古い人間なのでしょうか、なにからなにまでAI(人工知能)で片づけてしまうことに抵抗感があります。とりわけ心の領域にAIが入ってくるのは御免こうむりたい。AIに感動させられてなるものか、人間の心はそんな安もんじゃない、と言いたい。やはり感動は、人間や人間の所産、大自然に対するものであってほしい。システムが自動生成したものに感動したくはないのです。

 

 

車の運転は任せてもいいでしょう。将棋や碁で負けるのもいたしかたない。東大に入ってもよろしい。しかし、芸術の分野に入ってくると要警戒です。感情に左右されない冷厳な知能を特徴とする存在に、芸術作品を創造するのは無理だろうと思っていたらそうでもないようで、このところ小説を書くは、絵は描くはで、アートのAIに対する防壁は崩れかけつつあるのです。

 

 

■AI俳句「一茶くん」

 

AI俳句協会のサイト

 

俳句をつむぐAIがあります。名は「一茶くん」。実証実験は20179月に始まり、「AI が最も不得意とされている「感性」や「独創性」の結実した『俳句づくり』に挑戦」しています。小林一茶や正岡子規、高浜虚子や現代の俳人が詠んだ計約50万句を教材に学習しており、1時間に10万句以上創作できます。

 

 

一茶くんの自信作?はこれ。

 

 

「初恋の焚火の跡を通りけり」

 

 

AI俳句協会のサイト(https://aihaiku.org/)では、気に入った俳句を採点して論評できます。「初恋の焚火…」はランキング1位(ランキングは変動します)でした。評価者数22人、評価は4段階の3.14です。反AI芸術派の私も残念ながら「ちょっといいかな」と思ってしまいました。

 

 

「初恋の焚火の跡」は、わからないようでわかる。「初恋の人とあたった焚火の思い出の地」とも取れますし、比喩として「燃えた初恋の思い出の地」とも、場所としてとらえずに「初恋の記憶」とも解釈できます。なんらかの出来事があって、昔の初恋を思い出し、当時の熱情や切なさが心にわきあがった。読み手の想像をかきたてる句です。

 

 

サイトに表示されている自動生成俳句を見ていると、現段階では言葉の取り合わせが変なのが目立つ。「遠くより母を呼び減る花のかな」「連翹や陪審廷の笹ほぐれ」といった意味不明のものもあります。しかし、「初恋の焚火…」のように、たまに「意味不明」と「意味深長」の間ぐらいになることがあって、そうなるとほどほどの出来栄えになる。数打ちゃ当たるのです。

 

 

AIに借名された小林一茶

 

 

■大家VS一茶くん

 

フランス文学者の桑原武夫(1904〜1988)は、昭和21年、岩波の雑誌「世界」に「第二芸術―現代俳句について」とする論考を発表し、その中で大家と一般の人の俳句を列記しました。それにならって大家のあまり知られていない作品と「一茶くん」の句を並べてみましょう。みなさんはどれが「一茶くん」の句かわかりますか。大家と「一茶くん」、5句ずつです。

 

 

①子を殴ちしながき一瞬天の蟬

②黴よりも病む君の顔美しく

③唇のぬくもりそめし桜かな

④蛍獲て少年の指みどりなり

⑤羽子板や嘘うつくしき人とをり

⑥てのひらを隠して二人日向ぼこ

⑦人の世は命つぶてや山桜

⑧冬の蠅死なねばならぬ逢瀬かな

⑨降る雪が月光に会う海の上

⑩人入って門のこりたる暮春かな

 

 

大家は①秋元不死男④山口誓子⑦森澄雄⑨鈴木六林男⑩芝不器男です。残りは「一茶くん」です。いずれもサイトでランキング上位の句です。さあ比べて見ていかがでしょう。心に刺さるかどうか。AI俳句も侮れないとはいえ、やはり言語操作によってできた句特有の軽さ、あざとさ、うそっぽさがつきまといます。句の奥行き、深みが大家のものとは違います。現時点では名句とAI俳句の懸隔は大きい。

 

 

■第二芸術論とAI

 

桑原武夫氏

 

桑原武夫氏「第二芸術論」で大家と一般の人の句を並べたのは、「一句だけではその作者の優劣がわかりにくく、一流大家と素人との区別がつきかねる」ことを示すためでした。作品の評価が芸術的評価の上に成立しないため、俳句の世界には結社の党派性や俗物性がはびこり、作品は沈滞してマンネリ化すると批判します。そうした俳句には、近代芸術の対象である「いまの現実的人生」を反映させることはできず、老人の菊づくりのようなものなので、「『第二芸術』と呼んで、他と区別するのがよいと思ふ」と述べました。

 

 

ここで私が俳句を列記したのは、桑原氏とは逆に、俳句は一つの作品でも良し悪しの差が歴然としていることを示すためです。俳句すべてを芸術と言う気はありませんが、俳句の中に芸術があることは間違いありません。自然に仮託してこそ表現できる人生があります。

 

 

ところでAIは、結社の党派性とは無縁なので、自由に創作でき、この点でいえば、一般の俳人より芸術に近い存在なのかもしれません。しかし、AIには決定的に欠いているものが二つあって、それは「人生」と「詩魂」です。AIは、死すべき存在として現代を生きておらず、その限界からくる詩情を把握することも表現することもできません。AIにあるのは、「どの言葉の配列が人に評価されるか」を追求するゲーム的知能だけです。この言葉と言葉を組み合わせると人間は感動するんだな、ということを恐ろしく高速度でディープラーニングしていく。その先にあるのは、心に刺さらない、しかし上手な、優等生的な作品群でしょう。

 

 

「人生」と「詩魂」を欠いた、まさに「第二芸術」と呼ぶにふさわしいAI俳句が1000万句作られたところで、人生と苦闘する人間の一瞬のひらめきを超えることは難しいでしょう。

 

 

■俳句の未来

 

しかし、そうも言ってはいられない時代が来るかもしれない。なぜなら、人間の感性自体がAIによって変質してくる可能性があるからです。

 

 

令和はバーチャルな世界が加速します。令和10年頃には「テレイグジスタンス(遠隔臨場感)」が広まると見られています。これは遠くのロボットを動かして、現地の感覚情報を目、耳、肌で受け取る技術です。俳句でいえば、ロボットを名所に派遣して歩かせ、人間は自宅に居ながら吟行できるのです。

 

 

これは、私たちの感覚がシステムに依存することになる時代が迫っているということです。本当は見ていないこと、聞いていないこと、感じていないことがシステムによってリアルに伝えられ、それによって起こる情動をもとに俳句が作られる。実体をともなわないバーチャルな感動から生まれる俳句は、はなからシステム的に生成するAI作品とたいして違わないのでは、という論も出てくるでしょう。感動の質にも影響して人間の詩魂が弱くなっていくかもしれません。

 

 

「心」が技術の中に溶解していく…。そんな時代に、後世の人たちはどう生きていくのでしょうか、心配性に火が付きます。