この小説は純粋な創作です。
実在の人物団体に関係はありません。




前肢が丈高い草に埋まった。
踏み固められた下馬所にも点々と草は顔を出している。
住まいとは正直なものだ。



主を失った屋敷は
見る間に荒れていく。


黒猫は一つ大きく伸びをすると、
悠然と庭へと足を進めた。
破られた跡はすぐにも見つかった。
財で知られた多田屋敷である。
得たいの知れぬ乱暴者の噂も
欲には勝てない。



開け放たれた板戸に近づくと、
差し込む日差しに
泥にまみれた足跡が散る床が覗く。


黒猫は
ひょいと縁にのぼり、
探索の歩みを続けた。



夜の静寂は深い。
なだらかな山巓に立ち見下ろせば
天に月をいただく都は
黒々と闇に沈んでいる。
二対の目は目指すところをまだ定めてはいなかった。
どちらを先にするか、
動きのありそうな方が面白い。
そのくらいのところだ。



日が沈めば灯りを点すこと叶わぬ民は
質素な住まいの中で衾にくるまる。
動く影あれば野犬か野盗であろう。
善きものたちは
戸に芯張り棒を立てて安らぐ。
都は人が多い。
人が多ければ見えぬものも多い。
見えぬところにぬめぬめとした闇が生まれる。



「よいお月様じゃのう。
 いい案配に雲に隠れていらっしゃる。」

背をそびやかした小さな影は、
いっそ浮き浮きとしているようだ。
老いてなお力ある声が
脇に立つうっそりと聳える影に誘いかける。

「どっちにすっかな。

 まあ、
 俺は
 もって回ったしゃべりをじいいっと聞いてるのは
 得手じゃないが………。」

若い声は詰まらなそうだ。
影は越えてきた山をあらぬ方へと振り返る。

赤衣を束ねる老人は
くっくと笑った。

「いきなり本陣に切り込むのは
 止めておいたがよかろうよ。
 仕合うて負けたのじゃろう?

 お月さまは恋しいお日様の情を浴びておる頃合いじゃ。
 妬けるのか?」


バサバサっと翼が鳴り、
梢へ逃げた梟が憤慨したように
ホーホーと鳴く。

薙ぎ払われた腕には
雲から顔を出した月光を弾いて
剣がぎらついていた。


老人は音もなく跳んで
梟が空けてくれた枝に何食わぬ顔でとまっている。


「分かれてみようかの。
 もってまわったしゃべりはわしの領分じゃろう。
 タケル、
 そっちで
 騒ぎを起こすなよ。 
 血なまぐさい男はうとまれる。」


老人は
なおも月を見上げてみせた。


「好きも嫌いもない。
 抱くさ。
 そう決まってるんだからな。」

タケルは
噛みつくように返し、
鷲羽の里に背を向けた。


「あの巫が
 血を好まぬとは思えないね。
 とんでもない使い手じゃないか。
 たいしたじゃじゃ馬だ。
 ものにするときが楽しみだ。」

「そうか そうか。
 まあ
 そう思っておればよいさ。

 じゃがの、
 ただの愚か者じゃあ
 石も認めまい。

 まずは頭を使うことじゃ。
 さあ
 お行き。
 くれぐれも隠密にな。
 自ら騒ぎを起こすのは愚か者のすること。
 忘るるなよ。
 わしをがっかりさせんでくれよ。」
 
 

二つの影は闇に溶けた。
都を見下ろす山は
ふたたび静寂に覆われる。
夜は秋の深まりと共に長くなっていた。




黒の耳が
ぴくりと動いた。
同じ闇の中にもう一つの影が
忍び入ってきた。

闇に目が利くのか
黒を認めてその口許が綻ぶ。
見慣れた顔がにやりと不敵に笑っていた。


 きっと
 出会うんじゃろうなぁ。
 そういう定めじゃもの。
 
脳裏を掠める老人の声に耳を傾ける余裕はなかった。
多田の屋敷が
夜闇に目覚める丑三つ時であった。
下の部屋にどやどやと踏み込んだ荒くれものがいる。
高遠豪の顔をした男は
天井板の隙間に屈みこんだ。



声が届く。
黒は
その声を聴きながら〝豪〟の顔を見つめた。



〝黙らせろ。
 傷をつけるな。
 売れなくなるからな。〟

〝お頭は?〟

〝まだ足りぬ。〟


男どもから立ち上る血の臭いが黒の鼻をつく。
獲物の声はしない。
豪の顔が微かに歪むのを黒は見た。


そのお頭を見送る間、
破落戸どもは
声を発しなかった。
ヒタヒタと一つの影がふたたび屋敷を後にするのを
その静けさに
お頭への破落戸どもの恐怖も読めた。

噂の主は、
無慈悲な幽鬼だった。
手下にも容赦はないのだろう。



〝ようし
 黙らせようぜ〟

〝待ってましたっ〟

下卑た声が上がった。
衣擦れと呻き声が続く。
ひどく幼い声だった。


天井板が跳ね上がった。
豪の顔をした男は
飛鳥のごとく飛び込んでいく。


ぎゃっ
と潰される蟇のような悲鳴が次々に上がり、
肉を打つ音が立て続いた。


〝この獲物はもらった。
 
 お頭とやらは、
 夜明けには戻るんだよな。
 せいぜい泣きつけ。〟


〝お頭〟という言葉に
ひっと次の悲鳴が上がった。
どたどたと逃げ出す男どもの足音が
入り乱れる。



声までそっくりだ。
そして、
気性も似ている。
もう十分に我慢していたのだろう。
黒は血の臭いに思うところがあった。



鷲羽に連なる化け物屋敷はありがたくない。
そこに巣くう幽鬼の今の栖を突き止めたかったが、
豪より我慢のきかなそうな若者の正義感にそれは途絶えたかもしれない。


黒は吐息をもらした。
下では
豪が往生していた。

さらわれてきたのは子どもだった。
豪にすがっていた。
切り下げ髪が愛らしく揺れている。
どこの館からさらってきたやら、
衣服は貴人のそれだ。
ぴいぴい泣いている。

一頻り
脅したりすかしたりした挙げ句、
豪が諦めるのを見届け、
黒は闇に溶けた。
〝俺は鷲羽の里に行くところだ。
 一緒に行くか?〟
巫のもとへ戻らねばならない。




昼に官女の姿で黒は噂話に興じていた。
〝もう姫は待ちきれぬと
 焦れておいでだとか〟
〝まあ
 ご婚礼はいつ?〟
〝間もなくですよ、
 間もなく。〟
〝刈り入れも終わりましたからね〟
宮中の噂雀たちは
興津の姫が鷲羽の長に恋焦がれていると
笑いさざめいていた。


 
 興津はその息女と巫とを
 共に
 鷲羽に送り込んだ。


日と月の契りを宣言した二大豪族の噂、
この眼下の闇に放り込んだなら
どう根を張り巡らせ
枝葉を繁らせるか。


秋祭、
その祀が月の下で行われるまでは
動くまい。
狼煙は上がるのはその後になるだろう。
そして、
今はより重要なことがある。


巫の心を捉える男は一人ではないのだ。
黒の知る巫は
二人の男に魂を守られている。
それが危うくて見ていられない。
見ていられないが見なくてはならない。
黒もまた巫を守る者だからだ。
黒は急いでいた。


 まったく
 二人して出掛けたと思ったら
 この急展開。
 たけちゃんが来る。
 急がなくちゃ。


噂は
利用できるろきもあるが、
それが発生する前につかめてこそ
力となる。
それは誰の場合もおなじだ。


後宮は静かに眠りについていた。
興津の一の姫の房は
帝を迎え
しばしの華やいだ時をもっていたが、
その灯も落とされ
警護の者共も房の秘め事から遠ざけられて何刻かが過ぎている。


褥に帝が身を起こした。
その優美な顔立ちから文弱と勘違いをする者もいるが、
夜着の下には鍛えられた筋肉が潜んでいる。
それは目通り叶う者しか分かるまい。

すっと女の腕がその袖にかかる。
「いかがいたしました?」
優しい声音だ。


「先ほどの楽者かな。
 一弦の琴、
 物悲しい音色だ。」


微かな音を帝は拾ったらしい。

「興津には
 異国のものが多い。
 ………あの老楽者もこの大和の者ではないな。」

「幼い頃より
 館に出入りしておりました。
 懐かしい便りを届けてくれます。」

次の間に控える添い伏しの女官は、
二人の睦言にじっと耳を傾けている。
秘め事は政でもある。
いずれの御方に寵愛があり、
そのどちらに子が生まれるかは、
宮廷を揺るがせるものなのだ。


どの女官が誰に通じているか
それも
政の流れ次第で変わりゆく。


帝がそっと身を伏せた。

「妹が鷲羽に入りました。」
「婚儀の報が入らぬが?」
「婚儀はなされません。
 興津は鷲羽の月の後見となりました。」
「なるほどな。
 鷲羽は日と月を戴いたか。」
「はい。」

帝の手が
妃の髪を撫でる。
赤き唇が吐息をもらし、
女官は確認する。

一の妃は
興津の姫。
その寵愛はますます深かった。




愛しい温もりが
腕の中でみじろいだ。
神渡はそっとその背を撫でながら
目覚めを迎えた。
もう燭に灯はなかった。


灯した燭は
その白い肢体を見たいがためであった。
羞じらう朔夜の所作の一つ一つが愛しかった。
いつしか欲情の波にさらわれて
羞じらうことも忘れた肢体のわななきに己も溺れた。

 何度精を放っても足りぬ。
 この狂おしさは何なのか………。


泣き濡れた朔夜に眸に映る己の顔が
思い浮かぶ。
はっとした次の瞬間に
コトンと糸の切れたようにその目が閉じ、
肝を冷やした。


朦朧とした朔夜の身仕舞いをしてやり、
壊れ物を抱くようにそっと胸に抱けば、
その朱唇から〝カムド………〟と
己を呼ぶ声を聞き、
安堵のあまり涙がにじんだ。


今、
朔夜は両の手を神渡の胸に畳んでいる。
闇の中でもわかるいじらしさに胸は甘く痛む。
もう惑うまい。
朔夜に触れた男を思うことが
己を失わせる。
神渡は昨夜の己を悔いていた。



神渡は
静かに褥を離れ
板戸を開け放った。

未明の空は
濃紺から僅かに色を薄くしようとしていた。
雲は緩やかに動いている。

里は日と月とを迎えて静かに微睡んでいた。
胸の勾玉は仄かに翠の光を放つ。
鷲羽の長たること。
そのために知るべきことは多かった。

イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。
ありがとうございます。



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