これは読まなくてもだいたい分かる、というのはある。まあ読んでみたほうが意外な点を見つけられてよいという話はあるだろう。おそらく本人は国際化感覚あふれる人であり、すっかり日本社会と関係なく自分は活躍していると思いこんでいるのだろう。だからこその日本社会の軽視ということである。一方で現実としては、余裕を持って暮らすことが厳しい人々が急増して素直にオリンピックなどを楽しめなくなっている人も多いだろうに。この配慮の無さは天然ぽいがゆえに酷いものなのである。
なかなか率直な意見が五輪組織委員から出てきたという気持ちにしかならない。どこまで外国だよりなんだという話もあるが、五輪が行われる東京ってどこの国だったっけ、というなんとも言えない不可思議な感覚に襲われるというのも事実だろう。なんとなんといっても、コンセプトは日本人に伝える必要はない、英語を理解できる連中にだけわかるようにしていると言う。英語化は愚民化という言葉が頭をよぎったが、国民に理解してもらわなくても良いコンセプトで実施する五輪は、たしかに、国内のコロナ感染症蔓延のための医療の逼迫や経済活動の低迷の長引きなどはどうでもよく、ただただ、アスリートと呼ばれる通常の人間と異なる崇高な存在にに対して、命を脅かされてでも奉仕せよ。その意味は、理解してくれるな、というぐらいの意味に歯科と利用がない。この記事の満面の笑顔が実に邪悪に見えてしまうのはそういう意味であるということが否定できないからだろう。
余裕があればこの人の言うことは一定の理解があったかもしれない。しかし、日本は経済的な問題で、国民が2分されており、オリンピックをただ漫然と楽しめるのはそのうち上流のひとたちだけに限られるという事情もある。国民統合とい兎よりは、むしろ分断を加速させるようなイベントとかしているのである。そのコンセプトは本質的に、日本国民を蔑ろにして、無視するようなものであるがゆえに、ますますその傾向は大きくなるだろう。その意味を理解できる上級国民にとっても、日本人であるという自覚を捨て、ただただ英語で理解しなければならない世界に生きることが良いことのように思うことが増進されることがあっても、日本そのものに目を向けることはないだろう。そんなコンセプトで東京五輪は開催される。それを満面の笑みで語っているのが組織委員の一人だったりするのである。なかなかシュールな絵面である。
間違ってしまっても、それが間違いであるという確固たる認識を持つことがその間違いをただし第一歩となる。それがないとなれば、気が付かぬうちに自らがスカスカのなにもできない状態になってしまう。それが老人になってからではなお同士模様もなくなるのである。
維新の毒牙が兵庫県にも突き刺さってしまった。個人的に実家があり、生まれて24ぐらいまで過ごした土地(尼崎)を含む県であるがゆえに発展を続けてほしいと願っている思い入れのある土地である。すぐ隣の大阪が維新の毒牙にかかり10数年で関西経済ごと地盤沈下を起こしているのは懸命な人なら気がつくことだろう。まあ、懸命な人ではない人がテレビの話に浮かれてあるいは事あるごとに身を切るとか改革とかそんな言葉に浮かれて、将来自分に襲いかかる状況など想像する力も失った、貧困化からはまだ少し距離のある人達にとってはそんなことは気にならないのであろう。
先日の知事選挙で、前知事が出馬しない表明をしてから次の知事が誰になるのかという話が始まり、勢力範囲を大阪から広げようという維新が虎視眈々と狙いを定めて選挙に突入したという事情もあるだろう。そして、選挙に無関心で、行ってもいかなくてもいいだろう、と思っている層はそのまま棄権してもらって、これまでに自民党に入れていた層に対して、改革が足らない、身を切る改革が必要だ、と大阪の惨状を覆い隠しながら、事実上の教祖とも言える橋下徹氏の弁舌を参考にしながら、訴えていった結果が実った。いや、実ってしまったということだろう。
問題は、無関心を決め込んでいた人々にとっても実害が発生することになるということだ。簡単にいえば、行政サービスにカネを使わなくなる。職員はパソナの派遣に切り替えられる。表面上のサービスは維持されるように見えるが、全く余裕もなく、派遣故に仕事のスキルが蓄積されることもなく、今あるものがかろうじて維持される。
ただ、コロナ災禍の対応はまだまだ続くことになるので、行政サービスの負荷は大きくなるばかりで、しかも、その対応は迅速さ的確さをもとめられることになる。それに耐えられるような行政サービスのリソースが確保できるのかといえば、全く期待できない。むしろ今あるサービスを見えにくいところから端折っていくことを彼らは狙うのである。そこに入り込んでくるのが、すでに淡路島がその事実上の王国となっているパソナである、淡路島の活動をてこにして、全兵庫、当然、明石や神戸、阪神地区などにも容赦なく入っていくだろう。大阪に隣接している尼崎や伊丹、川西などはその毒牙に襲われる筆頭なのではないだろうか。
当然、都道府県の下には、基礎自治体としての市町村(兵庫県には村がないので、市町か)が維新化されていなければ抵抗の余地はあると思われるが、変に意識が高いと、身を切る改革ーーっ、という言葉でアホみたいに騙されてしまいかねない。大阪でころっと騙されているのは、市民のレベルであるということを忘れてはいけない。この空気に乗って維新の会角が進むと10年後の姿が今の大阪である。それまでに県民がおかしいと思うことが大切である。すでに、現在の住まいである千葉県も、間接的に維新の軍門に降っているという事情もあり、この渓谷は遊び半分のものではなく、自分事である。
問題はまだ解決されていない。解決していると思い込みたい連中がいたとしてもやっぱり解決していないのである。基本的な対策である行動制限を続ける。それを続けるための政府の補償。社会生活を支えるための仕事に対して十分な賃金が支払われる環境、感染対策。政府がやること、カネを使うことは多くある。のんきにIOC会長を迎賓館で歓迎会開いている場合でもないのだ。
本当になんの心配もなければ、コロナコロナ、ってうるせーよ!と言いたくもなるようなコロナの報道であるが、本当にコロナが風だと行っているような連中は、重症化するリスクの高さ、回復した後の後遺症の重さなどをについてよくよく想像して見る必要がある、と常々思っており、こんなものを広げていってしまえば、社会が機能停止してしまうという状況は当然今でも続いている。これまでまともなコロナ対策をしてこなかった政府は、それでも感染者数の増加の発表に対して、緊急事態宣言を発出したりすることで、それを抑制しようという方向性は示していた。もちろん、そのやり方は稚拙であり、国民が経済活動を通じて生きているという感覚を無視した、勝手にやらしておけ、政府は基本的にはなにもしないので、自助自助だ、というスタンスであった。要するに自粛を強くすすめるという圧力をかけるだけで、それに真面目の取り組んだ結果、収入が減ったことに対してはほとんど補償もない。あっても手続きに時間がかかったり支払いに時間がかかったり、その量が全く足らない状況であったり、返すことを想像するのも大変な時期なのにも関わらず、融資しかしないというやり方だったり、対象になる条件を異様にきつくしたりで、基本的には補償を回避したくてたまらない姿勢のみが印象付けられるものであった。
そんな仲行われようとしているのが、東京五輪である。昨年行われる予定だったが、コロナの蔓延で当時の首相が延期を決めたのだ。しかし、1年後の設定するというコロナの収束がいつになる変わらない状況での短すぎる延期の期間については当時も議論になったような気がするが、安倍首相(当時)が無根拠の自信で、国産ワクチンができるとかなんとかということでゴリ押ししたのが始まりであった。よせばいいのに、その予定通りの開催にこだわった結果が、コロナの収束どころか、デルタ株と言われる感染性も重症化も高いもので、既存のワクチンでは、感染を防ぐ能力がだいぶ落ちてしまうという、感染症問題の解決を先延ばしにするものがやってきて、広がりつつある局面でやってしまうという話である。普通は、やめるでしょ、と尾身会長も当初はいっていたが、何分、政治的になってしまった分科会においては、政府に忖度した生命しか発表しなくなったのである。開催已む無しで、無観客というところだけはなんとか実現できそうなところではある。
それでも、連日報道される五輪スタッフや選手の感染のひろがりと、ゆるすぎる行動制限を考えると、市中感染の一部として外国からのいろいろな株の国内への持ち込み、そして、五輪後の各国への持ち込みが実現するというまさに描いていた最も避けたくなるような状況が起こりつつあるし、それを根本的に回避する活動諸國していないようなので、回避しようもない。ここまでで、五輪は即刻中止するべきであるのに、中止しない。
問題はコロナだけではなかった、ということをこの時点で思い出してしまうのである。
そもそも昨年テスト競技をしていたような気がするが、その中でひどかったのは、炎天下でのマラソンと東京湾!!!を泳ぐ競技である。マラソンに関しては、札幌に移転したがそれでも暑い時期ではある。そしてなにより、どうしようもないのが東京湾を舞台にした競技である。上記のリンクを改めて読んでみてもこれは、季節関係なしにここで競技を行ってはいけない、ということしか思いつかない。下水処理がまともにできていないところから出た水が漂着してくる場所での競技は少なくとも参加選手の健康問題につながってくる。汚染を除去するのに役立っていた牡蠣もヨットにへばりつくということで根こそぎ取り除いてしまった、ということで、どうしようもない水質になってしまっているのである。トイレの臭いがするというのは、人間の感覚として危機を感じないわけには行かない。こんな問題を結局放置したまま突入するのはコロナ以前の問題ではないだろうか。流石に無責任がすぎる。
なにこっちみてんの?!私のことが好きなの?と思ってしまう人もいるだろう。
好き嫌い無関心という3つの選択肢のなかでは、嫌いという選択肢は、無関心とはだいぶ異なるものである。何より意識しているのでよく見ていることが多かったりするのだ。山本太郎が安倍晋三に対してみているのはまさにこの選択肢なのだろう。よく見ている。(スーパーカブ)
山本太郎の街宣がアップデートされてて草。
— トラジロ🐯消費税なんて廃止しろ🇯🇵 (@dagjapvnxal) July 16, 2021
「自分が総理の時にやってたら良かったんですが、選挙の前になったら元気になるってどういう事やねん。
また権力取ってもどうせやりません。」 pic.twitter.com/OTaBE8uLVs
安倍晋三氏が新潟県での講演で、自分が8年間してきた緊縮財政、消費税の5%から10%への増税を実施してきたことをすっかり棚に上げて、三橋や中野の言うことを理解していることを再アピールしている動画が一部で広がっている。別にコラージュだったりするわけではなく、実際に喋ったことであろう。財務省と息ぴったりの麻生大臣も、地方の講演では似たようなことを言う。要するに、国債は必要なだけ発行すればいいという話である。それの償還の財源を気にする必要はないと。返すときには通貨発行することになるのでそりゃ財源は返すことそのものと一致するのである。通貨発行ができない我々と同じ状況ではないという話をしていた。だったら、緊縮財政をする必要もないし、消費税で社会保障費の財源を確保する必要もない。まあ、財源に関しては法人税とのバーターであったという話もあるので、ほとんど詭弁でしかなく、そもそもカネに色がついているわけでもないので、勝手に行っているだけとも言える。
そして、首相を辞めて、後任のスガの人気が落ちてきたところを見計らってこのような話を投入してくるいやらしさである。たらしこまれた人間(保守派と言われる人に多いらしいが)は、首相になったらこの人はやってくれるという機能を持ってしまうらしい。、まどかマギカのきゅうべえであれば、希望と絶望の相転移で巨大エネルギーが得られるとして大喜び視してしまう事案ではないだろうか(笑)。
それほど見え透いたことを言うのが安倍晋三であり、自らの公職選挙法関連の法律違反に関してもしれっと嘘を突き通して、自らの影響下の東京地検特捜部も忖度して動きもしない状況でこの世の春を謳歌し続けてきたのである。昨年は最長在任期間を記録した後、オリンピックができないことでやる気を無くして辞任したということもあり、なんのために首相をやっているかといえば本当に自分がちやほやされるため、としか言いようがないものである。今回の講演によルシ込みのその甘い汁が吸いたくなったがゆえの行動だろう。そしてこういう餌で刺激を与えておけば、ネットに多くいる安倍シンパやリアルのそれが連動して世論を作り出すという読みが彼にはあるだろう。美味しい汁を吸ってきた経験は半端なく、それこそ、スガには真似ができない年季の入り様なのである。
パロディーが過ぎて一体誰なのかわからなくなってしまうということもあるかもしれない。そんなおじさんも驚く出来事は一体何なのか。目先のことでは驚くが、少し未来のことは意識するのは意外に難しいのかもしれない。(ぱすてるメモリーズ)
高学歴化が進んだということは、喜ばしい可能性があるが、しかし、就職するのにかかる教育費というのも高騰することになってしまう。家庭でその費用が負担できるうちは良かったが、気がつけば学費そのものを高騰し、家庭で払えなくなる額となって、返還が必要な奨学金に頼ることになってしまう。昔は無利子が主流だった奨学金も有利子のローンが主流となり、就職前から巨額の借金を背負うことになってしまうのである。若い頃は基本的に給料が安かったり雇用も不安定になりがちな世の中となってしまっており、その重圧は半端ないものである。
そもそも正規社員として雇われるとも限らない状況では将来設計の前に、その場を生きていくことで精一杯な状況となってしまうのである。こんな余裕のない状況では、労働者としての立場も弱く積極的な活動もしにくい。当然親の収入の格差でこのような立場も変わりうるので、生まれによる格差も固定化されていく。こんな形で、分断され、活動の制限もかけられた状況を政府が放置して、技術者の裾野が勝手に広がると思っている政府があるとすればそれは随分おめでたい政府だと言えるだろう。残念ながらそんな政府は見知らぬ発展途上国の政府ではなく、我々の国日本の政府であるというのはかなり不幸なことだ。
大学生を借金地獄に貶めるのも、政府が使うカネを渋って、効果があると認めたものだけに集中するというやり方、すなわち、選択と集中という言葉を、未だに耳にする。1年ぐらい先の結果としてはそれなりに意味があると思うが、5年10年のレベルではすでにそのせいかは怪しくなってくる。選択と集中は、今の手持ちの範囲でどうにかするためのやり方であって基本的には急場しのぎの所作でしか無いのだ。要するに未来を紡ぐものではなく、なにかを切り売りして凌ぐためのかなり低レベルの対応でしか無い。これを中心の政策に吸えるということは、衰退が確定付けられているということでしか無いのである。カネに執着した対応というのは現在しか見ず、未来を食いつぶしてしまうのである。
本当のところを知ったらそりゃないてまうで。(ひぐらしのなく頃に卒)
すでにこれまでも散々協力してきたし、ワクチン接種も進めてきたという状況があるにも関わらずそれと同じことを要望するというのは、いかにも小池知事のやりそうなことである。それほど、大して効果のある施策を出してこなかったのが、小池都政の本質であろう。そもそも実現する危害も見せたことがない公約は、わざわざ検証している人もいたようであるが何一つ実現されてもいない。もしかして、小池氏本人もその公約のことは忘れてしまっているのではないだろうか。
その可能性は高いと言うか、本当なのではないだろうか。そもそも小池氏は、安倍氏と同じようにあ出会った人に対して、その人が喜びそうなことを言い放ってしまうという癖があるらしく、それによって人をたらしこむことができてきたということだ。選挙の公約などというものは、行ってしまえば選挙民をたらしこむための戯言ということにもできるわけで、やりますということが直接それに結びつかなくても、なんとなくやれそうな雰囲気を醸し出すということが彼女にとって大切なのである。
上記のもうやっている、十分に!と冷静になってみれば叫びたくなるような戯言も、まさか都知事ともあろうお方がそんな間抜けなことを言うはずがない、というバイアスを通してみれば、あら不思議、なんかいいこと行っているようにも聞こえてくるではないか。ということで、思わず小池百合子とかいて投票箱に入れたひとたちは、自分の所業が罪深いということをから現実逃避するためにもそういうことにしておくことが無難だ、と言い聞かせながら良いこと行っているなぁ、と現実逃避をするのである。もちろん、投票にすら行かなかったひとたちは、文句をつけるのだろうが、よほどの健忘症なのか、選挙の段になるとその事を忘れてしまうようである。これでは、小池百合子の天下はいつまでも続いてしまうということになるだろう。本人に自覚がないので同じようなことを続けてしまうのである。みこしを担いでいる人々や企業もその罪はおわなければならないのである。
そもそもコロナの行動制限(自粛)によって、コロナの感染の拡大が抑えられてきたという成果があるということは認めなければならない。しかし、それを続けるのは、自粛する本人の行動制限や経済活動の制限を行わなければならないわけで、それは通常の生活に必要な収入が得られなくなるということもである。昨年の4月5月の頃まではまだ余裕のあるところも多かったように思われるがその状況を1年以上も放置して、政府は補償をするという態度を積極的に見せたことは殆どないといってもいいだろう。
要するにやりはしているが、なにか及び腰で、いろいろな制限をつけては、審査に時間をかけ、審査したところで支払いに到達するまでに時間がかかってしまうと言う。喫緊の問題を解消するための補償であるのににもかかわらず、納税通知書を素早く出すレベルとは程遠いぐらいに遅いその対応は、その緊急性を理解してやっているとは言えない。
その具体的な結果として、予算化したのにも関わらず未執行の状態の予算が20丁も残っているいう事実である。スガ首相は30丁ぐらいあるとか行っていたような気がするが、いずれにしても、やるべきことができていないことがわかったということで、税収が最高額になったとかふざけたことを喜んでいる暇があったらこの予算を執行して補償を国民に届けることを夷則ごとにリソースを使ってほしいところである。
それができないぐらいに公務員が減らされているという事実も相まって、相当状況は将棋で言う所のつみに近い状況である。しかし、そのような万難に対しても諦めている場合ではないのは、このことが核の小説のことではなく現実に繰り広げられているが故である。
またこの未執行の予算を使って、やるやる詐欺に使われかねないということも注目しておくべきだろう。やらないのに20兆円が確保されているということで、やったような気がすることがずっと続くという状況を作り出そうという考え方である。政府がよく言う事業規模換算の話と共通するものがある。無いものを有るかのように見せてごまかすのだ。しかし、実際に金が入ってくるわけではなくので、廃業を選択するという中小事業者は多くなっていくだろう。少なくなる要素がない。
否定しなければならないときもある。そもそも平等に議論されていることが前提のところで明らかにいびつな議論がある場合に正論を一部入れたところで侵食されるのが落ちであろう。()やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。続)
https://news.yahoo.co.jp/articles/95b86cd9811bcf32480f7f40a37a777f7f66d955
アメリカの政界は回転ドアと言われ、金融関係の業界と人材が入れ代わり立ち代わりすることで、政策に緊急業に有利なものが取り入れられてきたという話もある。日本においてそれと同じ回転度があるのか・・まさか・・と思っいていたりしないだろうか。もう随分前からこの回転ドアは回転ドアとして機能してしまっている。回転する壁と周りの壁に挟まれて死亡事故が起こるということで多くの回転ドアが日本からなくなっているということとは別に、日本政府とと長っている回転ドアはしっかりと回り続けているのである。
その先は、上の記事にあるように、竹中平蔵とその仲間たちということである。竹中平蔵氏は、最近、ユーチューブのチャネルを解説し、一部のマニアからは絶賛されているという噂もあるが、自分自身が売国奴であるという認識はなく、かつて野党時代の自民党での勉強会で安倍晋三が口走ったように「竹中さんは愛国者、ですから:という言葉よろしく、自分は国のためにやっていると言う。貧乏になる自由、カネ儲けの邪魔をしないでくれ!という言葉でわかるように、どんなずるいやり方でも周りを貧乏にして勝ち上がることが、成功者の証でありそういう人がぞくぞく出てきてほしいということを慶応大あるいは現在在籍している東洋大で教えているのかだろうか。
もちろん大学教授などは片手までできるお仕事であり、本業は人材派遣会社にして、大阪などの役所の窓口業務などを多く請け負っているパソナの会長職である。そんな業界の影響力を持つ人間にして、政府の諮問会議の中心人物で有り続けている。労働に関する提言すら出しているようではあるが、明らかに正規社員を減らして、ナカヌキピンハネで労働者には楽賃金を大きく貶める人材派遣業の反映をもたらそうという活動をつづけている。その儲けられる環境と引き換えに残された社会は、多くの労働者がその働きに見合わない低賃金しかもらえない状況が工場化してしまい、結婚して家庭を持つという選択肢さえ、贅沢になってしまっているという、どう考えても社会に未来が見いだせない状況を作り上げて、無視を決め込んでいたりするのである。
そういう中心人物を要するのが、上記の記事で言う竹中平蔵グループと酔われる人脈である。先まで参与をやっていた高橋氏などは、政策工房という会社で、国家戦略特区の関連のビジネスをいているが、そもそも国家戦略特区そのものが竹中氏肝いりのものでそれを発展させたものがスーパーシティ構想という、人を情報材料扱いして、人としての扱いをよりなくすことでカネ儲け津につなげるというゲスな考え方である。
そういう人脈に支えられている自民党スが政権は、基本的なところからろくでもないことは手にとるようにわかることだろう。これに関して無視を決め込んでいるとどこまでも侵食してくるのである。そもそも竹中平蔵氏は、正規社員という存在を潰したくてたまらないのである。