民俗学とは?
これまでの国史といわれるものにただの一頁も跡をとどめなかった
(民俗学研究所発足の言葉より)
つまり、歴史学がカバーできなかった民衆の歴史を探求して、
今日の生活を反省して、未来の人の幸せに生かそうという学問である。
民俗学の特徴
「在野の学問」
民俗学研究とは世の中のあらゆる分野に関わることでもあり広義的である。自らの調査体験の積み重ねや隣接諸学との交流の中で方法論を磨い
(僕は学生時代に30個以上バイトをやったいわゆる飽き性であるが、これは民俗学的に言えば理想的な状態。フェアトレードの事業立ち上げも古民家活用も全部この民俗学的アプローチ。)
民俗学の着眼点
・分布状況
どのように研究対象は伝播していったのかを見る。
・多様な変化系
どのように伝播の過程で変化していったのかを見る。
・バリエーションの存在
各地方ごとにどのようなバリエーションの違いがあるのかを見る。
(ex.方言とかが例えとしてわかりやすいかも。古民家でも一緒。)
これは、たぶん交差交換や相転移ともつながる考え方。
要は、水が冷凍庫の中だと氷になったり、沸騰したら蒸気になるのと一緒で、
環境が変われば状態が変化するということ。
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民俗学に関係する人物の特徴をまとめておく。
<民俗学までの系譜をになった人>
・本居宣長(1730~1801)
国学の研究者で、「古事記」や「源氏物語」の研究などを行った医師・文学者・教師。民俗学的な観点を持っていたが、実地調査をしなかった点が特徴。民俗学を創設した柳田國男は、民俗学の系譜の第一人者を本居宣長とする。
・菅江真澄(1754~1829)
旅人で、旅日記・随筆・地誌といった文章を書き、絵を描いて暮らした。最後にたどり着き定住した秋田で書いた著作は民俗資料として高く評価されている。また、国学、医学、本草学の知識が深かったと言われている。
・平田篤胤(1776~1843)
オカルト研究の第一人者。やりたくもない雑用に耐えながらも、体力がすごかったようで、作家としての道を切り開く。帰納法を重視した柳田國男とは異なる演繹法のアプローチで研究。最大のテーマは、生と死の世界に存在する霊魂のことであった。
・坪井正五郎(1863~1913)
日本の人類学の先駆者であり、考古学の開拓者。日本の石器時代の人はコロポックル(アイヌの伝承で登場する小人)であったという説を唱えた。柳田國男と南方熊楠を結びつけた人物。各個別の文化に着目するのではなく、どうやって成り立っているのかという仕組みを大きく捉える点が、民俗学と異なる。
<民俗学創始に関わった3人>
・柳田國男(1875~1962)
日本の民俗学の創始者。研究者でありながら、農務官僚、貴族院書記官長、枢密顧問官なども務める。歴史学から端を発し、民俗学を民の歴史として生活に役立てようとした。
・折口信夫(1887~1953)
柳田國男の一番弟子であり、民俗学者・詩人。マレビト論争で柳田との対立があったように、学者としての道を貫きつつ、民俗学の基礎を創る。
・渋沢敬三(1896~1963)
渋沢栄一の長男であり、銀行員。大蔵大臣も務める。柳田と出会い、民俗学に傾倒。常民文化研究所や民俗学博物館建設を行うとともに、漁業史の分野で功績を残した。
<周辺領域で友好関係にあった人>
・新渡戸稲造(1862~1933)
農学者、教育者であり、国際連盟の事務次長も務める。東京英語学校、札幌農学校をでたのち、アメリカに行く。そこで書き上げた「武士道」がベストセラーになり、各国語に翻訳され、ルーズベルト大統領の目に留まる。その後台湾で、サトウキビの改良や市場に関する意見書を提出し、財政の独立に貢献。その後、国際連盟の事務次長になる。
・南方熊楠(1867~1941)
博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者。粘菌・キノコ・藻類・コケ・シダなどの研究、高等植物・昆虫・小動物の採集などを行う。学生時代は日本で過ごしたのち、イギリスで研究を行い「ネイチャー」に51本の論文をのせる。これは単著としては歴代最高記録である。帰国後は柳田國男との交流を深めながら、雑誌に論文を掲載。大学を退学、フリー研究者として旅をして、サーカス団でお金稼ぎ、暴力事件、酒飲みなど数々のエピソードがある。孫文や昭和天皇からも高く評価される。
などなど、紹介しきれないくらいたくさんの人が
民俗学に関わってます。