2020年1月29日水曜日

内村鱸香の話

「白潟楽会」の定例会に久しぶりに参加してきました。

2つの予定が延期になったり時間が空いたので

25日(土)は、急にフリーになりましたので〜〜

駅から白潟の町歩きをしながら天神市などの様子を見て

県立美術館で開催されている『柳宗理展』を拝観、

そして<松本そば店>で「鴨南蛮そば」を食べて

白潟公民館へ向かいました。




土曜日の午後開催されることが多い

「白潟歴史まちあるき楽会」で興味深い内容でありますが

役員の末席を汚していますが参加できていません。

演題は、『明治の時代の白潟教育  内村鱸香』

講師は、元松江郷土館館長 安部 登 先生です。


4ページにわたる資料を作成頂いていました。

13時30分から15時まで。


第1期 白潟小学校の開校(明治6年〜18年)

明治5年に「学制」が公布

身分にかかわらずすべての子どもに教育を〜〜

全国を8大学区、32中学区、210小学区

それぞれに小、中学校を設けた。



明治6年灘町、佐藤庄之助宅に第6区小学を開設

開講当初の教員は、12名。

その中に内村友輔(後の鱸香)がいた。


明治7年に灘町小学となり、

7月には慈雲寺に和多見小学、明宗寺には女児小学開設

明治12年には、この4つの小学が統一されて

白潟小学校となった。


第2期 明治中期(明治19年〜30年)


明治19年「小学校令」が公布

これまでの初等(3年)中等(3年)高等(2年)が廃止され

尋常小学校(4年)高等小学校(4年)を義務制にした。

明治22年から「松江市立白潟尋常小学校」と改称。


明治23年には教育勅語が発布された。

爾来、御真影礼拝→勅語奉読→校長訓話→式歌斉唱

という儀式の基本形が構築された。


明治27年には初めて修学旅行が始まった。

白潟から宍道まで船で進み陸路を歩いて広島まで行ったそうです。

片道4日で広島に到着1日滞在してまた4日かけて

松江に帰るという強行軍だったそうです。



第3期  明治後期(明治30年〜45年)



明治33年、小学校令改正、これ以来昭和20年までの

日本の初等教育の基本法となった。

6年間の授業料が免除になった。


教科書は、明治19年に検定制度ができた。

明治36年には、国定教科書制度もできた。


内村 鱸香   

文政4年(1821)〜明治34年(1901)

中原の商家に生まれ初めは与三郎。

のちに友輔、鱸香と号した。

12〜3歳まで油の行商をした。


弘化元年(1844年)京都、大阪に遊学。

嘉永4年(1851年)江戸に出て安積艮斎(あさかごんさい)に入門

その紹介で町人で初めて昌平黌(しょうへいこう)

のちの東京大学の書生寮に入った。


元治元年(1864)藩命により帰国。

藩校および藩主(11代定安公)と世子(直應)に儒学を講じた。

明治2年の版籍奉還の上書は鱸香が起草した。



明治7年(1874)には西茶町に

私塾『相長舎』を開設、門弟は三千人を超え

山陰一の家塾となり、門下からは若槻礼次郎、北尾次郎、

梅謙次郎、滝川亀太郎、桑原洋次郎、双葉亭四迷など

多くの人材を輩出した。


内村鱸香を顕彰した大きな石碑は松江市役所前の

末次公園に建立されています。


私が8年前から師事している論語の先生から

度々出てくる松江藩の家老 雨森精翁と師弟関係でもあり

我が子3人が学んだ白潟小学校初代校長として、

そしてその後の松江藩が輩出した偉人の師としての

内村鱸香、いい学びをいただきました!!



そして、中央新報ビル地下1階のライブハウスへと向かいます(笑)


松江出身のミュージシャンRitsuKoさんのライブです!!



















































































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