最近江戸時代の絵画グループの「琳派」に触れる機会があってので、
そのことについて書きます。
琳派?????
とはてなマークがつく方もいらっしゃると思いますが、
江戸時代の狩野派、土佐派に並ぶ3大グループの1つです。
日本史の教科書には、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』という絵画が掲載されていますが、これも琳派です。
調べていくうちに、驚きの事実がたくさん見つかったので、
ぜひシェアさせていただきたいと思い書きました。
特に芸術系の方には読んでいただけたら幸いです。
琳派とは?
主に江戸時代に活躍した絵画の流派の1つ。
俵屋宗達と本阿弥光悦が創始し、尾形光琳・乾山、酒井抱一らによって発展した。
江戸時代の初期、元禄中期、文化・文政の後期と3段階で盛り上がりを見せたのち、技法は明治時代の他の流派に引き継がれていった。
特徴は、
①世界のデザインは琳派に由来!?実は黒幕的存在。
琳派のデザインに最も影響を受けた海外の人物の一人として、グスタフ・クリムトがよくあげられる。また、琳派から変化した浮世絵はゴッホやルノワール、セザンヌなどの印象派に大きな影響を及ぼした。琳派の美学はいまや浮世絵にとどまらず、日本画、小袖などの衣装、茶道などの思想といった芸術全体の共通認識を支える存在となっている。いわば文化伝播の大元の一つだと考えられている。これは、琳派が芸術分野横断型のコラボレーション(例えば書道×絵画で作品を作るとか)によって発展したからであること、または庶民目線で発展したことが要因だと考えているが、まだ詳しい分析が必要なところだ。現代の「クールジャパン」という価値観や、アニメや漫画の「カワイイ」という美学も琳派にたどり着くという人もいる。まさに現代の芸術や文化の大きな原点とも言える琳派について詳しく見ていきたい。
②デザインの発想の幅がめちゃ広い
絵画を中心としながらも、屏風、襖絵などのインテリアから扇絵から陶芸、蒔絵、着物小袖まで「生活美術」をメインにしたため、デザイン性が豊か。日本のダヴィンチと呼ばれた本阿弥光悦の能力がそのまま流派の特徴として現れている。背景に金銀箔を用い、大胆な構図や壁紙、たらしこみ技法などが特徴。
③コミュニティと働き方に対して革命的な仕組みを持つ
琳派は基本的に家系での存続や、師匠と弟子という関係が存在しない。どういうことかというと、入門して絵を習うのではなく、先人の画風を見て自分で取り入れていくという独学による継承の仕方をとっている。これを「私淑(ししゅく)」の関係という。この証拠として、俵屋宗達だけでなく、尾形光琳、酒井抱一もかの有名な「風神雷神図屏風」を描けたという。しかし、それぞれが少しずつ違っていて、自分のオリジナリティを大事にしたようだ。より自由度があり、個人の個性が生かされるこの流派は、技術の継承や発展のためのつながりを持ちつつも、お互いの距離感が保たれることで、個人が尊重されるようなコミュニティ形成につながった。まだまだ現代は縦関係でものを教える職人や絵画などのコミュニティ、広く括れば教育システムが存在していて、それはもちろんメリットもあるのだが、それらのデメリットの部分を取り除くためにこの「私淑」という考え方が生かせるかもしれない。狩野派、土佐派、琳派といった江戸時代の主要な絵画集団の中では、唯一家系での縦関係の継承をしていないのが、琳派と言えるだろう。
8月31日京都。
時間ができたので、琳派関連の名所を観光してみた。
琳派は、他の絵画のグループとの比較により、立ち位置が見えてくる。
早朝6:00に出向いたが、法要の日でなかったので、
狩野派の絵は公開していないらしく残念。。。
室町時代から江戸時代は、幕府の襖絵を描き続けた狩野派と、朝廷の襖絵を描き続けた土佐派という2つの絵画の流派が主流だった。
そんな中で、琳派は主に江戸時代に民衆に近いところから発生し、
民意の目線で発展を遂げたという特徴をまず押さえておく必要がある。
宗達が下絵を描き、光悦が上から書を書いた。
その舞台が京都の金閣寺の北に位置する鷹ヶ峰という土地だった。
79歳でなくなるまで、20年あまり創作ざんまいの日々を過ごしたと言われる。
金工、陶工、蒔絵師、画家、筆屋、紙屋、織物屋、豪商、武士、公家、僧など広範な人々に呼びかけて、村の賑わいを作り出したと伝わる。
これは村づくりの手がかりがあるに違いない。
その本拠地となったのが、光悦寺(光悦村)と呼ばれる場所だ。
早速行ってみることにした。
美しい緑にかこまれた石畳が入口となっている。
緑の絨毯は本当に美しい。
心が洗われた。
途中から、村の境界に柵が出現する。
光悦垣と呼ばれる垣根だ。
とても美しい。
こちらが、最奥にある本阿弥光悦がいたと言われる庵だ。
縁側に腰掛けて目を閉じると、風の音のみが残る。
自分の体が風に誘われて、心洗われる。
光悦が作りたかった村は、まさに洗練された村だった。
とにかく美しさを徹底的に追求して作った最善の美がそこにあった。
ジブリの森のような自然のワクワク感と、
静けさが今はなき住人の生き様を思い起こさせた。
お堂に手を合わせた時、
自分が何か特別なものに対峙しているかのように感じ、
畏敬の念をどう表現すべきか自然と体に訴えかけていた。
ゆかりの寺をあと2つ訪れた。
こちらは源光庵。
「迷いの窓」と「悟りの窓」が有名なところで琳派とも関わりがある。
迷いの窓は四角くて、生、老、病、死の四苦八苦から人間の生涯を表現。
悟りの窓は丸くて、善と円通の心を表し、大宇宙を表現。
禅の境地が込められているという。
こちらは常照寺。
本阿弥光悦が土地を寄進し、その子の光嵯(こうさ)の発願で、日蓮宗の寂照院日乾上人を招じて開創されたと言われる。
日乾上人に帰依した吉野太夫が寄進したとされる吉野門が美しい。
もみじと色合いがぴたりと合っていた。
次に向かったのが、建仁寺だった。
この絵画はみなさん見覚えあるだろうか?
ただし、それぞれ少しずつ描き方に違いがあったらしい。
金箔でシンプルな背景と中心の三角の余白、左右非対称は大きな特徴としてあり、
雲のたらしこみ技法は共通の部分と言えるだろう。
(たらしこみ技法とは、絵の具が乾かないうちに、他の色を垂らすことで2色が絶妙な加減で混ざること。簡単にいうと、芸術表現レベルの「にじみ」のことだ。)
庭を見た瞬間、
あまりのすごさに息を飲んだ。
赤、黄、緑、色とりどりだ。
しかし、優しく押し付けがましくない。
僕の根底に眠っていた感性が奥底から研ぎ澄まされ、
これこそが自分の求めている、
自然から湧き出た美であると感じた。
最後に見たのが、雲龍だった。
天をも切り裂くほど力強い龍は見る者を圧倒する。
日本画家の小泉淳氏の作品だ。
琳派のデザイン性は、
私たちに大きなメッセージを残している。
既成の概念とか、
組織のルールとか、
縦社会などに縛られ逃れられないものもあるけど、
よりよく学び、よりよく表現する術を
必ず知っているはずだ。
鍵になるのは、コミュニティやコラボレーションと行った概念を
どう作っていくかだと思う。
基本的には目線を合わせた水平関係を築くことは大事だと思った。
そして、デザインの根底には全て自然(nature)が存在していて、
最も美しいものに到達する鍵を握っていると感じた。
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日本の琳派の考え方は個人的には、中国の荘子の考え方である『老荘思想』に近い部分もあると思う。老荘思想の特徴は、何ものにも束縛されない絶対的な自由を求める。制度や罰則、管理や競争といった中央集権的な考え方を否定し、物事の美醜や善悪、好悪に本質的な違いはないとする。とても哲学的で小説家的な発想だとも思う。幸せは他人が定義するものではない。今東京の一極集中から、地方への流れが加速して、人口減っている地方をどうにかしなきゃという議論がおこっている現代において、各地方が自治の力を強めていくかまたは、自分たちの城を持ってコミュニティつくって、中央集権的な大きな力とは別の意思決定や経済を回す仕組みが必要になってきているはずだ。より最小単位で意思決定して、自由度と個人の最適性を高めていく考え方は今後必要だと思う。琳派にせよ、荘子にせよ、歴史は繰り返すと言うし、こういう歴史から学んでこれからの自分の活動のロジックを組み立てていくのは、とても有意義だと感じた。