僕にとっての中国は、
心に残るものとの出会いがテーマだ。
自分の手の届かないもの。
何十年たっても忘れないであろうもの。
そんなものに1つでも巡り会えたら幸せだ。
何かを形にしていこうとする時に、
そういうものとどれだけ出会えるか。
中国の秘境で「少数民族」の実態を
捉えるべく旅をした。
最初の2日間の記録。
いきなり濃密な旅となる。
2018年7月24日(火)
中国雲南省・昆明→南沙
僕は中国雲南省に降り立った。
午前6時。
眠い目をこすりながら、地下鉄に乗った。
市内への地下鉄が地上に頭を出したとき、
僕は目を疑った。
視界は曇り、何も見えなかった。
誰かが魔法でもかけたのだろうか。
同時に、自分は何者なのかもわからなくなった。
昆明から建水へは電車で約3時間ほどの道のりだった。
市街地まではバス。
辺りは次第に木造の立派な建築物が姿を表す。
中国という大きな国が紡ぎ出す弾かれた歴史。
500年時が止まったかのごとく存在する街。
木造と街路樹と石畳が紡ぎ出すハーモニーが美しい。
こういうデザインは好きだ。
その中で、トランプや昼寝や碁に明け暮れる人々。
中国語しか通じない観光地化されていない独自の文化圏が
まるでユートピアに思えてきた。
建水から南沙まではバスで3時間ほどの道のりだった。
途中の道のりはガタガタできつかった。
タバコを平気で吸う人、
大声で叫ぶ人、
窓から何十回もゴミを捨てる人、
クラクションを鳴らしまくって見せつける運転手、
怒鳴り合いの喧嘩をする人、
もうバス内が激しすぎた。
全員の目がギラギラしていた。
誰1人かっこいいと思える大人はいなかった。
子供はこれを見てどう思うんだろう。
周りの美しい自然とは対照的なその情景は、
自然をも飲み込む気迫があった。
これこそが良くも悪くも、
中国の力だと思った。
南沙では宿を探した。
「酒店」か「住宿」と書かれているのが宿だ。
10件くらい回って一番いいところを選んだ。
人が暖かかった。
60元で手を打ってここに決めた。
何事も最後は「人」を見て決める。
晩御飯は、近くの出店に行った。
例のごとくど田舎すぎて中国語しか通じない。
いままで食べた中で3本指に入るくらいに、
激激檄激激激檄激辛な食べ物を口にした。
それは、焼うどんのようなものだった。
見た目は普通なのだが、
胡椒を丸ごと口にしたかのような味がした。
唇の皮が破けると思ったので、
甘いジュースで流し込んだ。
その土地のものはなんでも胃袋に収める。
これが、僕にとっての「観光」だった。
どこでもいつでも
まずは「食べ物」から観光は始まる。
2018年7月25日(火)
中国雲南省・南沙→新街鎮→(名前不詳の村)→新街鎮
僕はこの日、
自分の核心的なものに2回ぶちあたった。
それは「人々の集合」と「個性の発揮」
を満たすものであった。
1回目は南沙の早朝の市場。
2回目は新街鎮の夜の広場。
南沙の朝は早い。
6時に起きるともう市場は動いていた。
延々と続く人垣。
最初に目にしたのは牛の頭だった。
最終段階だった。
ナイフを持つ裸の男は牛の頭と対峙していた。
解体された牛の骨は、市場の人垣の足元に転がった。
人々は骨など気にせず平然と歩いていた。
肉は大きなテーブルに延々と並べられた。
そのほかにもアヒルやカエル様々な生き物が
食肉となっていった。
僕はそれを見て、
生き物と人間とが一体になったと思った。
牛=人間
アヒル=人間
カエル=人間
何も恐れることなく、
何気ない神聖なる日常に落とし込もうとした。
ほとばしる血が物語る。
ほとばしる汗が物語る。
人々は生き生きとこの市場に集まり、
想い想いのメシを手に入れる。
半分は民族衣装を着た女性。
数限りなく様々な色とりどりの民族が、
この市場に集合する。
こんな生き生きとした「市場」は初めて見た。
改めて人々がきらめく、
心に残る「場」を作りたいと思った。
ハニ族が集まるという新街鎮に行くことにした。
バスがないので、タクシーを拾って2時間。
やっとこさついた。
それから、ハニ族の本格的な田んぼが見たいと思って、
タクシーを拾って1時間。
方向が間違っていることを知る。
まあ、多少棚田の景色が見れたからいいか。
最近はストーリー中毒。
別に結果なんてどうでもよくなってきている。
泊まりは新街鎮。
新街鎮は坂の町だ。
山の斜面に作られている。
昇り下りは急峻で偏りがあるのか、
一部の通りが栄え、一部の通りが空き家街になっていた。
メインの通りの両サイドには商店街がずらりと並び、
ハニ族の衣装を売っている店が目立った。
どのように衣装を作っているのかがわかり、
伝統が大衆化されていると思った。
日本で着物を着るのは特別な時だけ。
でも、ハニ族は毎日着ているような感覚。
メインの通りはとある大きな広場へと続いていた。
夜、面白いものを見た。
ハニ族の人々が広場に集まり始めた。
若者が歌を自然と歌い始めた。
女性は踊りを始めた。
子供は遊具で遊び始めた。
出店もちらほら。
踊りの質は大したことないけれども。
皆が自然とその場にいることを楽しんでいた。
これには本当に感動した。
なんで?
イベントを仕組んだわけでもないのに。
祭りの日でもないのに。
ここに集まろうと決めたわけでもないのに。
自然と皆が集まって楽しめるのだ。
こういう日常の豊かさと
場の吸引力の強さに感動した。
中国のど田舎の辺境に、
僕の作りたいもの一端を見た。
市場も広場もそうだけど、
場によって、人々は幸せになると思った。
コミュニティでもなく、
サークルでもなく、
グループでもなく、
ここでは単なる場に対する面白さを感じた。
日本に帰ってからの
新しいアイデアも浮かんだ。
今日の自分は、昨日の自分よりもほんの少しだけ
発想の幅が広がった気がする。
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