富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「主の来臨の希望と忍耐」 テサロニケの信徒への手紙一、1章1~10節

2019-08-23 21:56:08 | キリスト教

     ↑ テサロニケの信徒への手紙一とは、何?●三週間の説教で建てられた教会●パウロがコリントで書き、テモテを遣わして送った手紙●教会はほとんど異邦人によって構成されている●非常に親しいー心と心の通う手紙ー「兄弟たち」という言葉を14回使用ーパウロは彼らのために常に祈った。この教会は他の信徒たちへの良き模範として役立った。

 981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

       日本福音教団 富 谷 教 会    週 報

      聖霊降臨節第12主日 2019年8月25日   午後5時~5時50分

年間標語 「キリストのからだである教会のために、おのおのは分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆこう。」(エフェソ4・16)

聖 句 「御父が、その霊により、力をもって、あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」(エフェソ3・16-17)

         礼 拝 順 序

                 司会 斎藤 美保姉

前 奏              奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

交読詩編  121(目を上げて、わたしは山々を仰ぐ)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者の祈り

聖 書(新共同訳)テサロニケの信徒への手紙一、1章1~10節(p.374)

説  教    「主の来臨の希望と忍耐」 辺見宗邦牧師

祈 祷                  

讃美歌(21)  573(光かかげよ、主のみ民よ)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏

              次週礼拝 9月1(日) 午後5時~5時50分 

              聖 書 ヤコブの手紙1章19~27節

              説教題   「信仰の証し」

              讃美歌(21) 402 536 交読詩編 119

     本日の聖書  テサロニケの信徒への手紙一、1章1~10節

1:1パウロ、シルワノ、テモテから、父である神と主イエス・キリストとに結ばれているテサロニケの教会へ。恵みと平和が、あなたがたにあるように。 2わたしたちは、祈りの度に、あなたがたのことを思い起こして、あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています。 3あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。 4神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています。 5わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです。 6そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、 7マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです。 8主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです。 9彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです。すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、 10更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。

          本日の説教

 <テサロニケの信徒への手紙一>は、新約聖書の中で、一番最初に書かれた書です。主イエスの十字架の死の後、二十年位い過ぎた紀元50~52年頃、パウロが第二伝道旅行中、コリントに滞在中に、テサロニケの教会宛に書いた手紙です。ちなみにマルコ福音書は70年頃、マタイ、ルカは80年頃、ヨハネ福音書は90年頃に書かれています。

      

 上の地図の実線が第二伝道旅行です。紀元50年頃、パウロはシラス(シラスはアラム語名、シルワノはラテン語名)を連れて、第一伝道旅行で設立したガラテヤ州の諸教会を訪ねました。リストラでテモテを同行させ、西のアジア州のエフェソに行こうとしたが聖霊によって禁じられ、北のビティニヤに入ることも禁じられ、聖霊に導かれてエーゲ海の港町トロアスに着きました。トロアスで、マケドニア人の招く幻を見たパウロは、海を渡ってヨーロッパへ伝道する決意を与えられました。使徒言行録を書いたルカも加わって、トロアスから船出し、サモトラケ島を目指し、次にフィリピの外港ネアポリスに上陸し、そこからフィリピに行きました。

フィリピでは、リディアという婦人とその家族が洗礼を受け、リディアの家での集会が始まりました。次に訪れたのがテサロニケです(使徒言行録17章1-9節)。当時テサロニケはローマ帝国のマケドニア州の首都で、ローマの州総督府がおかれ、商業も盛んな港町でした。現在はギリシャ共和国のテッサロニケという都市です。テサロニケにはユダヤ人も多く住んでいたので、彼らの会堂でパウロたちは福音を語りました。キリスト者の群れが誕生し、改心者たちはユダヤ人のヤソンの家で集会するようになりました。しかし、ユダヤ人の迫害に会い危険が迫ったので、パウロたちは急遽立ち去らなければなりませんでした。

パウロはベレヤを経て、アカイヤ州のアテネに行きました。そこで、パウロはテサロニケ教会のことが心配なので、テモテをテサロニケに派遣しました(テサロニケ一、3:1~10)。パウロはその後、コリントに行きました。そこにテモテが帰ってきて、テサロニケ教会の事情を報告したのです。テサロニケの手紙一、3章6節から13節の部分に、その報告を聞いてパウロは喜びにあふれ、今なお艱難と迫害の中にある教会を励まし力づけるために手紙を書き送ったのです。それが<テサロニケの信徒への手紙一>なのです。

     現在のテッサロニケ

1節の挨拶の中で、パウロはパウロと共に同行し、活動した「シルワノ(=シラス)とテモテの名を記し、テサロニケの教会の信徒に「恵みと平和が」あるように」と祝福しています。「恵み」はイエスの十字架において実現された罪の赦しであり、そこに神との間の「平和」が生まれるのです(ローマ5:1)。

2節で「祈りの度に、あなたがたのことを思い起こし」は、執り成し祈っているこを述べ、「あなたがた一同のことをいつも神に感謝しています」と述べています。

3節で感謝の理由を述べます。「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である神の御前で心に留めているのです。」とあります。

テサロニケの信徒たちの信仰生活を表現した、信仰、愛、希望という三つの具体的な行動が記されています。これはすべてのキリスト者にも共通する基本的な生活態度です。5章8節でも、<信仰と愛を胸当としてつけ、救いの希望をかぶととして身をつつしんでいましょう>と勧められています。

<信仰による働き>とは、どんなことを指すのでしょうか。信仰とは、神が下さったイエス・キリストによる救いを受け入れることであり、神に私たちが向ける信頼です。神の愛によって信仰が生まれ、信仰者には聖霊による新しい生命が与えられます。<信仰による働き>とは、信仰が聖い生活をさせる原動力となり、神に喜ばれる生活、良い業を行わせます。

信仰は「愛」として働くものでなければなりません(ガラテヤ5:6)。「愛」は、十字架によって示された神の愛、罪を赦す愛、見返りを一切求めない、自己犠牲をいとわない愛です。値のない者を愛し、価値を与える神の創造の愛です。この神の愛が宣教と奉仕のための労苦の原動力となるのです。キリストを通して与えられる神の愛に満たさたキリスト者が、神を愛すとともに、隣人の兄弟姉妹に対して愛の労苦をいとわない者とされます。

さらに信仰は希望を生み出します。死人の中から蘇えらされた主イエス・キリストに対する希望であり、信徒も死で終わるのではなく、復活の恵みにあずかって、神との永遠の交わり入れられることが最終的な希望です。神の御国に迎えられるというという大きな希望があるからこそどんな試練にも耐え抜く忍耐を可能とするのです。教会はこの希望によって互いに慰め合い、いかなる苦難の中でも忍耐しつづけることができるのです。信仰・希望・愛は三つそろって、わたしたちの信仰を完全なものとするのです。信仰・希望・愛はキリスト者に与えられる霊的な賜物です。

 4節で「神に愛されている兄弟たち」とパウロは親しく呼びかけます。「あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」と述べます。兄弟たちは「神に愛されている」事実に目を向けさせます。それゆえどのような罪や弱さがあっても、神に愛されている者として互いに見つめ合うのが教会の交わりです。神が愛するということは、神が選ぶということです。神から遠い存在と思われていた異邦のテサロニケの人々が神に選ばれたのです。

 5節では選ばれるということの具体的な根拠について述べています。それは福音がもたらされたことです。この福音が「あなたがたに伝えられた」のは、ただ言葉だけによらず「力と、聖霊と、強い確信とによった」と、福音がどのようにして伝えられたかが述べられています。

6節では、福音を受け入れる側はどうであったかについて述べます。テサロニケの信者たちは、ひどい苦しみの中で(3:3-6)、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となった、と述べます。「あなたがたは……御言葉を受け入れ」たということは、神の奇跡的な恵みであり、「聖霊」の業なのです。「ひどい苦しみの中で」喜びをもって受け入れたのは、人間の努力や修養や頑張りによるのではなく、「聖霊による」のです。聖霊は人間に対して、不可能を可能にする神の力です。そこから「主に倣う者」としての人生が開かれていくのです。

7節の「マケドニア州とアカイア州」とは、当時のギリシア全体ということです。小さなテサロニケの教会の信徒たちが、全ギリシアの信徒の模範になるに至ったと述べています。

8節は、前文を説明し、「主の言葉があなたがたのところから出て、ギリシア全土に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので」す、と主の言葉が広まった様子がリアルに言い表されています。

9節の「彼ら自身がわたしたちについて言い広めているからです」の「彼ら自身」とは、7節の「すべての信者」を指します。「言い広めている」内容は、まずパウロたちが最初、テサロニケでどのように迎えられたかです。次にパウロたちが入っていった具体的な行動に対するテサロニケの人たちの反応として、まず「偶像から離れて神に立ち帰」るようになったことです。次に「まことの神に仕えるようになった」ことです。偶像は聖書では、むなしく空虚なものとして、きびしく、退けられてきたものです。真実の生ける神に出会うまでは、偶像がむなしいものであることに気付くことができません。しかし今や「神に立ち帰」ったのです。

10節では、さらに信仰は未来を開く力です。悔い改めて神に帰ることは、未来を待ち望むことであります。地上のうつろいゆくものに対する待望ではなく、天から来臨する御子への待望です。「御子が天から来る」という言葉の中には、希望に満ちた大きな喜びがあふれているのです。なぜなら「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエス」だからです。「来るべき怒り」は、人間の罪に対する神の審判であり、それはすでに歴史と人間の中に断片的に隠されて遂行されている神の義です。神の怒りはこの世の終わりに人間の罪に対する最後の審判として現れる神の義です。イエスの十字架こそ、人間の罪に対する神の怒りの裁きです。このイエスこそ神の怒りから私たちを救い出してくださる方です。御子イエスの身代わりの死によって、私たちを救い出される神の恵みの深さと赦しの愛の大きさを痛感するのです。

 キリスト者には大いなる希望が与えられています。それは世を去っても「キリストと共にいる」(フィリピ1:23)希望です。世の人々の希望といえば、健康になるとか、豊かになるとか、欲を満たすとか、地上の生活のことに向けられています。この世のことしか考えていません。その行き着くところは死をもって終わるはかない希望です。しかしキリスト者の本国は天にあります。そこから主キリストが救い主として来られるのを、キリスト者は待っています。十字架に架かり死んで、三日目に復活され、天に昇られた、イエス様が再び来られます。その時わたしたちの卑しい体はイエス様の栄光ある体と同じ形に変えられるのです。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない(黙示録21:3-4)」天の御国に迎えられる希望が、わたしたちに与えられているのです。

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「日毎の糧」の日課? (石田聖実)
2019-08-24 17:56:57
はじめまして
日本基督教団鈴鹿教会の石田ともうします。
もしかして、日本基督教団出版局の「日毎の糧」の主日聖書日課に従って説教をしておられるのでしょうか。
日本基督教団ではそれなりの数の教会が使っておりますが、他教派の方が使っておられるのは珍しいと思って、お尋ねしてみました。

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