坂の上の雲 六  作:司馬遼太郎 | 私の備忘録(映画・TV・小説等のレビュー)

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日々接した情報の保管場所として・・・・基本ネタバレです(陳謝)

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六巻感想
黒溝台会戦。積極的なグリッペンベルグ大将の攻勢に、危機的状況に陥る日本陸軍。
指令部の判断ミスにも、決して退かない信念の好古が窮地を支えた。
ここでクロパトキンは、グリッペンベルグに支援の手を伸ばさず退却を命じた。それに救われた日本軍。
本巻でバツグンに面白いのは「大諜報」の明石元二郎。

当時の百万円という大金を与えられて、ロシア革命分子に次々と接触し、内部崩壊を促して行く。
旅順から解放された乃木軍は、奉天会戦に向けて北進。
一方バルチック艦隊は、インド洋で二ケ月もの間足止めを食う。

奉天の地で高まる緊張。
敵に対して劣る勢力で、精妙な仕掛けの作戦を考える児玉・松川。

果してうまく行くのか。七巻に続く・・・・



坂の上の雲 六 あらすじ

黒溝台(承前)
明治38(1905)年。
グリッペンベルグの部隊による作戦が発動した時、好古の重なる報告を黙殺していた司令部。後の戦史の表現で「黒溝台ノ一戦ハ俘虜ニ起リ、カツ我ガ弱点ヲ衝カル」とあるが、不慮ニ起リ、では済まされない。
当時の秋山支隊の構成。
支隊主力-李大人屯付近(司令部)
三岳支隊-韓山台付近
豊辺支隊-沈旦堡付近
種田支隊-黒溝台付近
1月20日時点で、騎兵斥候の情報を集めながら好古は、敵の大規模攻勢を確信していた。総司令部が気付くまでは自力でやるしかない。

40キロに亘る戦線を八千そこそこで守っている。
好古の戦法は「拠点式陣地」。その四大拠点が先の場所。三万やって来ても何とかやれる、という自信があったが、実際に来たのは十万。

総司令部は、斥候15騎が2騎で戻って来た事故でようやく敵の南下を知り、第八師団を増援に出したがその数は一万数千。

1月25日に出動したが、既に遅かった。
この時、秋山支隊の前にはシベリア第一軍団が、全兵力をあけて襲いかかっていた。
最初好古は、敵攻撃の力点が沈旦堡とは見抜けず、韓山台から突出している金山屯へ守りを展開した。

その後沈旦堡の豊辺大佐の拠点に攻撃が集中。
26日になって敵の意図を全て知った好古。

彼らの大作戦が成功すれば、日本側の全軍が崩壊する。

好古が警告し続けて来た予測が、不幸なほどの正確さで的中。

師団長立見尚文率いる第八師団と増強の一個旅団(立見師団)は、黒溝台救援のために出動し、零下35度の中不眠の行軍の末、26日朝に大台の地辺りまで進出した。
第八師団参謀長の由比光衛中佐が、黒溝台の悲惨な戦況を見て、一旦ここを捨ててもう一度奪還するというふしぎな戦法を思い付いた。

それはまるで諸葛孔明の戦法の様な複雑なものになる。相手が乗って来る保証もない。だが相談された立見が同意した。由比は更に総司令部に電話を入れ、参謀の松川敏胤にも計画を話す。

細工が細かすぎると言ったが、現場の裁量として許してしまった。
黒溝台の種田としても、総司令部の出す退却命令であり従った。

この間、守備の責任者である好古には何のあいさつもなかった。
後にこれを知り、極めて不満だった好古。
この状況下で最も重要だったのは黒溝台と沈旦堡。

結局沈旦堡の豊辺は、黒溝台以上に苛烈な攻撃を受けたが持ちこたえ、押し返しの支軸となった。
いずれにせよ、黒溝台の一時放棄から、事実上の黒溝台会戦が始まった。

立見師団二万は、黒溝台から退却した種田部隊を収容した。

あとは再び黒溝台奪還の任務。
だがロシア軍は、奪った場所を大規模に陣地化し始めた。
捨てた陣地を拾い直すために本格的な攻めが必要になる事を知って、不快となる立見。
だが事態が急変。立見師団が三方からの敵に囲まれた。

それはロシアなりの戦略。秋山支隊の各拠点は窮地に陥った。立見師団は黒溝台奪還どころか、どこの拠点の救援も出来ない。
これに対し総司令部は、最も拙劣な「兵力の逐次投入」を行い、いたずらに損失を増やした。

秋山支隊の守りを「点」とすると敵は「面」としてやって来る。

この好古の拠点防御方式に最大の威力を発揮したのが、彼が配置した機関砲。好古は10年前からこれを騎兵に装備するよう進言し続け、やっと手に入れた。
好古の各拠点が辛うじて潰れなかったのは、この兵器のおかげだった。
ある時、豊辺大佐の伝令がやって来て、馬を後方に下げたいと言った。彼が生きていること自体が奇蹟。

だが好古はそれを否定した。馬がいなければただの歩兵。
「騎兵は馬のねきで死ぬるのじゃ」ねきとは傍(そば)の伊予ことば。
結局豊辺部隊の馬の死傷は百五十頭に及んだが、好古は「あれでええ」と言った。

この間、各小拠点の日本軍小部隊は、退却が相次いだ。

ときに全滅に近い打撃。
だが放棄した黒溝台を除いた三拠点は、一点も退却しなかった。
日本騎兵は穴ぐらに潜ってコサック騎兵、ロシア砲兵と戦い続けた。

総司令部はようやくグリッペンベルグの、我が左翼を突破し後方へ出て包囲するという意図を知り、大決断を迫られた。

それは、右翼を守る黒木軍をごっそり抜いて応援に回すこと。
黒木軍の第二師団(仙台・西島中将)が行軍を開始した。
これに加え奥軍の第三師団も引き抜き救援に回した。
秋山支隊への応援が、通計四個師団に砲兵二個連隊といった巨大兵力となった。
これを「臨時立見軍」として立見中将に任じた。

だが年次の古い中将もり、命令系統の混乱もあったため、合流した師団長の多くは直接司令部の指揮を受けた。

秋山支隊の危機は続く。とにかく好古の大局を見る能力だけが頼りだった。この左翼が崩れれば全日本軍が崩壊する。

死守だけが唯一の戦略。
砲撃に次いで歩兵による攻撃が仕掛けられるが、この拠点の三挺の機関銃の威力は物凄く、ロシア軍に千人以上の死傷者を出した。

「臨時立見軍」が連携活動を開始したのは28日朝から。拠点の一つを奪還したのを皮切りに韓山台に入り、金山屯などを砲撃した。
そして11時弘前師団が敵の包囲から解放され、黒溝台へ向かった。
だがここはロシア軍が強化して容易に落とせない。

立見は師団全軍での夜襲を宣言した。
そして応援も含めそれは実行され、黒溝台占領が完了したのが翌日午前9時半。


この黒溝台会戦は、1月29日黎明のロシア軍退却を以て終わった。
グリッペンベルグ大将があと一日戦闘を続ければ、総司令部自体が追われる事になっただろう。更にこの時クロパトキンが大兵力で、兵を抜いた中央及び右翼を攻めれば日本軍は潰滅しただろう。
クロパトキンは、グリッペンベルグ大将に退却を命じた。それは日本軍による中央攻撃のため。要所を守っていた日本軍の中央・右翼は兵力を抜いたことを覚られないよう、偽装攻撃を仕掛けていた(それも微弱な)。クロパトキンの過敏な神経が、それに見事に反応した。
兵力の一割は失ったが、残り9割の兵力を残したまま作戦中止させられたグリッペンベルグ。
この晩彼は、将官たちの前でクロパトキンを罵ったという。
この命令を最初無視しようとしたが、それをすれば自分か孤軍になる。
グリッペンベルグは29日朝、北方に去りつつペテルブルグへの辞職願い電文を起票した。
この作戦の後ロシアへ帰ったグリッペンベルグ。クロパトキンは、名実ともに欧州ロシアの実権を握った。

グリッペンベルグは、新聞にクロパトキンを攻撃する文書を報道させたが、彼にとって大した影響はなかった。


黄色い煙突
バルチック艦隊が、アフリカ東岸のマダガスカル島にある漁港ノシベに投錨したのは明治38年1月9日。

その後旅順が1月2日に陥落したのを後から聞かされた。
さらに黒溝台の会戦でロシア軍が内部事情により、その攻撃が挫折したのが1月29日。ロシア陸軍二将軍のうちの一人が去った事情も含め、新聞報道で知った艦隊員。
「専制国家はほろびる」と予言した米大統領セオドア・ルーズベルト。二流、三流の人間に絶対権力を持たせる事の危険。

その結果彼らはこの不健康地に二ケ月以上待機させられた。
この艦隊がこの様に長く留め置かれた理由は「石炭問題」
海軍は維持に高額を要するものだが、とりわけ石炭の購入費が大きい。この膨大な航海のための、ゆく先々での石炭補給がどれだけ困難なことか。
ロシアは洋上補給の一切をドイツのハンブルグ・アメリカン社に請負わせていたが、良質な石炭を英国が売らなくなった。

その結果やや品質の劣るドイツ炭を供給したため、ロシア政府とハンブルグ社の訴訟問題になった。それがこじれて埒があかず、ロシア政府はその問題を「現地で解決せよ」とロジェストウェンスキーに任せてしまった。これは酷な話。石炭裁判は長引き、それが本国での革命さわぎと相まって、水兵たちの厭戦気分を深くした。

32歳の若い技師ポリトゥスキーは新戦艦に対する知識から、ロジェストウェンスキーの幕僚の一人に入っていた。

彼の忙しさは言語に絶した。大小の艦艇から届く、故障の訴えに対する対応。時には修理現場につきっきり。
その十分な才能で困難な義務を果たすポリトゥスキー。
一方ポリトゥスキーは、旅順艦隊と戦った旗艦ツェザレウィッチの新聞記事に注目した。黄海海戦の時「運命の一弾」で操舵員死亡のため旋回運動した艦。同艦はその後膠州湾に逃れ、武装解除されて世界中の晒し者になった。だが主砲砲弾を15発受けても沈没はしなかった。それを「装甲の勝利」として自信を持ったポリトゥスキーは、その事をロジェストウェンスキーにも上申した。

だが彼は、日本の通常弾の「下瀬火薬」の威力までは知らなかった。
海軍が用意する砲弾には通常弾と徹甲弾がある。

徹甲弾は装甲版を打ち抜いた後爆発し、内部を破壊する。
東郷艦隊でも徹甲弾を持っていたが、膅発(砲内での爆発)を起こす危険があり、通常弾の運用を基本としていた。
他方、ポリトゥスキーの心配の一つに「復原力」があった。艦が傾いた時、元に戻ろうとする力。この新戦艦群が持つ重心の高さ。

ロシア艦は上部構造物が多かった。その上部重量増を浮力で補うため、ロシア艦の艦体下部断面はフラスコの尻の様に広がっていた。
安定感がありそうに見えるが、こうした艦に被害が生じて傾くと、復原性がガタ落ちになる。
ロジェストウェンスキーは、艦隊を率いて出港する2日前にこの欠点を技術会議メンバーから警告された。

具体的には「波浪下での戦闘は危険」
「本日、天気晴朗なれども波高し」の名文が生きてくる。

開戦に至る「原理」より見た日露比較。
この帝国は、独裁皇帝と、批判機関を持たない側近とで極東侵略政策をおこし、日本を挑発した。
対する日本は、天皇の統帥は形而上的で、その運営は国会の付託を受けていた。莫大な予算で海軍力増強を行ったが、それを使いこなす練度を得る期間も計算に入れ、この戦いに臨んだ。

バルチック艦隊はいつ出港出来るかも分からない。ドイツ石炭会社との紛争。本国からの訓令のあいまいさ。

そしてネボガトフ少将率いる第三艦隊との合流。
長期の停船はバルチック艦隊の船底に海藻や貝殻を密集させた。
一方旅順の陥落は、東郷の艦隊に修理と掃除の時間を獲得させた。
東郷が真之ら幕僚を従えて2月6日、東京を発ち、呉で修理の終わった三笠を見た。
この間、黒い艦体と黄色い煙突を持ったバルチック艦隊はノシベの酷暑の中にいる。


大諜報
この時期駐英大使を勤めていた林董(はやしただす)は、日英同盟の恩恵もあり、国際情勢の判断を誤ることがなかった。
ロンドンの日本公使館の駐在武官 宇都宮太郎中佐は、黒溝台会戦の前触れも東京経由で現地軍に伝えたが、それを黙殺した総司令部。

戦場諜報より国際諜報の方が優れていた。
ヨーロッパ事情に精通した宇都宮に対し、ロシアそのものの国内革命を煽動した者に、明石元二郎がある。
ロシア専制主義を明石に語る宇都宮。

ロシアに三千五百万居る農民のうち二千万は「農奴」
これは地主貴族の私有物であり、売買さえもされる。ごく最近この農奴制は廃止されたが、旧農奴の民は更に困窮して今に至る。
ロシアは必ず倒壊すると言う宇都宮。その属国として苦しめられているポーランドやフィンランド。地下で続く独立運動。

明石元二郎については以前少し触れた(四巻 遼陽の項)
福岡藩の出身で秋山好古と同様、窮迫のあまり全て無料で勉学出来る士官学校に入った。卒業は明治16年であり概ね上位の成績(仏語は一番)だが図学が悪かった。

ただし当時の教師の評価が間違いで、優れた構成力を持つ。
服装の感覚にまるで鈍感で、自分の姿を制御するあたまがなかった。
陸軍大学校を出てからドイツ留学を命ぜられ、懸命にドイツ語を学んだ。明治34年にはフランスで公使館付武官となりフランス語に没頭した。そして明治35年に駐露公使館付となる。
ここでも明石はロシア語をひたすら学んだ。

その教師は大学生のブラウン。この時期、明治36年で40歳。
宇都宮が話したロシアの現状分析を黙って聞いていた明石だが、彼が着任から開戦までの短期間に得たロシア観も、ずば抜けたものだった

。日露戦が終わった明治39年に彼は「露国史」という長文のエッセイを参謀本部に送った。

これほど優れた「ロシア小史」は容易に見つからない。

日露開戦の直前、児玉源太郎は明石に、ロシアにおける革命指導を命じた。それは開戦前明石が、ロシア国内の不平分子に資金援助すれば内部崩壊すると提言していたため。
それで明石に百万円を渡した。

当時日本の国家予算が一億そこそこの時の話。
開戦により明治37年2月8日、ペテルブルグの日本公使館を引き上げた公使の栗野慎一郎は、スウェーデンのストックホルムに公使館を移した。それに同行する明石。
ストックホルムに栗野らが着いた時、多数の歓迎を受けて驚いた。小国日本がロシアに宣戦したことへの歓迎。スウェーデン外交は、ロシアに対する恐怖を中心に動いていた。
スウェーデン国王オスカル二世からも強い思いを伝えられ、落涙する栗野は明石を紹介した。

明石が会いたいのはフィンランド憲法党首領の「カストレン」。

この名を教えたのはロシア語教師だったブラウン。フィンランドへのロシアの暴政と、それに対する地下運動も教えてくれた。
「カストレン」という名だけを資産にこの地へ乗り込んだ明石は、ストックホルム駅で通訳の大使館員にその名と住所を教えて、連絡が取りたいと言った。仲介もなく、偽名も使わない。
歩いて日本公使館に行く途中で、フィンランド人に声をかけられた。日本の勝利を祈るといった相手。こちらは明石と名乗るも、相手は警察を警戒し、名乗らず去った。
伝令を頼んだ通訳が帰って来て、カストレンから断られたという。
ホテルに入った明石に訪問者。彼が差し出した封筒に入った紙片に「カストレンの親友たるコンニー・シリヤクス」とあった。
このシリヤクスはフィンランド過激反抗党の党首。驚く明石。シリヤクスも、この様な素朴な方法で接近しようとした明石に興味を持ち、また一目見て信頼出来ると見抜いた。カストレンの名を知ったいきさつも正直に話し、それを信じたシリヤクス。


ロシア帝政と戦う我々は同志と思っていただきたい。あらゆる不平分子と懇意になり、革命を援助したいと言った明石。

そのために革命家の一大会合を開いてほしい。
早速シリヤクスは明石をカストレンに紹介した。そこで明石はもう一つの重要な案件である、ロシアに対するスパイ活動の依頼を行った。

シリヤクスがそれに難色を示すと、むしろカストレンが乗り気になってスウェーデン陸軍の参謀本部から辿り、ベルゲン少尉という者を探偵としてロシアに派遣する話を決めてしまった。
明石が大仕事をしたというより、全ての情勢が出来上がっていて、彼を待っていた。

明石は、与える金をどのようにして支出すべきかもカストレンらに相談した。同志のリンドベルグという豪商が、為替や出納一切をやってくれるという。リンドベルグはその仕事を最高の愛国行為と言った。彼はその後非常な親日家となり、のちに日本政府が彼に名誉領事を頼んだ。
明石は彼らを知ることにより、次々と地下運動の志士を知った。
彼がこの地に来てからわずか五日後に、フォンランド独立志士の秘密大会が開かれた。もちろんシリヤクスたちの尽力。

その同志全てに明石を引き合わせた彼ら。
非常な驚きだったのはシリヤクス夫人の美貌。

米国人で溌剌とした才気。

さらにこの大会に意外な人物がいた。黒溝台会戦の実行者、グリッペンベルグ大将のいとこだというグリッペンベルグ男爵。

フィンランド憲法党の要人で追放中の身。
純露人革命党メンバーとして、ロシア鉄道大臣ヒルコフの弟、ヒルコフ男爵も出席。

約二年間の明石について回った幸運。その第一はシリヤクスからの信頼をかち得た事だが、彼の戦略眼も大きな要素。
小国フィンランドは、昔スウェーデンに併合されていたのがロシア帝国に領有された。小さく気の毒な国という存在。

そういうフィンランド精神の権化がシリヤクス。

彼はロシアを含めた全ヨーロッパの不平党の大会をパリで開くと決め、そのための行動を開始した。ヨーロッパ各地を回る遊説での地固め。それに明石も同行し、革命運動の名士と知り合った。

ある日ロンドンに行った明石は、シリヤクスが紹介したという「モト」の来訪を受けた。赤ら顔のひょろ長い男。ポーランド社会党の常務委員だという。ポーランドの悲惨さを、言葉の限りしゃべる。

ロシアの属邦の中でも圧政が敷かれていた。

ポーランドの農民が徴兵され、日本軍と戦わされているという。
彼の目的が分からないが、辛抱強く聞く明石。

彼の言うにはポーランド兵に反戦文書を配り投降を勧め、更に日本軍ポーランド部隊を編成すべき。
さすがに奇想天外なので、駐英公使林董経由で大本営に報告したが、一笑に付された。

だがこれにより、ロシア軍内部の重要な疾患を日本側は知った。

シリヤクスと明石が遊説で南欧を回っている時に、ロシア革命前期最大の指導者とも言えるチャイコフスキーからの手紙をもらった。

声をあげて喜ぶシリヤクス。各国を亡命していたが、日露戦争を革命の好機ととらえたのは他の志士と同じ。

彼の同意はシリヤクスの計画を大きく進めた。
明石は大会の成立を祈ってはいるが、主義主張を異にする者たちの統合に疑問を持っていた。
だがシリヤクスは、革命家としての楽天性と執拗さを持っていた。
「ロシア帝政という共同の敵をたおすために」というそれだけの言葉を説き回った。
レーニンはシリヤクスの提案に好意的だった。大会には出席しないものの、協力を明言した。

ポーランドは、西方のゲルマン文化を東方のロシアに受け渡す役割をした。国家としての歴史もロシアより古い。文化の高さもあってロシアを軽侮している。日本人を殺すのは、民族のために有害でさえあった。
だからこそ、ポーランド人をこの大会に引き入れへばならないと思う明石。
だがポーランド社会党首領のヨ-ドコーが訪れ、明石を日本のスパイだと言う者がいると相談した。あくまでもシリヤクスの支援をしたいだけと言う明石。元来この運動がどうなろうと自分は関係ない。

それを聞いて気持ちを明るくするヨードコー。

会合は、パリ西部の個人所有の邸館で行われた。大会とはいえ五十人程度の集会。だがそれぞれ党派を代表する首領であり、その影響力は大きい。立場と利害の関係から成立が危ぶまれたが、シリヤクスの言う「まず帝政をたおしてからだ」の言葉か実を結んだ。
明石に対しても正式の出席を求められ「日本独立維持党」を仮につくり、党首として出席した。
ポーランドは一団体を除き全て来会した。穏健なのはポーランド国民党。失敗すれば永遠にロシア人の奴隷になるという恐怖が行動を狭めていた。
これに対し、過激な行動を是認するのがポーランド社会党であり、先のヨードコーが幹部。
「ブントが来なかったのは残念だが」と言うヨードコー。

ブントとはポーランド在住のユダヤ系秘密政党。
ロシア人はポーランド以上にこの地に在住のユダヤ人を殺して来た。虐殺する時にはポーランド人を使ったため、ブントの者は警戒心が強い。その事情を話して理解を求めたヨードコー。

ロシア本国からも重要人物が参加した。その中に混じっていた、痩せた気品ある婦人。六十とも四十歳とも見えた。
シリヤクスがその彼女を明石に紹介した。ブレシコブレシコフスカヤ。貴族の家に生まれ、既に30年前となるナロードニキ運動に参加したが、シベリアに送られ青春期も中年期も流刑生活を送った。

運動当時の彼女は労働者に「革命の女神」とも言われた。
彼女は1917年の2月革命でペテルブルグに帰った時は「ロシア革命の母」として迎え入れられたが、その二年後革命後のロシアからアメリカ、フランスに亡命の後客死した。
多くの革命は、政権腐敗に対する怒り、正義の情熱によって成立するが、成就した時には中軸となった集団以外の者は排除される。

ブレシコブレシコフスカヤが国外に逃亡しなければならなかったのは、そういう革命の公理によるものだった。
彼女は明石に、数十年の長きに亘り悪魔(ツァーリズム)と戦って来たが、今やロシアの敵国である日本によりこの悪魔を倒す機会が与えられた、と情熱的に語った。

会議はシリヤクス議長の下、進行した。それは五日間に亘った。
結論。「目的は皇帝制(ツァーリズム)の打倒」。その結果いかなる党派が権力を握ってもツァーリズム以上の害を与えることはない。

打倒のための統一戦線は必要なく、それぞれの得意な方法を用いる。言論が得意な者、暴力手段、ストライキ。そして暗殺。

パリ会議以降、激烈な革命運動が各地で起きたが、その先鋒はポーランド社会党。

ポーランド主要都市でストライキを指導し、軍隊まで出動した。
それがロシア本国に及んだ。11月から12月にかけてモスクワ、キエフ、オデッサなどで学生や労働者のデモが頻発し、政府非難の大会が催された。
パリ会議には加わらなかったレーニン系の党も、労働者を煽動した。
この運動に対して日本の報道各紙の反応は鈍かった。

海外特派員を置く余裕はないにせよ、不勉強すぎた。
当時日本の新聞は、革命勢力の徒を「不忠者」と言わんばかりの報道をした。ロシアの実情を何も知らずに戦っていた日本人。
戦後も日本の新聞は「ロシアはなぜ負けたか」の分析を一行たりとも載せなかった。
それをやっていれば「ロシア帝国は負けるべくして負けた」となる。
そういう冷静な判断をしていれば、その後の日本軍隊の絶対的優越性といった迷信は発生しなかったかも知れない。
ロシア内務大臣のプレーヴェは開戦前後「革命の毒気を払うには、ちょっとした戦争が必要」と言ったことで有名になった。

開戦直後は彼が期待した様に愛国的気分を高揚させたが、相次ぐ敗報でそれを冷ましてしまった。プレーヴェは革命勢力への過度の弾圧により、開戦五ヶ月目の頃、殺された。

大きく揺れ始めたロシア。明治38年1月からは画期的段階に入る。
露暦1月6日(19日)のネヴァ河の河祭りの日に祝砲が撃たれた時、誤って実弾が発射された。

皇帝にケガはなかったが、革命分子の仕業と疑われた。
その三日後に行われた、宗教儀礼的な請願デモ。政府はこれに対して兵を出し、一斉射撃とサーベルによる殺戮を行った。

これが有名な「血の日曜日」。死者二百人、負傷者千人。
請願デモの主導者はガボン神父。神学校を卒業後、伝道生活の中で工場労働者の悲惨さに同情し「ペテルブルグ工場労働者クラブ」を設立した。これが血の日曜日の二年前。
その団体を作ってからガボンの人気が高まった。
この日の請願は大したものではなく、儀礼的に皇帝が顔を出してくれる程度で収まるものだった。それで冬宮に向かった大衆。

だがそこに近衛連隊の歩兵が待っていた。
制止の声が良く伝わらず、デモの列が広場に入った。
それから始まったサーベルによる襲撃と銃撃。

ニコライ二世はこの日冬宮にはおらず、命令系統も不明。
三日前にあった誤射事件により、警備側が過敏になっていたのかも知れない。だが事件は衝撃を以て広がった。

「皇帝が、陳情する大衆をサーベルと小銃で殺した」
この事件はヨーロッパ諸国の、ロシアに対する心も冷たくした。
「数年の革命的教育に値するものをたった一日で成し遂げた」

と言ったレーニン。

この時期の明石は、シリヤクスらの要請で大量の兵器弾薬の購入と輸送を実行していた。小銃二万五千挺、銃弾四百万発という量。
だがこれら武器がロシアの革命分子に渡ったのは日露戦争の後。
ガボンは亡命し、国外の革命組織に身を委ねたが、1904年に殺されて死んだ。
「血の日曜日」事件後、ストライキの波は広がり、一月以降ロシアの社会不安は「革命前夜」の様相を呈した。


乃木軍の北進
旅順を陥とした乃木軍は、北進しなくてはならない。

それを聞きステッセル麾下の将官が驚いた。
総司令部として奉天作戦案は出来つつあったが、それには乃木軍が必須。若い参謀津野田是重大尉は、乃木の命を受けて1月11日、ステッセルを大連まで送った。
馬車にステッセルと夫人、幕僚のレイス大佐が乗り、津野田とロシア側随行のフォーク中将は騎乗。
進みながらフォークは今回の戦いについて論評した。

的確なものもあるが、地位が違うとはいえ、敗者が勝者にそれを言うのが滑稽でもあった。
馬車が長嶺子駅に着き、そこからは汽車。

見送りの伊地知少将に握手して特別列車に乗るステッセル。

車内では双方の戦方について彼我の批評が続いたが、団体力についてロシア軍は劣ると明言したステッセル。
彼らは大連駅から鎌倉丸に乗船し、津野田は別れを告げた。

1月14日、水師営の丘陵で戦没者の招魂祭が行われ、乃木自ら祭文を朗読した。観戦武官や中国人まで涙を流したという。
翌15日に総司令部から人事に関する電報が届き、乃木軍指令部の大移動が行われた。旧参謀のほとんどが責任を取って転出する中、乃木は軍司令官に留まった。参謀長の伊地知幸介は閑職(旅順要塞司令官)に回された。津野田は大尉参謀だったため留まった。

英国陸軍のイアン・ハミルトン卿は、各国からの観戦武官の中で最も階級が高く年長だった。
英国における南阿戦争で参謀長を勤めた人であり、侵略戦争では民族戦争をやる相手に勝つのが難しいと理解していた。

「ロシア軍は必ず負ける」という判断。
観戦武官に対してオープンだった黒木・藤井を高く評価した。
乃木と「戦争が終われば何をしたいか」という様な話もしたらしい。

故郷に帰って引退するとの返事。

二○三高地に登った時の事を、戦慄をもって報告したハミルトン。

乃木希典と軍司令部は1月24日夕刻に出発。

長嶺子駅までは馬車で行き、そこから先は汽車。

新しい参謀長は小泉正保少将。我執は強くないが、影がうすい。
道中、汽車が停止する期間があり、参謀長の小泉は用便のために立ち上がったが、誰も気づかず。便所は車内にないため外でするしかない。飛び降りたが、そこは鉄橋上。
小泉の不在に大騒ぎとなり、捜索隊が出された。

小泉は枯れた河で倒れており重傷。そのまま野戦病院送りとなった。
乗り換えた乃木と津野田は、煙台に着いた。

大山と児玉は心から喜んで迎えた。

乃木軍司令部は、新たに設営出来たものの兵隊が来ない。

列車不足によりほとんどが徒歩行軍。

今は秋山支隊が危機的状況なのに貢献出来ない。
乃木は津野田に指示して、現時点で遼陽に一番近い第九師団(金沢)だけを割き、総司令部に頼んで列車輸送にした。

これらがかろうじて日本軍左翼の急場を救った。
その他早めに着いたいくらかも支援に投入されたが、主力としては間に合わなかった。
だが乃木軍として命じられた「速やかに遼陽に兵力を集中せよ」は見事に実行された。
これには満州の山河の凍結が寄与した。

凍って固い道路は車も楽に進め、河も橋や舟が不要だった。
例の、汽車から転落した小泉にに代わって総司令部から、松永正敏少将が赴任した。高齢の55歳だが実戦上手であり乃木は喜んだ。だが顔が黄色い。
着任早々病床の人になった松永は、軍医部長の診断では黄疸。重症であり野戦勤務には耐えられない。
ベッド上からでも指揮させて下さいと懇願する松永。出来るわけがないのにそれを承知する乃木。仁者ではあったが、勝利への運営に対してどこか欠落していた乃木。結局は副参謀長の河合中佐が代行。

不幸は続く。
乃木軍傘下の第一師団長、松本中将が脳溢血で死んだ。


鎮海湾
連合艦隊は既に艦艇の修理を終え、バルチック艦隊迎撃に向かって動きつつあった。
艦隊の全力を朝鮮海峡に置き、臨機応変に行動するという大方針が内閣、大本営、東郷らの協議の上決定していた。
この時期海軍は秘密主義を取らず、記者インタビューなどにも応じた。
真之も軽口で応じた。バルチック艦隊の心境について「行こかウラジオ、帰ろかロシア、ここが思案のインド洋」などと言った。
また潜航水雷艇を保有している様な宣伝的放言もしている。

2月14日、三笠は朝鮮半島に面した鎮海湾に向けて出港した。
この三笠の乗組員の中で「軍楽隊」というグループがある。

旗艦である事もあって人数は多い。

戦闘になれば負傷者の運搬、伝令等で多忙。
海軍軍楽隊についての来歴。最初に軍楽隊を創設したのは薩摩藩。
文久三年(1863)、この藩が英国艦隊と戦闘した時、その戦闘中、英国軍艦上では士気を鼓舞するため軍楽が演奏され、薩摩藩士が敵ながら感動したという。
軍艦行進曲(マーチ)の作曲者瀬戸口藤吉も薩摩生まれ。
日本海軍にあっては、戦闘中には別任務があったため軍楽を吹奏されることはなかった。

三笠が佐世保港を通る時「軍艦行進曲」が艦上で演奏された。

ポピュラーな曲が演奏されたのは日本海海戦を通じてこの時だけ。

旗を振る子供たちに応えるためだったろう。
三笠は佐世保港を出た。下瀬火薬と共に日本が誇るべき三六式無線電信機が装備されていた。
真之は七段構えの戦法を用意していたが、季節によってはもやや濃霧が立ちこめる。「願わくば、五月に来てもらいたい」と祈る真之。
東郷がここでやったのは、徹底的な射撃訓練。この頃の訓練に「内膅砲射撃」というものがあった。小銃を大砲内に設置して、それにより照準を合わせ小銃弾を発射する(砲弾の節約)

このための内膅砲弾薬が、年間使う量を10日で使い切ったという。
目標の識別についても、位置でなく艦名でで命じるために艦の形と名前を暗記した。「「アレクサンドル三世」は呆れ三太、「ドミトリー・ゴンスコイ」ならゴミ取り権助。
砲術についても画期的な方法を採用した。一艦の砲火指揮を艦橋でおこなうもの。従来は各砲単位で行っていた。
だがこの時点で伝声管設備がなく、メガホンや伝令を利用。
この新方式は黄海海戦で三笠の砲術長加藤寛治少佐が考案し、実戦に使ったものだが、当時の英国観戦武官ペケナク大佐がこれを見て、研究報告として東郷に提出した。

これを見た東郷がバルチック艦隊との決戦への使用を決定した。


印度洋
東郷が鎮海湾に入った時、ロジェストウェンスキーとその大艦隊は、まだノシベの酷暑の中にいた。艦船四十数隻、乗員一万二千。
この間、信じられないことだが、一度も幕僚会議が開かれなかった。

自分たちがどこへ行くのかさえ知らなかった。
本国の海軍省は帰還を命じるそぶりも見せないが、ロジェストウェンスキー自身は一大海戦をやるというより、損害少なくウラジオストック入りしたいと思っていた。

東郷艦隊が鎮海湾で、兵員慰安のための上陸を一切許さなかったのに対し、ロジェストウェンスキーはロシア軍の慣例でそれを許した。
よってヘリウィユという小さな漁村は、たちまち歓楽街になった。

英、独、仏といった国籍の女は士官対応。
酒を売る店も無数に出来、そうした事で起きるトラブルは艦長が処理した。
ロジェストウェンスキーの風貌は、非常に優れた造形性を持っていた。貴族の出ではなかったが、風貌は貴族そのもの。

 

もし戦争がなかったら、海軍の逸材として幸福な余生を送っただろう。
ロジェストウェンスキーの、恐るべき「えこひいき」は水兵までが知っていた。迎合する艦長を重用し、むしろ有能で部下にも評判のいい艦長を嘲罵した。

どうやらノシベを出るという噂が流れ始めたのは3月に入ってから。

ドイツ汽船が物資を満載して回されて来た時、ロジェストウェンスキーは全艦隊に24時間以内の積み込みを命じた。
艦という艦が物資満載の状態。戦艦アリョールの技師ウラジミール・コスチェンコは、この積み過ぎで艦の復元力にも影響が出ている事を心配した。他の艦も同様。
出港を前に、新妻に書留を出すため郵便局に行ったポリトゥスキーは、親しくなったフランス人吏員に出港を告げた。
その日の正午、抜錨され、見送ってくれるフランス駆逐艦に対し「ラ・マルセイエーズ」を吹奏した旗艦スワロフの軍楽隊。
印度洋を東進する大艦隊。通常よりもはるかに南の新航路をとった。それは各国の艦船に出会いたくないため。
旗艦スワロフは甲板にぎっしり石炭袋を積んで進む。

そのすき間に牝牛、牡牛。食糧、牛乳提供のためのものだが、排泄物が容赦なく出され、水兵が掃除をする。
小さな駆逐艦は始終石炭補給が必要であり、そのたびに艦隊が止まる。しまいにはロープで引かれることになった。
一ヶ所も給炭所を持たずに航海した事が「ロジェストウェンスキーの奇蹟」と言われたが、それを可能にしたのはドイツの石炭会社。

だがその石炭搭載作業が最も艦隊の力を消耗させた。


奉天へ
奉天に、クロパトキンがいる。

満州最大の都市、奉天。正式には奉天府という。
明の頃までは瀋陽と呼ばれていた。愛新覚羅ヌルハチがここを政都にし、後に太宗が治めて盛京と名付けた。

清朝の時代となって大規模な工事により巨大な城壁を築いた。
明治29年にロシアは満州鉄道敷設権を得て、その後義和団を鎮圧する名目で奉天を武力占拠し、ここにロシア風の大市街を作った。
日露戦争前開始前、奉天は既にロシア領だった。
クロパトキンの兵力は32万、砲千二百門。対する日本は兵25万、砲約千門。一大対決を行えば史上空前の大会戦となる。
日本は財政の危機を抱えていたため、決定的戦勝を得たい。

アメリカの仲介による和平工作も進めつつあった。
ロシアも大動員中であり、春になれば第四軍団がクロパトキンに届く。
渡河の点も考え奉天会戦は「春になる前に」というのが日本としての条件。
2月25日を以て満州軍の運動を開始する、と児玉は発動日を決めた。この大攻勢を立案したのは松川敏胤少将。それは中央突破作戦。ただそれには仕掛けがあり、まず敵の左を突いたのちに右を突き、その後手薄になっている「はず」の中央を突破する。
そんな風に都合良く敵が動くものか。
だが相手は過剰反応の神経を持ったクロパトキン。

成功するかも知れない。
この案に賛成した翌日から児玉は、朝日に合掌する様になった。

無宗教の彼が頼みにしたもの。この心労が児玉の寿命を縮めた。

児玉・松川案は、具体的には最右翼に置かれる鴨緑江軍(後述)が敵の左を突き、右を突くのは乃木軍。それが成功した後に中央の奥軍と野津軍が中央突破する。
乃木軍は突くだけでなく、敵の背後を脅かす役もあり重要な位置付け。
この作戦を知って、矛盾が多いと不満を言う若い参謀津野田大尉。よほどの機動力が必要なのに、鴨緑江軍に師団を抜かれた。

それへの手当ては老兵の後備旅団。
2月20日、各軍司令官が招集された。第一軍の黒木、第二軍の奥、第三軍の乃木、第四軍の野津。それぞれに参謀も加わる。
作戦計画は既に開示されているため、形式的な集まり。
会合のあと津野田が松川を訪ねた。作戦遂行には兵力不足だとの指摘。このやりとりをしている時に乃木がその経過を聞きに来た。
松川としては、かつて乃木軍が旅順で兵力、砲弾とも潤沢に使い、優遇に慣れている事に腹が立っていた。
「総司令部は第三軍に多くを期待していない」と津野田にとって忘れがたい一言を吐いた。乃木の表情は変わらなかった。
実際総司令部に増強する余力はなく松川は、出来るだけ多くの敵を引きつけるという役目を話した。
「わかった」と言う乃木。
要はオトリになるという事。犠牲の甚大さに比して少ない成果はオトリの宿命。これが乃木自身の天運。

この奉天会戦で兵力、砲数とも劣る日本軍が頼みとした新しい兵器が機関銃。
旅順攻防戦でさんざん知らされた威力。東京の大本営で至急購入し、奉天作戦に間に合った。

その数254挺。クロパトキンのそれは56挺。

日本軍の最右翼に出来た鴨緑江軍について。
東京大本営の陸軍少尉長岡外史の発案。講和談判になった時に、政略的に土地を占領するための軍を用意しておくもの。
兵力に乏しい中、賛同する者は少なかったが、政略上無視も出来ない。
突如東京から、第十師団長川村景明を鴨緑江軍司令官にする旨の通告があった。
現地と東京で激烈な論争がある中、東京へ召喚され、山県有朋から鴨緑江軍の趣旨を聞かされた川村だが、煙台の総司令部に戻り大山・児玉に「臨機に満州軍の命令に従います」と言った。

山県も多少の柔軟性を与えた。
その結果鴨緑江軍が、本作戦で最右翼を担うこととなった。
その中核はかつて乃木軍隷下にあった第十一師団と、老兵が集まった後備の一個師団。

この程度でどれほどの戦闘力があるかは疑問だった。