1970年11月25日、三島由紀夫が市ヶ谷駐屯地で自決してから、あすで50年になります。雑誌や新聞でよく特集を見かけます。きょうは、三島作品と奈良のかかわりについて書いてみたいと思います。45年という短い人生の中で三島は奈良に何度か足を運びました。特に、晩年の作である「豊饒の海」4部作において、奈良は重要な舞台になっています。1966年8月には、ドナルドキーン氏と三輪に3日間参籠し、山中の「三光の滝」にも打たれています。

 

大神神社を訪れた三島とキーン氏(朝日新聞奈良版から)

 

 

「豊饒の海」の重要な舞台「月修寺」は、奈良県人にもあまり知られていない寺院がモデルになっています。奈良市山町の円照寺です。JRまほろば線(旧桜井線)の帯解駅から東の山の方へ上っていった所にあります。斑鳩町の中宮寺、奈良市の法華寺とともに奈良三門跡のひとつに数えられています。門跡というのは、宮家や貴族の出家者を受けいれてきた寺ですね。

 

 

山門のくぐるとまず、唐破風の玄関のある寝殿造の書院が目に入ります。また境内にある宸殿は、京都御所の紫宸殿の古材を利用して建てられました。寺というより山中の御殿といった趣で、「山村御所」とも呼ばれるのも頷けます。拝観は受け付けていませんのでガイドブックにもほとんど載っていません。

 

 

拝観お断りの写真

 

■春の雪

「豊饒の海」第1部「春の雪」で聡子が出家するのが月修寺です。聡子は、綾倉伯爵家の一人娘で、幼なじみの松枝侯爵家・清顕と愛し合うようになり、清顕の子を懐胎します。仲を取り持ったのが、清顕の親友、本多繁邦です。聡子が子を宿したのは、宮家である洞院宮治典王のいいなずけになったあとのことで、納采の儀の日も迫る中、勅許に反する行為として松枝家や綾倉家を驚愕させました。松枝家は西郷家、綾倉家は岩倉家がモデルになっています。

 

 

弥縫策として松枝侯爵が考え出したのは、大阪で堕胎手術を受けさせることでした。しかし、理由もなく関西に行かせることはできず、大伯母である月修寺門跡に、宮家輿入れ前の「暇乞いのあいさつ」に行くという名目を付けたのです。予定通り手術を受けた聡子は、月修寺に一泊します。

 

 

円照寺山門

 

 

聡子と母が月修寺を訪れたのは11月18日です。ちょうど今くらいの季節ですね。母は山門近くの紅葉に嘆声を上げます。

 

 

紅葉のうしろのかぼそい松や杉は空をおおうに足らず、木の間になおひろやかな空の背光を受けた紅葉は、さしのべた枝々を朝焼けの雲のように棚引かせていた。枝の下からふりあおぐ空は、黒ずんだ繊細なもみじ葉が次から次へと葉端を接して、あたかも臙脂いろの笹縁(レエス)を透かして仰ぐ空のようだった。つらなる敷石の奥に玄関の見える平唐門(ひらからもん)の前で、伯爵夫人と聡子は俥を下りた。

 

 

聡子は遁世の志を固めていました。夜半、一人起き出した聡子は本堂の仏前にて、自ら髪を切り落としました。その切った髪を経机に供え、数珠を手にして一心に祈ります。心配して探しに来た母親は娘を抱きしめます。「お母(たあ)さん、他に仕様はございませんでした」と語る聡子の目には、蝋燭の焔と暁の白光が映っていました。

 

 

円照寺本堂は円通殿といい、伽藍では珍しい茅葺の建物で奈良県指定有形文化財になっています。本尊は如意輪観音です。直接はお目にかかったことはありませんが、写真でみると、中宮寺の弥勒菩薩、法華寺の十一面観音と同様、女性的な慈悲に満ちた相です。この尊像になら、聡子のように、自分の苦悩を委ねることができるでしょう。

 

本尊・如意輪観音

 

 

■唯識小説

円照寺は臨済宗妙心寺派ですが、月修寺は法相宗の寺になっています。三島は「豊饒の海」で、法相宗の根本教義である唯識説の世界観を描こうとしたので、この寺は法相宗でなければならなかったのです。

 

 

唯識説というのは一言で言うと、私たちが実在していると思っているものは、心がつくり出したものにすぎない、という思想です。心が心の上に浮かんだものを見ている。心は見る領分(見分)と見られる領分(相分)に別れていて、そのために外側の世界が実在していると錯覚するのです。4・5世紀の学僧で、興福寺の北円堂に像がある無著と世親兄弟が体系を構築しました。その考え方は「唯識三十頌(さんじゅうじゅ)」に簡潔にまとめられています。

 

興福寺の世親像

 

無著像

 

三十頌では「初阿頼耶識(初めは阿頼耶識なり)」としています。阿頼耶識とは精神分析学でいう無意識の世界に近い。心の深いところの暗所に広がっています。違うのは、「無意識」が個人の生からは始まるのに対して、阿頼耶識は過去生から続いているところです。唯識は、すべてが阿頼耶識によって生み出されるという阿頼耶識縁起という考え方を取ります。過去の行ない「種子(しゅうじ)」はすべて阿頼耶識という蔵に貯蔵され、生死相続してくのです。

 

 

「春の雪」では、月修寺を訪ね、清顕を聡子に会わせるよう懇願してきた本多に対し、門跡が無著の「摂大乗論(しょうだいじょうろん)」を引いて唯識を説きます。その説明の一部が次のくだりです。

 

 

唯識説は現在の一刹那だけ諸法(それは実は識に他ならない)は存在して、一刹那をすぎれば滅して無となると考えている。(中略)存在者(阿頼耶識と染汚法)が刹那毎に滅することによって、時間がここに成立している。刹那々々に断絶して滅することによって、時間という連続的なものが成立っているさまは、点と線との関係にたとえられるであろう。

 

 

阿頼耶識も、それによって生み出された自己も世界も、「刹那滅」を繰り返す「点」です。ところが阿頼耶識は生死相続をする「線」でもある。我々の存在が線でもあり点でもあるところに、「豊饒の海」の、ひとつの読み解き方が成り立つでしょう。

 

円照寺境内

 

■天人五衰

月修寺で聡子に面会を拒絶された清顕は肺炎をこじらせて20歳で早世します。本多はその後の人生で、脇腹の三つのほくろという共通点から、右翼青年の飯沼勲やタイ王女・月光姫(ジン・ジャン)について清顕の転生を信じますが、2人とも20歳で他界します。そして、第4部の「天人五衰」で、本多は、同じほくろをもつ安永透を養子にしますが、この転生譚を知った透は20歳で服毒自殺を図って失明してしまいます。81歳となり、自分の死期が近づいたことを悟った本多は聡子がいる月修寺を再訪します。

 

再訪は7月22日でした。膵臓がんを患う本多はあえぎながら暑熱の参道を登ります。

 

黒門をすぎると、山門はすでに眼前にあった。ついに月修寺の山門へ辿り着いたかと思うと、自分は六十年間、ただここを再訪するためにのみ生きて来たのだという想いが募った。

 

 

濃紫の被布を着た聡子が、弟子に手を引かれて本多の待つ書院の客間に現れました。60年ぶりの再会に、本多の目には涙がにじみます。

 

 

卓を隔てて目の前に坐られた門跡は、むかしにかわらぬ秀麗な形のよい鼻と、美しい大きな目を保っておられる。むかしの聡子とこれほどちがっていて、しかも一目で聡子とわかるのである。六十年を一足飛びに、若さのさかりから老いの果てまで至って、聡子は浮世の辛酸が人に与えるようなものを、悉く免かれていた。

 

 

老いが衰えの方向へではなく、浄化の方向へ一途に走って、つややかな肌が静かに照るようで、目の美しさもいよいよ澄み、蒼古なほど内に耀(かがよ)うものがあって、全体に、みごとな玉(ぎょく)のような老いが結晶していた。

 

 

しかし、その聡子から聞かされたのは、想像もしない言葉でした。松枝清顕など知らない、人違いではないか、というのです。怒りにかられ「御存知でないはずはない」と詰め寄ると「その清顕という方には、本多さん、あなたはほんまにこの世でお会いにならしゃったのですか?」「記憶と言うてもな、映る筈もない遠すぎるものを映しもすれば、それを近いもののように見せもすれば、幻の眼鏡のようなものやさかいに」。聡子は声も目の色も乱さずに美しい声で語るのでした。

 

 

本多に突き付けられたのは、60年前に聡子の大伯母が語った刹那滅でした。阿頼耶識は「幻の眼鏡」をかけさせるのです。突然、記憶と幻、実在と虚無のはざまに落とされた本多は狼狽します。清顕がいなかったとすれば、勲もジン・ジャンもいなかったことになる。「その上、ひょっとしたら、この私ですらも…」。唯識の説法師である聡子は本多の目を見据えます。「それも心々(こころごころ)ですさかい」。

 

円照寺境内

 

■昭和天皇の妹

この寺を巡っては綾倉聡子も驚くような風聞があります。それは、いないことにされた昭和天皇の妹がこの寺の門跡だったというのです。皇室ジャーナリストの河原敏明氏が「昭和天皇の妹君―謎につつまれた悲劇の皇女」に書いています。大正天皇と貞明(節子)皇后の第4子として生まれた三笠宮は実は女子との双子で、当時は双子を「畜生腹」として忌む因習があったため、妹は京都に里子に出されました。この妹こそ、円照寺門跡の山本静山(じょうざん)尼だというのです。

 

 

山本静山尼は、子爵・山本実康の末女とされており、5歳という幼い年齢で京都大聖寺に入れられ、のちに円照寺へ入山し、第十代門跡となりました。1995年に79歳で亡くなっています。聡子のモデルは山本静山尼との説があります。三島も静山尼に会っており、その気品を絶賛していました。静山尼は華道山村御流の初代家元でもあり、利休の「花は野にあるように」を実践しました。

 

 

双子説については、三笠宮本人も宮内庁も否定しています。しかし、菊のカーテンの向こう側は今も昔も見えません。円照寺は謎の中に静まりかっています。

 

追伸

11月25日の朝日新聞奈良版で「『豊饒の海』ゆかりの地巡る」を特集していました。そこには円照寺も取り上げられています。1965年以来、三島は取材でたびたび訪れ、最後の訪問は死の4か月前でした。2018年に門跡に就いた萩原道秀さんは三島の取材ノートを読み、境内の石畳の数や塀の様子まで正確に描写されていたことに感嘆したそうです。