法華堂の不空羂索観音

 

 

東大寺の法華堂によくお参りします。堂内に据え付けの長い台があって、座って拝観できるのです。不空羂索観音など天平の仏を前にしていると心が落ちつきます。

 

 

法華堂の隣には、お水取りで有名な二月堂や、小さなお堂の四月堂があります。東大寺のこのエリアは上院地区といいます。法華堂は不空羂索観音、二月堂、四月堂は十一面観音が本尊です。かつては、法華堂の南東、手向山八幡宮の上あたりに千手観音を祀る千手堂がありました。このあたりは「観音聖地」になっているのです。

 

 

二月堂

 

四月堂

 

 

東大寺といえば大仏殿を思い浮かべますので、廬舎那仏の大仏とともに生まれた寺と考えがちですが、大仏殿は後補の大伽藍にすぎません。最初に「観音聖地」である上院地区が造営されたのです。

 

 

聖武天皇・光明皇后の長男である基親王(もといしんのう)は、病のため1歳になる前に亡くなりました。息子の病と死に打ちひしがれた聖武天皇・光明皇后が救いを求めたのが観音菩薩でした。

 

 

息子を弔うために造った山岳寺院――それが東大寺の起源です。

 

 

■年表

 

727年(神亀4年)

9月 聖武天皇の皇太子、基親王が誕生

11月 基親王を皇太子に任命

 

728年(神亀5年)

8月 聖武天皇が基親王の病気平癒を願って、観世音菩薩177躯の造像を指示。

9月 聖武天皇の基親王が薨去

11月 基親王の菩提を追善するために山房造営を命じる

 

 

■観音菩薩にすがる

 

東大寺の起源は、神亀4年から5年にかけての1年間に凝縮されています。基親王は聖武天皇、光明皇后待望の男の子でした。誕生したときの喜び方はたいへんなもので、誕生から1か月あまりで皇太子に任命したほどです。しかし、神亀5年8月、「皇太子寝病。経日不愈」(続日本紀)となり、1か月ほどで薨去しました。天皇の悲しみは大きく、「天皇甚悼惜焉(天皇甚だ悼み惜しみたまふ)」(同)と記録されています。

 

 

観音菩薩は現世利益を代表する仏です。天皇は、息子の病気を治したい一心で、観音菩薩177体を造るよう命じました。このなかには、法華堂の不空羂索観音も含まれていたと私は考えています。この177体の造像指令が、上院地区が「観音聖地」となる原点です。

 

 

息子が亡くなると、聖武天皇は、従四位下の智努王(ちぬおう)をトップとして「山房」を造らせ、9人の僧を選んで山房に住まわせました。この山房について、教科書裁判で有名な家永三郎氏はいち早く、山房が東大寺の前進の金鐘寺であるとの説を唱え、今日までこの考え方が支持されています。

 

 

「おそらくこの『山房』なるものは、幼くして世を去り給うた皇太子の御冥福を祈り給ふ叡慮によって建立せられた一山堂であつたと考へられるのであるが、けだしこれこそ天平八年の正倉院文書に見える「山房」すなはち後年の金鐘寺の創建を告げるものであつたらう」(家永三郎「上代佛教思想史研究」、1942年)

 

 

上院地区には、のちに大掛かりな写経所が設けられた福寿寺という寺も造営され、金鐘寺と福寿寺が合併して金光明寺となり、国分寺となりました(国分寺には橿原にあったとする異説があります)。

 

東大寺山堺四至図

 

東大寺長老の森本公誠氏は、東山の寺院群について、「山房を経典に説く補陀落山に見立て、皇太子の冥福のための霊場にしようという意思が読み取れる」と指摘しています。「東大寺山堺四至図」という絵図を考察し、三方を川で区切られている寺域が、三方を海に囲まれた補陀落山と似ていることに気付いたのです。補陀落山は、南インドにある八角形の山で観音菩薩が降り立つ山とされています。興福寺の南円堂は補陀落山と同様、八角形ですし、法華堂の基壇も八角形です。東大寺、興福寺には、補陀落山の観音霊場のイメージが投影されているのです。

 

 

■法華堂は語る

 

法華堂

 

 

法華堂は、2度の兵火に襲われた東大寺に残された数少ない創建当時からの建物で、安置されている仏像群も天平時代のものです。創建年については天平12年から20年まで諸説ありましたが、近年のハイテク調査でしぼられつつあります。

 

 

平成22年度から24年度にかけての調査で、不空羂索観音が立っている八角形基壇内部の井桁材の伐採年を年輪年代測定法によって測定したところ、神亀6年(729年、天平元年)という結果が出ました。法華堂正堂の通肘木(とおしひじき)は730年、間斗(けんと、桝形)は731年でした。

 

 

つまり、仏像とお堂に使われた木材は、基親王が薨去して間もない時期に伐採されているのです。部材を10年も寝かせることは考えられません。「東大寺要録」では、法華堂の創建を学説より早い時期、天平5年(733)としています。年輪年代測定によって「要録」の記述は真実味を増しています。不空羂索観音は、聖武天皇が728年に発願した177体の観音像のひとつで、シンボル的存在と考えても測定データと矛盾しません。

 

 

■金鐘寺の場所は?

 

丸山西遺跡の大平坦地

 

もともとは、法華堂こそ金鐘寺の金堂だと考えられてきましたが、今は、上院地区から谷を隔てた山腹にある平地、丸山西遺跡が金鐘寺だとする説が有力です。大仏殿の北側の道を東にまっすぐ行くと、奈良奥山ドライブウェイに出る沢筋の道になります。ここは私の高校山岳部時代のランニングコースでした。その道の左側に丸山という山があって、その西側斜面に三つほど平坦地があり、それが「山房」(金鐘寺)とみられています。

 

 

 

地図でみると、平坦地であることがわかります。奈良公園までバイクを飛ばして、丸山の斜面を登ってみました。沢筋の道から山に入ります。鹿が上からじっと私を見ていたあたりが最初の平坦地でした。さらに登ると、広い平坦地に出ました。

 

 

地面はシダに覆われ、低木が行く手を阻みます。頭に蜘蛛の巣がまとわりつき、鼻の穴には虫が入る。負けず全体を歩いて草木を取り払った土地を想像してみると、大寺の金堂規模の施設は建てられそうです。足元には、あきらかに自然石ではない平たい「石」が無数にあって、これは古代の瓦なのでしょう。ここから南の方へ行くとさらに平坦地があって、きれいな瓦が木に立てかけられていました。ここにもそれなりの規模のお堂は建てられるでしょう。沢に降りて向かいの斜面を登っていくと二月堂の上に出ます。

(丸山西遺跡に行かれる方は、山歩きの靴を履くことをお勧めします)

 

丸山西遺跡の瓦とみられる遺物

 

■大仏殿なぜここに

 

 

聖武天皇は天平12年(740)から5年間の謎の旅に出ます。この間、京都府の恭仁京、大阪府の難波宮と滋賀県の紫香楽宮と目まぐるしく遷都しました。息子を亡くしてからといもの、内乱や疫病、地震と苦難続きだったため、精神的に変調をきたしていたのかもしれません。大仏造立の詔は、「遷都彷徨」の最中、天平15年に出されました。大仏はもともと紫香楽宮の近くの甲賀寺で造立する計画で、骨柱も立てられましたが、天平17年の平城京遷都によって新たに大仏のための寺地が選定されます。それが、山房から発展した金光明寺でした。

 

 

では、なぜ金光明寺の選んだのでしょう。①大和を代表する国分寺だった②廬舎那仏は華厳教理の具現であって金光明寺は華厳の研究が進んでいた③鋳造にたくさんの土が必要なので山際が都合がよかった――など、理由については諸説があります。しかし、それらはどれも充分な説得力がありません。

 

 

①金光明寺が国分寺になったのは天平14年とみられており、まだ出来立てほやほやでした。大仏造立は国分寺の指定よりはるかに難事業ですから、大仏の位置に合わせて国分寺を移せばよいことでしょう。②華厳の研究は金光明寺より大安寺の方が先進的でしたので理由になりません。③大仏殿用地は、東山を削って平たくしたものです。東大寺から上院地区へ上る途中に勾配が急になっているところがあって、天平の造成が体感できます。しかし、奈良の山は盆地を取り囲むようにあって、どこを削っても用地と鋳造のための土は確保できたでしょう。

 

 

そうすると他に理由があったのでしょう。聖武天皇、光明皇后の胸中に「息子・基親王の菩提のため」という気持ちがあったのではないかと私は考えます。もちろん、大仏造営の詔には、息子の「む」の字もでてきません。

 

 

「誠に三宝の威霊に頼り、乾坤相泰(あいやすら)かに万代の福業を修めて動植咸(ことごと)く栄えんことを欲す」(続日本紀)。

 

 

詔は「仏教の力で天下泰平を図る」という大義を謳っています。しかし「息子追善の山房」の足下に大仏が造営されたという事実が、なにより聖武天皇と光明皇后の気持を表しているのではないでしょうか。「乾坤相泰」の大義の基底に、息子への思慕があったのではないか、息子を弔う地の究極の荘厳として大仏があったのではないか、そんなことを考えます。

 

 

■興福寺

 

興福寺の阿修羅など八部衆の童顔も、基親王の面影を写しているのかもしれません。八部衆は、もともと光明皇后が天平6年(734年)に建立し西金堂に安置されました。息子を失って6年後のことです。八部衆は、阿修羅はもちろん、沙羯羅(さから)も五部浄像(ごぶじょう)も幼い少年の顔です。7歳になっていれば、きっと基親王はこんな顔ではないかと想像して造ったように思えてなりません。東大寺、興福寺が、息子への思慕を映したものだと考えると、奈良公園は違った見え方がしてきます。

 

沙羯羅

五部浄

 

 

■那富山(なほやま)

 

「葬於那富山。時年二」(続日本紀)。基親王が葬られたとされる那富山は、奈良市法蓮佐保山3丁目の墳丘に治定されています。那富山の近くには聖武天皇、光明皇后陵があります。子供は親の近くに眠らせてあげたいと思うのが人情でしょうから、明治期に治定した人も位置関係は意識したに違いありません。聖武陵の周辺からは、東山の二月堂がよく見えます。奈良時代には、息子を追善した金鐘寺の甍も見られたことでしょう。

 

 

那富山

 

那富山には、隼人石と呼ばれる謎の石があります。墳丘の四隅に置かれた石に獣頭人身像が線刻されています。獣頭はネズミ、牛、犬、ウサギに見えます。これらは十二支の動物ですので、隼人石は十二神像の一部のようです。制作年代は不明です。謎の石は江戸時代から研究者の注目を集め、明治32年に東大寺大仏殿で開かれた奈良博覧会でも出陳されました。

 

 

この隼人石の存在も治定に影響したかもしれません。幼子の御霊を慰めるのに動物の絵はふさわしい。このネズミが「天平のミッキーマウス」であった可能性はあります。

 

 

隼人石のネズミ

 

 

那富山への道は、遊園地だった旧ドリームランドのメインストリートと並行しています。ドリームランドは2006年に閉園しましたが、往時はこのあたりに子供たちの歓声や絶叫が響いていました。幼子の墓に接して遊園地があったというのも、奇縁です。跡地は、今は廃材がうずたかく積まれた広漠とした空地になっています。

 

ドリームランド跡地