うように目を上げると
年長の副官樫山は
何も言わず
助手席に乗り込んでくれた。
樫山はときにこうして察してくれる。
口の固さは椅子か壁並みで、
何事もよく見ている。
礼は後にして
高遠に目を移すと
もう先に乗り込んで瑞月に手を差しのべている。
最後に西原が周囲を確認して乗り込むときは
高遠は端に身を寄せて
真ん中に乗せた瑞月の肩を抱いていた。
瑞月の音程は
リードがないと揺れていく。
そのくせ音のずれには敏感で
自分が歌えていないことはわかる。
何事につけ
繊細に感応する一方
コントロールが弱いのが
瑞月の特徴だ。
神を降ろす器だからか
西原は
そう思うようになっていた。
ぼく
アルトなの?
そうだよ
ほんとに?
ほんとだよ
歌ったことないよ
だいじょうぶ
歌えるよ
心細そうな瑞月に
両側からぴたりと添っていると
小さな体の柔らかさと温もりが
じんわりと伝わってくる。
車の揺れは優しいもので、
瑞月は
ぐずりながらも小さくあくびをもらす。
ぼく
………歌える?
歌えるよ
………………ほんと?
ほんとさ
睫毛が重そうに震え
まぶたが下がり
体重が高遠の肩にかかっていくのを見届けて
西原はそっとその髪を撫でた。
二人は声をひそめて
言葉を交わす。
「テノールなら
歌わせてやれるんだけどな」
「素直ですからね。
一番響く声に引っ張られるんです。
トムさんの声、
頼りにしてたと思います。」
「アルトなのかな。」
「話す声はそうですよね。」
「………そうだな。
甘くて可愛い。
瑞月は可愛いな。」
どうも鷲羽においては、
日常こそ
スリルに満ちているように思われる。
それは巫を離れた瑞月の幼さと
魂の半分をぽっかりと無くしたような不安定に発するものだろう。
繋がっていると
目の前で感じたGWの冒険が
西原の胸に甦る。
距離も大切だな
見えないと
ほしがる
抱く腕
見詰める目
………………欲しがるんだ
高遠は
瑞月の体重を肩に
静かに前を見つめている。
瑞月が欲しい温もりは
高遠も与えられる。
そして
安心は
西原も与えられる。
だが
熱く溶けて一つになる悦びは
ただ一人のものだ。
それを思うと
西原は
ときに胸がざわつくことがある。
裸身は見ている。
何しろ着替えだとなると
無邪気に裸身をさらしてくれるので、
嫌でも目に入る。
その裸身が燃え上がる様を
その肌に汗が滴らせて身を捩る様を
思い描いたことがないと言えば
嘘になる。
顔には出さないさ
総帥のためじゃない
………瑞月のためだ
鷲羽警護班チーフ西原努は、
闇と対峙して退かぬ武勲に輝く戦士だ。
そして、
その武勲は、
ただ守るという一念から成ったことである。
優先順位は、
既に染み付いていた。
瑞月を守る。
その体も心も守るには
己を律していなければ始まらない。
高遠は
どうなんだろうな
西原は洋館に瑞月が入るのを見届けたら
司令室に詰める。
そこで高遠は瑞月を預かる。
今日、
総帥に瑞月を渡すのは高遠になる。
眠る瑞月をはさんでやけに静かな時間が流れる中、
西原はつい思う。
総帥に瑞月を渡すとき、
自分は
どこか熱くもどかしく
心騒ぐ、
凶暴なほどに。
総帥の帰投は
夕食の始まる頃合いのはずだ。
画像はお借りしました。
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