今回は演奏会の感想ではなく、別の話題を。
「好きな作曲家100選」シリーズの第4回である。
前回の第3回では、12世紀の南フランスの聖歌や吟遊詩人ジャウフレ・リュデルのことを書いた。
そのあと1200年前後になると、文化の中心は南フランスから北フランスへと移っていく。
北フランスの小さな地域のみを支配し、有力諸侯たちと同程度あるいはそれ以下の実権しか持っていなかったフランス王家のカペー朝は、この頃になると次々と領土を増やして力を付けていく。
その首都パリも、田舎の一都市から脱却し繁栄していくことになる。
また、教会の権威が頂点に達したのもこの頃である。
教皇インノケンティウス3世は、「教皇は太陽、皇帝は月」と演説したと言われる。
西ヨーロッパ各地に立派な教会が次々と建ち、人々に神の威容を知らしめた。
その建築様式は北フランスを中心に、半円形アーチの質実剛健なロマネスクから尖頭アーチの華麗なゴシックへと移行していき、ステンドグラスの極彩色の光は神の恩寵を模した。
パリで初期ゴシックの様式によるノートルダム大聖堂が建てられつつあった1200年前後、ここは新しい音楽の拠点でもあった。
この大聖堂では、サン・ヴィクトールのアダン(?-1146)、アルベルトゥス・パリジェンシス(?-1177頃)といったカントル(先唱者、聖歌隊長)たちの後に、レオニヌス(1150頃-1201頃)、続いてペロティヌス(1155/60頃-1200/05頃以降)という2人の作曲家が活躍した。
この2人を指して、ノートルダム楽派と呼ぶ(彼ら2人以外の作曲家については、現代に名が知られていない)。
彼らは、グレゴリオ聖歌の定旋律を長く長く引き伸ばして極度に遅いテンポとし、その上声部に動きの速い技巧的な対旋律を重ねた、クラウズラという新しい形式の聖歌を作った(狭義には、下声部のメリスマ部分と上声部の活発な対旋律とがディスカントゥス様式の対位法を繰り広げる箇所のことをクラウズラと呼ぶそうだが、ややこしいので詳細は省く)。
クラウズラは、毎日歌われる聖歌ではない。
フランス王国の首都たるパリで、重要な祝祭日においてのみ歌われる、特別な技巧を凝らした豪奢な音楽の調度品だった。
レオニヌスは2声で、ペロティヌスは3声や4声でクラウズラを書いている。
いくつもの声部をもつ手の込んだペロティヌスの曲も良いが、ここでは私の好みにより、古雅ともいうべき落ち着いた明るい魅力を持つレオニヌスのほうを取り上げたい。
レオニヌス(レオナンとも呼ばれる)については記録が少なく、彼が本当に実在したかどうかさえ定かではないのだが、それでも彼の音楽がいくつか現代まで残されており、作品自体の存在には疑いの余地がない。
彼の代表作の一つ、「地上のすべての国々は」(Viderunt omnes)の冒頭部分(なお全曲聴くにはこちら、YouTubeページに飛ばない場合はhttps://www.youtube.com/watch?v=ghpPrR1K1zo&list=OLAK5uy_mUnm8GXck6La4R-2CMHirV-dvgGzJgJI0&index=3のURLへ)。
パリのノートルダム大聖堂は、私が見ることのできぬ間に焼けてしまったけれど、スイスの教会には行ったことがある(その記事はこちら)。
ゴシックの教会のあのがっしりした質感とダイナミックな装飾、内部のひんやりした空気、そして柔らかなステンドグラスの光。
そんな教会に、シンプルなグレゴリオ聖歌とは一線を画した、高度に装飾的なこの美しい歌が響き渡るのを聴いた当時のパリの人々は、まさに神の御声を目の当たりにする思いだったに違いない。
この頃に頂点に達した教会の権勢は、この後少しずつではあるが世俗権力の勢いに呑まれ、下火になっていく。
一方、パリの繁栄は未だ始まったばかり。
そんな一つの転換期を象徴する、モニュメンタルな音楽といえる。
なお、好きな作曲家100選シリーズのこれまでの記事はこちら。
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