4月8日の朝日新聞夕刊を見ていると、こんなおことわりがでていました。「大阪や兵庫など7都府県に対する政府の緊急事態宣言を受け、今年の桜だよりは7日付で終了しました」。新聞から「桜だより」が突然、消えてしまったのです。

 

 

「密集」「密接」の場になると、今年は花見さえままなりません。それでも、桜は咲きます。こんな時だからこそ、咲き競う桜が、よりいとおしく思います。「年年歳歳花相似たり」。新型コロナウイルスの感染拡大で「有事下」の世にあって、なにも変わらない自然の営みが尊く感じられます。

 

 

うちの近所でも、ソメイヨシノが咲きました。

 

 

 

 

奈良県橿原市の耳成山公園

 

 

藤原宮跡。菜の花とのコントラストがきれいですね。

 

 

■ソメイヨシノ

 

全国の桜の名所を彩るソメイヨシノは「ヨシノ」というくらいだから、奈良・吉野に起源のある桜だと思われている方も多いと思います。でも、吉野の桜の中心は「シロヤマザクラ」。ソメイヨシノは吉野が原産ではないのです。

 

 

江戸時代に染井村(東京都豊島区駒込)の植木職人が交配によって生み出しました。交配したのは、エドヒガンザクラとオオヤマザクラです。古来、さまざまな説がありましたが、1997年、遺伝子解析によって確定しました。このサクラ、吉野をリスペクトして当初は「吉野桜」と名付けられていました。一種の産地偽装でしょうか。やはり、吉野で育ったわけでもないのに「ヨシノ」と言うのはいかがなものかという声が出て、誕生の地「ソメイ」を冠して「ソメイヨシノ」と呼ぶようになったのです。

 

■吉野の桜

 

ブランドを借用されるくらいでしたから、吉野は江戸時代まで日本を代表する桜の名所でした。吉野は多くの文人に歌われました。西行は出家して数年経った30歳手前の頃、庵を結んだといわれています。

 

吉野山 こぞのしをりの 道かへて まだ見ぬかたの 花をたづねむ(新古今集)

(大意:去年と違った道を歩いて新し桜を見つけよう)

 

 

では、そもそも、なぜ吉野にサクラがたくさんあるのでしょうか。これには吉野修験道がかかわっているのです。修験道の祖とされる役行者は、山上ヶ岳で蔵王権現を感得してサクラの木に刻みんだと伝えられています。

 

 

役行者の感得は伝説です。しかし、こうした伝説が流布したことから桜は蔵王権現の依代として神格化され、切ったら死罪という時代もありました。まるで、奈良公園の鹿のようですね。信者らが次々と献木し、今も大切にされているので、吉野の桜は200種3万本になっています。

 

 

「桜に刻んだ」という言い伝えができたのにはきっと訳があります。蔵王権現が信仰の対象として確立したのは平安時代中期です。この頃、吉野の植生において、ヤマザクラが多かったのでしょう。修行僧たちがこれに像を刻んだ。桜の木は硬いのですが、目が緻密で、細かい細工に向いています。仏像彫刻の素材としては、日本では当初、クスノキが用いられ、次にカヤやヒノキも使われ、平安中期になると、ケヤキ、カツラ、サクラといった広葉樹も使われました。インドで檀像を刻んだ赤栴檀の木は、中国では魏氏桜桃、日本では桜が代用されたとの説があります。

 

 

それと、修験道が起こる前から、桜は農耕民にとって霊木でした。こよみの指標となったからです。いわば、農耕を始めるファンファーレのようなものがサクラの開花でした。「今年もがんばるぞ」という気持ちを喚起してくれるのです。吉野の僧たちが桜に注目したのには、里での生活の記憶も手伝っていたのでしょう。

 

 

■蔵王権現の祈り

 

 

蔵王権現

 

蔵王権現は、当ブログにもたびたび登場しますが、かいつまんで言うと、神と仏が山中で合体した究極の存在です。「金峯山秘密伝」には、金峯山(山上ヶ岳)で役行者が守護仏を求めて祈念すると、釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩が現れたものの行者は優しい顔に満足せず、さらに祈ると、青黒で忿怒相の金剛蔵王が岩から湧出したと書かれています。役行者が忿怒相を求めた伝説ができたのは、修験者たちの中に魔障降伏(ましょうごうぶく)パワーへの希求が強かったからでしょう。彼らは山の霊力を身に着けて里に降り、人々の期待を背に疾病や天変地異などの魔障と対峙しました。蔵王権現の上げた右脚は、魔物を蹴散らしているからだともいわれます。

 

 

蔵王権現の依代である桜を見るにつけ、新型コロナという魔障の退散を祈る気持ちになります。