この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。



〝海を 渡って………〟

男たちが背にするのは緑の木々、
その奥深い木下闇から
赤は滲んではこの岩屋上に広がる土を踏む。

一言も発することなく
告知の瞬間は赤衣の民たちに広まり、
彼らは粛々と集まる。


打ち寄せる波が、
赤き波頭はこの地に辿り着いたその時のままに、
凍れるがごとくに鎮まった。



日は中天に高く、
空は青い。
秋空に幾筋かの雲が長く尾を引く。



神渡は問うたときのままに、
穏やかな相貌を崩さない。
その涼やかな眸は己を囲む赤い海が見えていないかのようだ。


急かすでもない。
たじろぐでもない。
美丈夫は、
己が発した問いの答えを待っていた。


老人が顔を上げた。
その白い眉と髭に縁取られた小さな顔が
赤衣の男らの赤黒く焼け
頬の稜線に鋭さのある男たちを
ぐるりと見渡した。


老人の僅かな動きにも
彼らは従う。
ひたと老人に返される眸に籠る一つ一つの風合いが
それぞれの抱く魂の陰影を描いて暗くかがよう。



里の民らがもつ純朴はその眸にない。
他を恃まぬ心が
里の民になじまぬ強い色となって眸の色を鋭いものにしていた。



 生き死にの境を越えてきたか………。



神渡は
山の頂から遠く眺めた青く連なる広がりを
思い起こす。
下から吹き上げる風にあった独特の香りは
潮というものと聞いた。



果てしなく青く続く先に、
大地の影は見えなかった。
川を行く舟などその青に浮かべたなら
どれほど頼りなく見えるであろう。



神渡は
この猛々しい眸をもつ者共を統べる老人が
不思議に思えた。
小さな体躯は風でも吹けば
転げてしまいそうに非力に見える。


荒行に臨んで
その先頭に立つには
膂力衆に勝ることも大切だ。



不思議な老人が
その小さな体をふわりと翻し
神渡を見上げた。


神渡も応えて
居住まいを正す。



「お応えするには
 まだ足りぬ。
 足りませぬなぁ。」

老人は
淡々と述べた。
足りぬという言葉に
男たちは一様にハッとその眸を揺らした。


男たちは
揺れて
一つになった。


〝足りぬ〟。
その言葉に得心がいったかのように
男らは一斉に神渡を見つめる。
ひそと寄り添う朔夜のかそけき姿は、
もうあってなきものらしい。



沈黙の中に
ぐぐっとせり上がる気が
岩屋の土天井に結界を張り巡らす。

ひたひたと
中に進み出る者
すっと下がる者
言葉を交わさずとも定まった役どころがあるのだろう。



一人の美丈夫が
麗人を背に土に覆われた岩を踏んで立つ。
遠巻きに林のとば口を占める一群は
隙間なく肩を並べた。


じりっじりっと二人を中に
弧を描いて間合いを詰める男らの腰にたばさんだ小刀が、
命をもったかのように存在感を増していく。


「日の長を名乗るお方、
 我らは
 話にうかがった。
 龍が昇った。
 勾玉が雨を呼んだ。
 お山が光を放った。

 ええ
 伺った。
 もしや
 もしや
 ついにまみえる時が来たのかと
 一同
 苦しいほどに思っておりますのじゃ。

 ですが、
 あまりに苦しんで参りますとな。
 信ずるは………まことに難いもの。

 その長たる証が欲しい。
 さて、
 見せてくださいますかの。」


老人が言い終えるや
男らは一斉に小刀を抜き放った。




吹き上がる殺気に
結界は閉じた。
青白く底光りする刀身が、
一の輪、二の輪と命をもって切っ先を揺らす。


「月の巫を名乗るお方、
 さあ
 この爺のところにおいでなされ。

 ここは巫の出る場ではござらぬよ。
 あぶない あぶない」


老人の声は
何とも場違いなまでに優しかった。


ぴたりと揺れる切っ先は止まり、
神渡を呑み込まんとせり上がった大波は
崩れ落ちる寸前にふっと引く。



一同は
その殺気に怯えでもしたか
動かぬ朔夜を見つめた。


さやさやと頬にかかる黒髪が艶かしい。
老人の声がその耳に届いたのか
届かなかったのか、
立ち尽くす麗人はその場を動かない。


代わりに
その腕がゆっくりと天を指した。


ざざざざざっ………と、
一陣の風が直下立つ岩壁から
吹き下ろされる。




ぬばたまの夜闇が凝りて
しなやかな糸となりて乱舞する。
毛先が
白い顔を縁取る焔となった。


燃え上がる焔を纏って
そら恐ろしいまでに美しい生き物が
そのたおやかな足を
一歩踏み出す。


「朔夜、
 殺めてはならぬぞ。」

「でもっ………!」

「ならぬ。
 いい子だ。

 できるな?」

神渡の声は
老人に負けぬ穏やかさだった。




「ほう
 殺めず終わらせるとな?」

老人の声が
微かに笑いを含んだ。

ゆらり
切っ先の輪が息を吹き返す。


いやああああああ………っ
怪鳥のごとく
赤衣の一人が地を蹴った。


殺到する切っ先の中、
長衣の袖がひらりと舞う。
見定めは始まった。


画像はお借りしました。
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